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切り立った崖の上に、ぽつんと一つ、影がある。 澄んで高い夜明けの空に、小さく黒いその影は、崖先から目の眩むような地上を見下ろして怯える風も無い。まるで縁側から庭先へでも下りるように無造作に、中空へとひょいと一歩を踏み出した。 小石のように落下した影は、崖下に広がる樹林に、頭から突き刺さるように突入した。 その瞬間、影の周りで、ばふりと大きく空気が鳴った。 旋風が舞い上がり、葉が騒ぎ。枝が軋んで、すぐに止んだ。既に影の姿は無い。 静けさの戻った森を、微かな枝ずれの音が、吹く風に紛れて北へ走った。 そして、その気配を目で追う影がもう一つ、静かに枝を蹴って走り出した。 足を止め、息を整え。イルカはそのまま項垂れた。 「・・・鈍った」 崖を落下し、森を抜けて、湖畔に到着するいつもの訓練コースだが、今朝は普段より数秒余分にかかっていた。しかも、脚半が朝露に濡れている。知らぬうちに、露の乗った葉を揺らしてしまったようだった。 ここ数ヶ月、仕事を言い訳に鍛錬をさぼっていたらこの様だ。 心が覚えてる速度に、肉体が微妙についていっていない。この僅かな差が、ぎりぎりの場面で命取りになりかねない。 階級に似合った技術、体力の維持は、事務方の内勤であっても当然の義務だ。それが保てないなら、額宛を火影に返さなくてはならない。 「・・・メニュー変えねえとな・・・」 イルカは、大きく体を伸ばしながら、凪いだ湖面を見渡した。湖畔を渡ってくる瑞々しい風が、上がった体温に心地いい。 その時、不意だった。 「おはようございます」 背後からかけられた声は、予想外のようでいて、意外ではない。そして、里から離れたこの場所で、偶然はあり得ない。 イルカは振り返り、すぐ近くに立つ男に頭を下げた。男の銀髪が行儀の悪く散っているのと、その右目がどこか眠そうなのは、早朝という時刻のせいではない。 「おはようございます、カカシさん。で、いつから?」 イルカの問いに、カカシはがりがりと頭の後ろを掻いた。 「演習場から、あなたが崖の上に上がって行くのが見えたので」 最初からずっと、後を追われていたという事だ。 全く気がつかなかった。それを悔しいと感じるには、レベルの違い過ぎる相手ではあるが。 イルカが薄く苦笑すると、 「見ましょうか?稽古」 カカシは、手の中で、ちり、と鈴の音を鳴らした。 木の葉のみならず近隣諸国に名を轟かす忍の申し出に、イルカはいいえと首を振った。 「俺には荷が重いです」 あなたを追いかけるのも。 あなたに追いかけられるのも。 カカシは、何かを図るように更に目を細めた。 「じゃあ、デートしましょう。今晩」 イルカは、思わず噴出した。 「じゃあって何ですか?じゃあって」 「他にきっかけが無いんで、無理矢理繋げたんです」 カカシは面白くも無い、と言った口調で言い、イルカの隣に並ぶと、湖に視線を遣りながらその場にだらりとしゃがみ込んだ。 初めて見下ろすカカシの天辺は、銀色の糸が幾重にも重なって、繊細な濃淡を描いている。頑固な寝癖のように逆立っているが、手触りはきっと柔らかいだろう。 「気になりますか?」 口布越し、前を向いたままで、カカシが笑っているのが分かった。 触っていいですよ。 「ってか、触って?」 「結構です」 イルカの即答に、ふう、と、カカシは溜め息のように大きく息をついた。 「・・・難しいもんですね」 「そうですか?」 ちろり、とカカシは恨めしそうな視線を上げた。 「見込みがあると、信じてるんですけどね」 「間違ってはいないと思います」 沈黙が落ちたのは、軽く口をついて出たイルカの言葉が思いの外、その心を深く掬い上げたものだと互いに気づいたからだ。 そう。間違ってはいないのだ。 イルカは、湖面に立つさざ波をじっと見据えて呟いた。 「・・・明日なら」 「デート?」 間髪入れぬ問いに、イルカは本格的に苦笑した。 「稽古を」 立ち上がったカカシは、 「喜んで」 イルカの眼差しを受け止めて微笑んだ。 分かっている。 これが、どうなるのか。 もう少し。 ほんの少しのきっかけさえあれば。 そう考えてしまうのは、もう既に。 恋に落ちている証拠なのだ。 071202 |
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