第一印象は、良くも悪くも平凡な男、だった。 私が玄関で名前を告げても、うみのイルカは表情を変えなかった。 促され、古びたちゃぶ台と小さなテレビが置かれた部屋に通された。吐き出し窓の向こうは、猫の額ほどの小さな庭。木の葉の誉れが情人と暮らす家にしては随分と慎ましく思えた。 座布団に正座すると、眼の前に茶が置かれる。それで、とうみのイルカは私の向かい側に座り、静かに言った。 「ご用件は、何でしょう?」 高慢さもしたたかさも感じられない、今日はいい天気ですねというような気易い調子だった。それが彼の余裕に感じられて、私は堪らない気持ちになった。 「はたけカカシさんから、何も聞いていませんか?」 ほのかに湯気を立てる茶を見ながら、私は言った。 「何も、とは?」 「私は、はたけカカシさんの婚約者です」 「はい。存じています。それで?」 何と言う敗北感だろう。私は、唇を噛み締めた。 見合いの席というには余りに刺々しい空気の中、はたけカカシは私に言った。 「あんたと結婚する気も、あんたを孕ませるつもりも更々ない」 予想していた言葉だった。 はたけカカシには情人がいる。もう何年も一緒に暮らしている、男が。 当初は上層部も目溢ししていた。はたけカカシは元々同性愛者ではない。相手は平凡な中忍のアカデミー教師で、いずれ飽きて別れるだろうと踏んでいた。 だが、カカシの意思は変わらなかった。そして、これから先も変わらないと悟った上層部は、命令として、彼に無理矢理配偶者を押し付けようとした。 妻と言う名で、彼の子供を産む役目を与えられたのが、私だ。 「はたけカカシさんと、別れて頂けませんか?」 うみのイルカは、私の言葉に、うっすらと笑った、ように見えた。 「私の事を、馬鹿にしているのでしょう?」 私にあるのは、はたけカカシの婚約者という里が張りつけた肩書きだけだ。それに意味が無い事は、私が一番よく知っている。 彼の心は全部、余すところなく全部、この男が持っている。 うみのイルカは、いいえ、と首を振った。そして、どこか遠くを見るような、不思議な目で私を見返した。 「カカシさんが、生涯俺と別れるつもりが無いと上層部に伝えた夜、見知らぬ男達がここへ押し入って来ました。カカシさんが任務に出るのを待っていたのでしょう。彼に抱かれたばかりの俺の身体の中から、彼の精液を掻き出して行きました」 余りに淡々と告げられて、内容の壮絶さがすぐには理解できなかった。 「数人がかりで押さえ付けられて、抵抗もできませんでした。冷たい器具を突っ込まれて掻きまわされて、精子だけでも、とそんな事を言われたような気がします」 「そんな・・・」 うみのイルカは、今度は確かに、薄く笑った。 「俺の身体の中に残ったものが、受精に使える訳がありません。それは、俺への・・・」 そう言って、うみのイルカは私の前で初めて表情を歪めた。 「あの人と、別れられたら、どんなに楽か」 低い、絞り出すような声だった。畳の上に置かれた男らしい手が、きつく握り締められた。 「そんな目にあっても、俺はあの人から離れられない。あの人も俺を離せない。里への忠誠は嘘じゃない。ただ、それ以上に俺達は・・・」 そして、うみのイルカは、その真っ黒い眼をひたりと私に向けて言った。 「できるものなら、俺からあの人を奪っていって下さい」 それは、傲慢からは程遠い、絶望に似た懇願だった。 来た時以上の無力感を抱え、玄関に向かった私は、思わず息を飲んだ。 銀色の髪をした私の婚約者が、扉の前に立っていた。口布と額宛に隠され、唯一見える右目はしかし、私を見ようともしなかった。 「ただいま、イルカ先生」 「おかえりなさい」 抱える闇色の情念など微塵も見えない、ごくごく日常的な会話。はたけカカシはそのまま靴を脱ぎ、私の横を通り抜けて、家の奥へと入っていく。 「お気をつけてお帰り下さい」 うみのイルカの見送りの言葉が、扉の前に立った私の背に突き刺さる。 いや、違う。廊下の奥から私に向けられる、私の婚約者の視線が、痛みすら感じる強さで突き刺さる。 分かっている。 あなた達は、もう、これ以上ない所まで追い詰められている。 木の葉の忍としての誇りと、里への忠誠。それらはきっと、互いを求める恋情と同じ力で、あなた達の心を縛っている。 里を捨て、愛し愛されるだけで満たされる心ならば、あなた達はこれ程苦しみはしないだろう。 それが出来ないのは、二人とも、骨の髄まで木の葉の忍だから。 そして、どれほど苦しくても離れられないのは、あなた達はお互いが、生涯唯一人の相手だから。 その、幸福な地獄。 私の背後で、扉は静かに閉まった。 心を決めて、私は歩き出す。 溢れだす涙と一緒に、彼らが永遠に知ることが無い想いを笑おう。 どれ程憎まれても、私は彼が好きだった。彼が手に入るなら、どんな形でもいいと思っていた。 私は自分の、その浅はかさを笑おう。 そして私は、張り付けられた肩書きを引き剥がす為、夕刻の路地を急いだ。 100308 |
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