「イルカ先生、剃刀貸して貰えませんか?」

洗面所からカカシが顔を出した。

「ちょっと待って下さい。新しいのを出しますから」

台所に立つイルカは、鍋に目分量で味噌を放り込んでかき混ぜた。深酒した翌朝は味噌汁に限るというのがイルカの持論だ。出汁は顆粒で具は乾燥ワカメという適当な品だが、独特の香気が酒に淀んだ臓腑を優しく刺激する。

「いい匂いですね」

洗面所で、カカシが微笑む声が聞こえた。

イルカの家で飲んだ後、そのままカカシが泊まるようになったのはここ最近だ。

一緒に飲む時はどこかの店で、というのが、出逢った頃からこちら、長く続いていた習慣だった。馴染みの店がどこも一杯だった時は、カカシが日を改めようと言い、イルカもそれに頷いた。つまらない冗談を言い合える程には気安い関係だとはいえ、上忍と中忍の節度は守らなくてはいけない。例えそれをどんなに寂しく思っても、イルカはカカシに従った。

習慣が変わるきっかけはなんだっただろう。ぼんやりと考えながら、イルカは洗面台の下の扉を開けて、中から新しい剃刀を取り出した。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

狭い洗面所だ。図らずも、肩が触れ合う程の距離でカカシと向かい合う事になった。

あ、と思った。この人も、髭が生えるのか。

同じ男なのだから当然なのだが、イルカはどこか新鮮な気持ちになった。

カカシは決して、外では素顔を晒さなかった。それを当然と思っていたから、初めてイルカの家で宅飲みした時に、何の迷いもなく口布を下ろしたカカシに、イルカの心臓は二重の意味で高く鳴ったのだ。

一つは、素顔を見せて貰える程自分に気を許してくれたという喜び。もう一つは、カカシの素顔が目を見張るほどに端正だという驚きだった。

普段は額宛と口布に隠されているカカシの肌は抜けるほど白かった。産毛さえ生えないんじゃないかと思わせるような硬質な、陶器のような肌理だ。その顔立ちは美貌と呼ぶに相応しいものでありながら、女性らしさとは全く無縁で、繊細でありながら、弱々しさを微塵も感じさせない。細心の注意を払って最高の技術で精密に磨きあげられた金剛石のようだ。

職業柄美しい人間はそれこそ腐る程見てきたが、その誰ともカカシは違って見えた。まるで見えない何かに気圧されるようで、視線をずっと合わせていられない。カカシの表情の微妙な変化がやけに気にかかった。

それはきっと、カカシが選ばれた人間だからだとイルカは思っていた。カリスマというと胡散臭いが、人を惹き付けてやまない天分を持つ者は確かに存在する。忍として抜きん出た才と端正な容姿に加え、辛い過去を乗り越えてきたカカシの心は穏やかで優しい。女性でなくとも、そして、親しい友人同士だと周囲に認識される間柄でありながらも、イルカにとってカカシは眩しい存在だった。

「髭、剃るんですよね」

間近で見ても信じられないような気がするが、確かに、カカシの頬から顎にかけて、薄い銀色の陰りが見える。まじまじとカカシを見つめるイルカに、カカシは小さく笑った。

「珍しいですか?オレが髭剃るの」

「はい・・・あ、いえ」

当たり前だよ。男だもんな。イルカは、自分に苦笑した。

「俺なんか、朝起きたら大体こんなですから」

自分の顎を撫でると、ざらざらとした感触がある。鏡の中、深酒の翌朝でも白く綺麗なカカシの隣に映るのは、ぼつぼつと無精髭が生えた、寝ぼけ眼のむさ苦しい三十前の男だ。

「カカシさん、とても俺と同じ男とは思えないです」

「・・・男ですよ、オレは」

不意に低まった声に、イルカははっと顔を上げた。鏡越し、イルカを見つめるカカシの眼差しの重さに、思わず息を飲む。

「髭も生えるし脛毛もある。股間には、あなたと同じものがぶら下がってる」

カカシは静かに怒っていた。それに気付くのに時間はかからなかったが、理由が分からず、戸惑いと動揺にイルカの心臓が冷えた。

「・・・心底惚れている相手が、目の前で無防備に眠っていたら」

刺すようにイルカを見つめたまま、カカシは囁いた。

「襲って、犯して、自分のものにしてしまいたいと願わずにはいられない、浅ましい男です」

カカシの手が、剃刀を洗面台に置くのを、イルカは目の端で捉えた。空いたその白い手が、迷うようにゆっくりと、自分の方に伸ばされようとするのも。

「どうしてオレが、今まであなたと二人きりになるのを避けていたか。どうしてオレが、あなたと二人きりになる誘惑に勝てなかったのか」

それは、オレが男だからです。

そしてカカシは、静かにイルカに告げた。

「あなたが欲しい」

その真っ直ぐな視線を受け止めながら、イルカはカカシが発した言葉の意味を必死に解釈しようとした。しかし、血の代わりに酒が回っているんじゃないかと思う程、ぼうっとした脳味噌は働いてくれない。

「あなたの嫌がる事はしたくない。嫌われたくない。確かにそう思っているのに、無理矢理にでも奪ってしまいたいと願っている。あなたが他の誰かに心奪われないよう、あなたが見るもの触れるものをオレだけにしたい。そんな事をしても意味は無いと頭ではちゃんと分かっているのに、その願望を止められない」

ぞっとする程に情熱的な言葉と、それとは裏腹な程に穏やかな口調。

ともすれば、その灰色の瞳の内側で瞬く欲望の焔は、見逃してしまいそうな程に微かだ。イルカに伸ばされようとしていた手は、今は体の脇にだらりと垂れ下がって、しかしその拳はきつく握り締められている。そのひりつくような自制に、カカシが今まで隠し持ってきた恋情の激しさと深さを知る。

そして、イルカは気付いた。気付いてしまった。

恐らくカカシは自覚していないだろうそれに、息が止まるような気持ちと同時に、泣きたい程の高揚を味わう。

道は、もう一つしか残されていないのだ。

カカシがその内にあるものをイルカに告げた瞬間、イルカが選ぶ答えは定められてしまった。

そして、それこそが、イルカが心の奥底で、自分でも気付かぬままに、密やかに願っていた望みだった。

 

 

 

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