「声の出なくなったイルカさん」






つまらん、と少女は言った。
「そうやって、簡単に投げ出す程度なら、命などいらんわ」
少女の赤い唇から、可憐で皮肉げな声音が吐き出される。
「お前にとって、一番大切なものを寄越せと言っているだろう?」
それを失くしたら一時も耐えられないと思うものを寄越せ。
失えば、針の筵の上を歩くような苦しみと、真綿で喉を絞められるような切なさをお前に与える、それ程に大切なものをこそ、私に寄越せ。


「いい加減、腹括って」
苛々とした様子で、カカシは言った。
「ここまで来てじらされるこっちの身にもなってよ」
その視線は、閉じられた障子にひたりと当てられたままだ。その向こう側にあるものを見通したいとでもいうように、その目は強い光に満ちている。
廃業した妓楼を改装した蕎麦屋の二階だ。
内装はこざっぱりと設えられているが、黒々と磨き上げられた柱や、牡丹を彫り込んだ欄間の影に、艶の名残が感じ取れる。
もしかしたら今も連れ込みとして使われているのかもしれない。
「なあ、カカシ」
座卓を挟んだ向かい側で、アスマが小さく煙を吐き出した。
「どうしてお前は、あいつを探す?」
「アスマ」
「返答如何では、このままお前を連れて帰る。あの障子を開けずにな」
力づくでも、と続けたアスマの表情は厳しい。
そこに、疑いようのない真剣さと偽りない配慮を読み取って、カカシも腹を括った。
「好きだから」
それ以上でもそれ以下でも、それ以外にもありえない本心をカカシは口にした。
「眠りから覚めた時、一番に思い浮かべる位に、好きな人だから」
「なら、どうして今なんだ?」
しかし、アスマの追及に容赦はない。
「この稼業、いつ命を失ってもおかしくない。それでもお前は、今まで何も行動しなかった。結局、その程度って事じゃねえのか?」
カカシの胸がぎりりときしむ。
欲しいと思う同じ強さで、怯んでいたのも確かに事実だ。
「同情なんざもってのほか。中途半端も許さねえ。例えあいつがお前を憎んでも、それでも最後の最後まで、あいつの人生背負う覚悟があるか?」
ある、とカカシは頷いた。本当に怖い事が何なのか、身を以て知ったから。
「もう、迷わない」
カカシの答えに、ようやく、アスマは手を伸ばし、障子を開いた。
障子の向こう側は格子状の枠に硝子をはめ込んだ腰高窓になっていた。
二人が座る位置から丁度、隣家の庭から縁側の部分が見下ろせる。その小さな縁側に、この一カ月、血を吐くような思いで探し求めていた男の姿を認めて、カカシの切なげに目が細まった。
「イルカ先生………」
思わず、声が零れた。
触れたいと、今すぐその前に立ち、名を呼び触れたいと、カカシの手が反射的に浮き上がる。
高く結わえた黒髪、鼻梁を横切る傷。両側に座った子供達が懸命に話しかけてくるのに、優しく頷いて答える、笑顔。
優しい風景は、里で狂おしい情動を胸に抱えながら眺めていた景色と重なって見えるようだ。
だが、現実は過去と決定的に違う。
「………アスマ?」
イルカから目を離さず、カカシは問いかけた。
「分かるか」
「声が………」
そうだ、とアスマは答えた。
子供達が明るく話す声はカカシの耳にはっきりと聞こえてくる。しかし、イルカは大きく口を開けて笑う様子を見せても、その唇からは一言も音が出ていない。
「………これが、イルカ先生が里を離れた理由?」
アスマは、深く煙を吐き出すと、おれが知る限りの事実だけを話す、と固い口調で口を開いた。
「一月前、お前は任務で深い傷を負った。瀕死の状態で、里に戻れたのが奇跡のような傷だった。
あの五代目が、悔し泣きしながら匙を投げた。時間の問題だと誰もが思っていた」
だが、お前は回復した。
「それも劇的に、だ。自発呼吸さえ覚束なかったお前が、たった三日で起き上がれるようになった。
皆、喜びながらも、信じられないと首を傾げた」
そして翌日、イルカは里を出た。そう言って、アスマは子供達に囲まれて笑うイルカを見下ろした。
住人の半分が居住票を持っていないらしいこの街の子供は、様々な事情から学校に通っていない者が多い。隣家は、そんな子供達に読み書きを教える為に、街の有志が資金を出して用意した私塾だ。
「追い忍がつかなかったから、五代目は事情をご存知なんだろう。もしかしたら、五代目自身がこの街の顔役に口をきいたのかもしれない。潜伏するにはもってこいの場所だからな」
ならば、こんなに早くイルカを見つけられたのは本当に幸運だった。カカシはそっと息を吐いた。


「ならばこの声を」
黒髪の男は答えた。
「この声を、対価として差し出そう」
「声?」
テーブルに肘をつき、赤く染めた爪をつまらなそうにいじりながら少女が言った。
「お前にとって、それが一番大切なものなのか?」
そうだ、と男は頷いた。
「俺が唯一、あの人の役に立っていると自信をもって言えるものだ」
濃い睫毛の影で、少女はちらりと男を見上げた。
「自信?」
今まで固い表情を崩さなかった男が僅かに揺らいだ。
「お前と取引したなら、俺はおそらく故郷にはいられないだろう。今の仕事も辞めなくてはならない」
両親と同じ仕事に就いて、自分の生まれ育った場所に貢献できるのが、何よりの誇りだった。
「それを、お前は捨てると?」
少女の瞳が、獲物を見つけた蛇のように、爛々と輝き始めた。
「生きてきた故郷を捨て、誇りを捨て、自信を捨てると?恋人でもない、一方的に懸想している相手の為に?」
そうだ、と男は頷いた。
「俺には、他に何もない。お前が命を貰ってくれないというのなら、あの人の為に俺が差し出せるものは、もう、何一つない」
「お前に助けられた命を、他の女を愛する事に使っても?」
ぐ、と奥歯を噛み締めて、それでも男は、確かに頷いた。
「いい顔だ」
少女は、にいやりと笑った。赤い舌が、ちろりと唇を舐める。
「分かっていながら絶望を選ぶ。堪らなく、いい顔だ」
ようし、と少女は椅子から立ち上がった。背は男の半分程しかないが、まるで見下ろされているかのような威圧感が男に吹き付けた。
「お前の望み、確かに聞き届けよう」
少女は、声をあげて笑った。
「そいつの喉にかかった死神の鎌、この私がへし折ってやるわ」


イルカ先生。
オレ、受付でイルカ先生のお疲れ様ですって言葉を聞いて、ようやく、任務が終わったって実感するんです。


「さて」
アスマが言った。
「ああ見えて、あいつは中々頑固だぞ。そうでなくても、全部を捨てて選んだ道だ、曲げさせるのは骨だろう」
だろうね、とカカシは苦笑した。
自分一人で全部を決めて、自分一人で全部を背負って、黙して語らぬ心根の男だ。
跪いて請うたところで、簡単に赦してもらえるとは思えない。
どうせ、自分が勝手にした事だから恩義に感じてもらう義理はないとでも言うだろう。そういう依怙地なまでの気高さが、歯がゆくも愛おしい。
「時間ならいくらでもかける。逃がすつもりは無いから、気長にいくよ」
だから、まずは。
「力一杯、抱き締めたい」
そう言って、カカシは二人を隔てる窓を飛び越える為、印を結んだ。





Cp様 ありがとうございました!

2011.07.04

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