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「ね、開けて」 このドアの向こう。 男が囁く。 数年ぶりに、里に嵐が近づいていた。 窓の外、吹く風は次第に勢いを増し、奇妙に明るい夜空を、恐ろしい程の速さで、雲が流れてゆく。 明日のアカデミーは休校かもしれない。俺は、ちゃぶ台に広げていた教材を片付けながら思った。雨はまだ落ちてこない。どうも天気予報より、嵐は足が遅いらしかった。 がたがたと、窓ガラスが音をたてて揺れた。いけない、雨戸を閉めないと。俺は慌てて立ち上がった。 その時、玄関のドアから、小さなノックの音が聞こえた。 こんな夜に、誰だ?俺は首を傾げながら、玄関のたたきに立って、ドア越しに言った。 「どちら様ですか?」 「オレです。イルカ先生」 聞こえてきた声に、背筋が凍った。 嘘だ。どうして。 心臓がばくばくと脈を上げた。立ち尽くす俺の耳に、再び男の声が聞こえた。 「ねぇ、聞こえてる?イルカ先生」 俺は、何とか声を絞り出した。 「・・・何か御用ですか?」 「うん」 「どういったことでしょうか?」 ドアの向こうで、男が笑ったのが分かった。 「ね、イルカ先生。開けて」 「・・・・・・」 「ここ、開けて」 そう言われて、はいそうですか、と開ける訳がない。俺はドアを睨みつけた。よくも、のこのこやってこられたものだ。 3日前、俺はこの男に強姦された。 人気のない夕刻のアカデミー、引き摺られるように教室に連れ込まれ、圧倒的な力の差に自由を奪われた。今だ疼く全身の傷。 恐ろしいなんて思いたくないのに、痛みの記憶が俺の体を強張らせる。 その時、ばららっと、屋根を叩く音が聞こえた。地響きのような物凄い音をたてて、雨が降り始めた。 「あ〜あ、降ってきちゃった」 もう、帰れないね。他人事のように、男は言った。 「だから、ね」 中に入れて。 俺は、自分の体が震えだすのを抑える事ができなかった。 この男が、本気で中に入ろうと思ったなら、ドアの鍵は何の役にもたたないだろう。 それなのに、男がドアノブに手をかけさえしないのは、俺が、ドアを開けるのをじっと待っているから。 俺自身が、二人の間を隔てるこのドアを開き、男を受け入れる瞬間を待っているから。 俺は頭を振った。絶対に、開けるものか。 「御用があるなら、そこでおっしゃって下さい。俺は・・・あなたの顔も見たくありません」 「言っていいの?」 男の声が僅かに低くなった。 「何でオレがここに来たか、オレが部屋の中に入ってどうしたいか、本当に言っていいの?」 男の声は、軽い調子に聞こえたが、その底にある鋭い棘が、俺の心を突き刺した。 「聞いちゃったら、もうあなた、逃げられないよ」 「・・・逃げる?」 「こう見えて、オレも鬼じゃないからね。あなたに、被害者面させておいてあげようかと思ってたの」 そう言って男はくく、と笑った。 「あなた、常識の塊みたいな人だからね。男相手の色恋なんて認めたくもないだろうと思って。無理矢理上忍に犯されて、つきまとわれる可哀相な中忍って事なら、自分に言い訳がたつでしょ?」 「・・・・・・」 「でも、やっぱり、それじゃあ、オレの立つ瀬がないよね」 「・・・・・・」 「あなた、認めたくないだけで、ちゃんと気づいてるんだしね」 「止めてください」 恐ろしい予感に俺は震えた。どうか、それ以上は言わないで。 「あなたは、オレのものだよ」 あまりに魅力的な声で、男は言った。 「あなたも、本当は、ずっとオレのものになりたかったんでしょう?」 オレの事が、欲しくて欲しくて、堪らなかったんでしょう? この男に会って、初めて気づいた。 こんな嵐が、俺の中にあったなんて。 俺が恐れていたのは、この男じゃない。 この男に対して抱く、激しく浅ましい欲望に、身を焦がしている自分自身だ。 それでも、ぎりぎりで踏み止まっていたのは、それが、今までの常識や理性からは、あまりに遠くかけ離れた感情だったから。 踏み出せば、もう戻れないと本能で知っていたから。 それなのに。 この男は、俺の躊躇をやすやすと乗り越えた。 そっと開いたドアの向こう。 額宛も口布も外し、ぞっとするような美貌を晒した男は。 あなた何て顔してるの、と微笑んで。 まるで吹き荒れる嵐のような激しさで、俺をかき抱いた。 050826 |
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