愛の狩人




 いつもと何が違っていただろう。
 確かに、普段より飲み過ぎてはいた。居酒屋で席から立ち上がった時に、くらりと地面が揺れた程には飲んでいた。
 元々弱い方ではないし、休暇などあってないようなもので、夜中でも早朝でもお構いなしに呼び出されてこき使われる立場だから、酔っ払ったと自覚する程に量を過ごす事が久しくなかった。
 それでも、明日の休みをどうするかという問いに、掃除と洗濯ですと答えられる程には理性を保っていたし、お互いに支えなしでも歩けたのだから、多分、いつもより少しだけ、ほんの少しだけ、飲み過ぎただけだったのだと思う。
 店を出て、イルカのアパートへと続く路地を並んで歩くのも普段通りだった。
 いつもと何が違っていただろう。
 確かに、話題は際どいものだった。どうしてその話になったのかは覚えていないが、いつものカカシなら巧妙に避ける類のものだった。
 友人と寝れるか。勿論寝るというのはセックスできるかという意味だ。そして、一度でも寝た相手と、その後も友人関係を続けられるかどうか。
「……オレは、無理ですね」
相手と寝たい、とどちらかが思った時点で純粋な友情は成立しないとカカシは思う。例え動機が単純な肉欲であっても、結果独占欲にすり替わる事が多い。容姿と立場のせいで性的に早熟にならざるをえず、引く手数多といえば聞こえはいいが、望む望まざるに関わらず性愛やら色恋やらの対象にされてきた経験からカカシが導き出した答えだった。
 だから、カカシにとってイルカは、決して友人になりえなかった。
 自分の気持ちを自覚したのは果たしていつだっただろう。もしかしたら初めて会った瞬間だったかもしれないが、もうよく分からない。
 少なくとも、気付いた時にはもう手遅れで、はっきりしているのは、墓場まで持っていくべき片思いだという事だった。
 紛れもなく異性愛者であるイルカに、自分の想いが通じると考えられる程カカシは楽天的ではない。何より階級の違いがあった。カカシが本気で望めばイルカには拒む権利がない事が、カカシから勇気を奪っていた。
 もし、イルカがカカシを受け入れてくれたとして、それが互いの立場によるものでないとどうして言い切れるだろう。
 ならばせめてこのままで。ひっそりとカカシは願った。気のおけない友人を演じる事でイルカの隣にいられるなら一生演技し続ける、そう心に決めた。
 それでも想う気持ちは止められないから、こうして素知らぬ顔をして色恋の話題に触れるのは辛いものがあった。オレが寝たいのはあなただけですと言えればどんなにいいか。
 隣を歩くイルカの足が緩んだ。
 釣られて立ち止まったカカシを見上げ、黒い瞳を滲むように細めた。薄い笑いを浮かべた、どこか挑発するようなその表情は今までカカシが見た事がないもので、胸がざわりと騒いだ。
「俺は、カカシさんなら、全然大丈夫です」
え、と聞き返したカカシの口布に、イルカの指が触れた。
 そのまま引き下げられ、あらわになった唇に、イルカのそれが押し付けられた。合わせ目をなぞるように舐められて、思わず開いた隙間から熱い舌がぬるりと入り込んできた。
 キスしている。イルカと、キスを。
 状況を把握した瞬間、呆気無く箍が外れた。
 イルカの腰を片腕で抱き、もう片方の手で頭を押さえ込んだ。カカシの勢いに驚いたようにイルカの舌が一瞬引っ込み、しかし追いかけてイルカの口腔に入り込んだカカシに応えて絡みついてきた。
 酒精の混じった呼吸を吸えば腹の底がじんと熱くなった。舌を重ね、唾液を交じり合わせ、角度を変えて何度も貪り合った。
 俺の部屋に。唇を触れ合わせたまま囁かれて、カカシはイルカを抱き寄せたまま片手で印を結んだ。
 どうしようもなく切羽詰まっていた。
 瞬身で二人の身体をイルカのアパートの前に運び、イルカがポケットから鍵を取り出し、玄関ドアの鍵穴に差し込みカチリと回し、ドアノブに手を掛けるその一連が待ち切れなかった。
 玄関で脚絆を外し、ベストを脱ぎ、アンダー、下着、イルカの身体から着衣を取り去ったのはカカシで、カカシを裸にしたのはイルカだった。
 服を脱がせ合う間も、何度も唇を重ねた。直接触れ合わせた肌がぞくぞくする程に気持ちがよくて、抱き合ったままベッドに倒れこみ、そこでも深く舌を求め合った。
 ふと、寒くありませんかとイルカが問うた。
 朝から留守にしていただろう夜の寝室はすっかり冷え切っていた。肌に触れるシーツもひんやりとして、抱き合う身体が離れ難い温かさに感じられた。
今思えば、確かめるとしたらこのタイミングだったのだろう。
 どうしてカカシを誘ったのか。どういうつもりで、カカシと寝ようとしているのか。
 カカシさんなら全然大丈夫です。イルカの言葉が頭の中に反響した。大丈夫とはどういう意味だろう。
 考えたくない。そう思ったのはきっと酒のせいだ。アルコールが冷静さを奪い、いつもは心の底に押さえ込んでいる衝動を開放した。
 何も考えたくなかった。ただ、この腕の中にいる存在を自分のものにしたかった。
 今、イルカは確かにカカシを求めてくれている。それだけで十分だと思った。


 じっとして、と言われるままに横たわった。
 仰向けに肘をついた姿勢で自分の下腹を眺めれば、覆い被さるように蹲った影が闇の中に滲むように見える。
 月はあるが雲の多い夜だ。カーテンの隙間から入り込む光はかそけく、明かりをつけようとした手も止められたから、寝室は暗い。
 それでも何がどうなっているのかははっきりと分かった。淡い視覚と、鋭くなった聴覚と、何より鮮烈な触覚がカカシに伝えてきた。
 ん、ん、と低い声を漏らしながら、イルカがカカシの下腹にそそり立つものを口に含んでいた。両手で根本を支えるように持ち、先端に舌を這わせながら柔らかい口腔の粘膜でカカシを包み込み、頭を上下に動かして一心に愛撫してくれていた。
 張り出した場所を唇が擦り、穴から溢れる汁を喉で吸われると、腹の底がじっとりと熱くなってくる。抽送を模した動きに知らず息が弾んで、手を伸ばして長い髪に触れると、黒い光がカカシを見る。いいですか? と問うような視線に小さく頷いて黒髪を指で掻き乱すと、更に含まれる場所が深くなる。
 下手、ではないが巧みとも言い切れない手管は、しかし相手がイルカであるという、その一点だけでカカシを激しく駆り立てた。
 ぴちゃぴちゃという淫らな水音が、イルカの、あの朗らかで清潔な口元から聞こえるのだと、その厚みのある唇に自分の赤黒い欲望を咥えさせているのだと、暗闇の中に想像するだけで固く猛り立っていく。
 このまま出してしまいたい。彼の温かい口の中を、柔らかい舌の上を、自分の欲望で汚してしまいたい。増した質量に苦しげな吐息を零しながらも、口一杯に含んで奉仕してくれるイルカに、独占欲と加虐心が掻き立てられる。
 しかし同じだけ、イルカを労りたいという想いもある。伝わってくる懸命さは、イルカがこの行為に慣れていない事を悟らせた。その彼が献身的にカカシを喜ばせようとする、その仕草を愛おしいと思わずにはいられなくて、
「せんせい」
呼んで手を伸ばし、顔を隠す黒髪を掻きあげた。
「もう、いいですから」
でてしまいます、と囁くとイルカは先端に口付けてから顔を離した。ベッドから降り、傍らにある小さな引き出しを開いて、小さなチューブらしきものを取り出す。
 再びベッドに上がったイルカは、膝立ちでカカシの腰を跨いだ。顔を伏せたまま、チューブのキャップを外して床に放り投げる。ぷちゅ、と聞こえたのは、粘度の高い中身を掌に出した音だ。
 目の前で動く影の様子に、何をするつもりなのかと想像して、全身が燃えるように熱くなる。信じられない。でも、どう考えても。
「せんせい…?」
「じっとしていてください」
僅かに前屈みになり、両手を後ろに回したイルカが、堪えるような声で答えた。伏せた顔を長い髪が隠しているから、彼がどんな表情をしているのかは分からない。顔を見たいと思ったがきっとイルカは嫌がるだろうと、素直に命令に従った。
 イルカが身動きをする度にベッドが微かに軋み、小さな生々しい音が立った。声を堪えるような短い吐息。張り詰めた太腿の筋肉。下腹の黒い茂りの中にはイルカの雄が緩く立ち上がっている。
 解している。自分の指で自分を、本来受け入れる場所ではない所に指を入れて、柔らかく広がるように解している。
 かっと目の前が熱くなった。
 カカシを受け入れる為にイルカが自分の身体を緩めている。そう考えるだけで、欲望がぱんぱんに張り詰めて、痛みさえ訴えてくる。
 イルカの唇から堪え切れない体で溢れる声に、腰の奥がじんじんと疼いて堪らない。のぼせ上がって、心臓の拍動がまるで頭の中で聞こえるようで、じっとしていろというイルカの言葉がなければ、すぐにでも押し倒し自分の物を捩じ込んでしまいたかった。
 イルカが長く息を吐いた。自分の尻を弄っていた両手をカカシの顔の両側に置き、覆い被さるようにして唇を寄せてくる。触れるだけの口付けを繰り返しながら、腹につく程に反り返ったカカシに手を伸ばし根本で支える。
 先走りで酷く濡れてしまっているだろう先端に、温かいものが触れた。そのままぬるぬると擦り付けられる。
「…っ」
思わぬ刺激に息を飲んだ。腰が揺れてしまったからか、イルカが窘めるように唇を食む。黒髪が流れ落ちて、イルカの匂いが鼻をくすぐった。乾いているようでどこか甘い芳しい匂いに陶然となっていると、探るような動きをしていたイルカの腰が定まった。先端に小さな窄まりが宛てがわれて、そのまま降りてくる。
「ん…っ」
入る。
「ふ…っ…ん……」
狭い場所に、じっくりと沈み込むように、入っていく。
 酷く熱くて、きつい。ぎゅうぎゅうと入り口の肉襞に締め付けられて目が眩みそうだ。
 イルカの奥をたっぷりと濡らした潤滑剤がカカシの屹立に垂れてきた。温まった感覚にぞくぞくして、自分を跨ぐ逞しい太腿を撫で回すと、
「だめ、じっとしていてください」
艶やかな視線で睨まれて、掠れた声で囁かれるから、余計堪えるのが辛くなる。
 一番張り出した場所が含み切れないのか、イルカが焦れたように腰をうねらせた。
「だいじょうぶですか?」
はい、と小さく頷きながら、イルカは吐く事を忘れたかのように短い吸気を繰り返した。体温が上がり、汗ばんだ気配が強くなり、舐めて味わいたくなるような体臭が更に甘くなる。
 上体を曲げカカシの胸に縋るように手を置いたイルカが、黒い瞳で見上げてきた。闇の中で鈍く光って見えるのは涙が滲んでいるからだろうか。それが痛みによるものでない事は、眉と目尻が切なげに下がった表情から分かる。
「ゆび、とは…ぜんぜん…ちがって…」
耐え切れない、とでもいうように、首を何度も振る。
「…こんな…おおき、…い……」
 瞬間、カカシの理性が飛んだ。
 イルカの尻を掴み、腰を大きく突き上げていた。
「ん、あ…っや、ああっ…!」
強引に押し入った身体がびくびくと震えたが、構っていられなかった。固く引き締まった尻を抱えるように割り開き、熱いぬかるみに夢中で腰を突き込んだ。
「あっ…あ、ああ…」
鳥肌が立つような快感に、思わず奥歯を噛み締めた。ねっとりと絡みつくようなきつさに包み込まれて、頭の中が溶けてしまいそうになる。
「う…あっ…あっ、あっ…!」
カカシが揺すり上げる度、ベッドのスプリングがぎしぎしと鳴った。濡れた場所が混ぜ合わされる音が倒錯的に重なる。ざわめくような内壁の襞を自分の肉で割り開く感覚が余りに鮮烈で、カカシは何度も唇を舐めて荒く息を吐いた。欲しいと、もっと欲しいと、それ以外の何も考えられず、ただ腰を使った。
「あ、やっ…あ、あ、……ん…」
カカシに揺らされるままだったイルカの身体が、がくりと崩れ落ちてきた。脱力した身体の重みを感じ、荒い息が首筋にかかって、ようやくカカシは我に返った。
「せんせい」
抱き締めた全身が熱い程に上気し汗ばんでいた。慌てて頬に触れ、乱れた髪を掻きあげて覗き込むと、薄く開いた黒い瞳がとろんとカカシを見た。
「だ…いじょうぶ、です」
甘く溶けた声が、肌に直接塗り込められる。
「俺は…だいじょうぶですから…」
そう囁いて、イルカは重なりあった二人の腹の間に手を伸ばした。腹筋に固く当たっているのはイルカの雄だ。しっかりと芯を通し、張り詰め、色の濃い先端をぐっしょりと、まるで漏らしたかのように濡らしている。
 感じているのだ。
 ぐう、と自分の下腹が膨らむのが分かった。カカシに貫かれて、身体の奥を突かれて快感を覚えている。そう考えるだけで、堪えている射精感にもっていかれそうだった。
 堪えるように自分の屹立を握り込んだイルカは、濡れた睫毛を持ち上げてカカシを見た。うっとりと蕩けるような表情が、だから、と誘う。
「…カカシさんの…すきにしてください…」
勝手に身体が動いていた。
繋がったまま反転し、イルカの身体をベッドに倒した。両腕で膝裏を抱えてすくい上げ、上半身を前に傾け、開いた脚の間に身体を沈み込ませると、
「こ…んな…っ、おく…っ」
見開いた瞳が悲鳴のような声で叫んだ。支配欲がどういう意味かと聞き返したがったが、すぐにそれどころでは無くなった。
反り返った喉仏に噛み付いて、舌を擦り付け、そのまま穿った。叩きつけるような動きにイルカの身体が軋むように揺れ、カカシの背に回った指先が肌を引っ掻いて傷を作る。
「んん…っ、ん、あ…」
快感に染まった声に煽られて、更に強く腰を使う。骨がぶつかる程奥まで押し入って、引いて、更に突き上げて、熱く滑ったイルカの肉を犯し尽くす。
「…っ」
搾り取るように締め付けてくるイルカが良過ぎて、余りに良過ぎて、呼吸が更に乱れて、頭の中までがじんじんと痺れてくる。
「…あ…」
痙攣するように震えながら、イルカが、ぐ、と仰け反った。全身が張り詰め、背に回った指に力が籠る。
「…っや…っあ、ああ――」
切羽詰まった高い声と共に、更に一層締め付けられて、カカシも限界を迎えた。
 わななく腰骨を掴み、滅茶苦茶に揺すり、突き立てて放った。意識が飛びそうな程の快感に、放ちながらも穿つ動きを止められない。
 中を濡らされたのが刺激になったのだろうか、イルカが堪え切れないというような淫らな喘ぎを零した。さざめく場所に最後の一滴まで注ぎ込めば、今までにない絶頂感にどこか呆然とさえする。
 だが、まだ腹が重かった。確かに弾けたはずなのに興奮は収まる気配を見せない。イルカの中に納めたまま、二、三度、腰を揺すると再び固く膨らんでイルカの肉を割り広げた。
 変化を感じ取ったイルカが、大きく目を見開いた。汗と唾液と、もっと淫らな白濁が散った顔が、カカシを見つめて淫蕩に笑った。
「して…ください」
太腿が腰に絡みついてきた。
「もっと…すきなだけ…」
おかして、という声を口付けで奪い取った。
 後はもう、おかしくなりそうな快感だけ。



**********



 珍しいなと他人事のように感じていた。
 覚醒する前からずきずきと頭の芯が疼いている。
 顔を少し動かすと閉じた瞼に何かが触れて、カカシは思わず目を細く開いた。
 カーテンの隙間から差し込んだ日の光が当たったのだ。眩しい。頭の天辺から首の後ろまでもやもやと重い。うんざりしたような気持ちになって、もう少しだけ、と重みのある毛布を引っ張って、冷えた肩から包まろうとした。
 だが、毛布は引き寄せられなかった。頭だけ上げて見返ると、ベッドの半分を別の誰かが支配して、毛布と分厚い布団を自分に巻きつけるようにして眠っている。
 布団に埋もれているせいで、見えるのは枕に広がった長い黒髪だけだ。だがカカシには、それが誰だかはっきりと分かった。
 うみのイルカだ。
 そして、ここは彼のアパートで、彼のベッドだ。
「…そうだった」
カカシが身体を起こすと、分け合った毛布が浮き上がった。その隙間から朝の冷えた空気が入り込み、イルカは小さな唸り声を上げて更に丸まった。目を覚ますかと思ったが、すぐに深い寝息が聞こえ始める。
 その様子を暫く眺めたカカシは、のろのろとベッドから抜けだした。
 室内は結構な有様だった。畳の上に二人分の忍服が脱ぎ散らかされている。ベッドに近い所から下着、スボン、アンダーと点々と落ち、ベストは居間らしい隣室との境に転がっていた。  服がこうして床に落ちているのだから当然カカシは裸で、ベッドに丸まっているイルカも一糸纏わぬ姿のはずだ。
 玄関の鍵を閉めるのも待てなかった記憶がある。
 口付けて、何度も舌と唾液を混じり合わせて、互いの着衣を剥ぎ取るように脱がせ合って、縺れるようにベッドに倒れ込んだ。
 寒くありませんかと、囁くように問うてきた声が脳裏に響く。カカシの背に回った手がおずおずと肌を擦る感触を思い出す。
 寒いはずがない。興奮して全身の血が沸騰するようなのに。そう答える代わりに両腕できつく抱き締めた。同じように熱いイルカの肌が吸い付くように馴染むのに酷く感動した事を覚えている。
 カカシの下でその裸体がどんな風に乱れたか、鈍い頭痛の中でもまざまざと蘇る。
 しなやかな筋肉がついた腿がカカシの腰を挟み、カカシの肩を掴んだ指が縋るように爪痕を残した。濡れた目でカカシを見上げ、添えた掌に頬ずりをして、感じている事を全身で伝えてきた。
 そして、カカシを呼ぶ声。いつもの朗らかな明るさは影を潜め、耳の奥がじんと痺れるような、甘く蕩ける吐息混じりの声音が、ふっくらとした唇から溢れ出た。
 悩ましい痴態を振り払うようにカカシは眉間を揉んだ。脳みその芯が刺すように痛んで思わず眉をしかめる。
 風呂に入りたかった。ここが自宅なら迷わず浴室に飛び込んで、熱い湯を頭から被っただろうが、ここはカカシの部屋ではなく、勝手に風呂を使える程親しくもない。
 …取り敢えずは、服か。
 重なり合うように落ちる下着が何となく居た堪れない。手を伸ばしかけて、ふと顔を上げると、丸まった布団の影から黒い瞳がじっとカカシを見つめていた。
「おはようございます」
目の前にカカシがいる事が信じられないとでもいうように、黒い瞳は大きく見開かれていた。カカシの挨拶にぱちぱちっと瞬き、それから、がば、と起き上がった。
「お、はようございます」
酷いしゃがれ声で、ベッドから跳ね起きたイルカは、ぼさぼさに乱れた髪のままうろうろと視線を彷徨わせた後、
「風呂用意します」
引き止める間もなく、裸のまま逃げるように部屋を出て行った。



 扉を開くと浴室にはもうもうと湯気が立ち込めていた。
「一緒に入りますか?」
湯槽に向かって立っていたイルカがはっと振り返り、へあ、とおかしな声を上げた。蛇口から勢い良く流れ落ちる湯は、既に湯船の半分程貯まっている。
「いや、俺は後で…っ」
「どうして? 風邪引きますよ」
言いながら、カカシは壁のシャワーを手に取り湯を出した。浴槽に貯めているせいで水圧が弱い。手を当てて温度を調節してから、立ち尽くすイルカの胸に向かってかけた。
 一瞬身を強ばらせ非難するような目をしたイルカは、じっと見つめるカカシに観念したのか肩の力を抜いた。
 シャワーを壁に掛け、水流の下にイルカの腕を掴んで引き込んだ。寝乱れた黒髪が濡れて、しっとりと肩に流れていく。伏せた瞼から頬、唇へと湯が滴り、顎先から胸元へぱたぱたと落ちた。首筋から胸にかけて赤い痕がいくつも散っている。それをつけた時のイルカの反応が蘇って、カカシは思わず目を眇めた。
 口付けたい。欲望は唐突で、思わず掴んだ腕に力が篭った。びくりとイルカの肩が震え、戸惑ったように視線が足元に落ちる。
 そのまま、イルカをタイルの壁に押し付けた。顔の両側に手をつき、伏せた表情を下から覗き込むようにすると、イルカは男らしい眉を微かに寄せて呟くように言った。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんですか?」
ある程度予想はしていたが、実際にイルカの声できくと胸にこたえた。
「昨夜のあれは、あなたにとって謝るような出来事だったと?」
カカシの言葉から逃れたいとでも言うように、イルカは更に視線を伏せた。
「俺は…俺にとっては違いますが…その…あなたに申し訳なくて」
申し訳ない? 意味が分からない。
「オレは合意の上だと思っていますが?」
誘ってきたのはイルカだが、それを受け入れたのはカカシだ。道理の分からぬ子供でもあるまいし、自分の意志で了承したのだから行為の責任は同等だ。
「それで、どうしてオレに申し訳ないんですか?」
イルカは唇を引き結んだ。シャワーから二人に降りかかる水音がざあざあと響く。
「後悔してるんですか?」
問うのは恐ろしかったが、尋ねずにはいられなかった。していると言われたら、カカシはきっと一生立ち直れない。
 しかしイルカは俯いたまま、いいえと首を振った。
「後悔なんかしません。俺が、望んだんですから」
何を望んでくれたのか。カカシとセックスを楽しみたいと思っただけなのか。だったら尚更、何を謝る事がある? 何に対しての罪悪感だ?
沈黙が続いて、カカシは問いの方向を変えた。
「身体、無理してたでしょう?」
ぱっと顔を上げて、イルカは断固とした仕草で首を横に振った。
「じゃあどうして、催淫剤入りの潤滑剤なんか使ったんです?」
イルカの頬がさっと朱に染まった。やはりそうだったかとカカシは溜息をつく。だからあんなにも煽られてしまったのだ。イルカを抱いているという状況にのぼせあがっている所に、即効性の淫剤を直接粘膜に染み込まされてしまっては、いくらその類の薬品に耐性があるカカシでも自制が効く筈がない。
 催淫剤の影響で驚く程色めいたイルカの、羞恥心と奔放さの入り混じった凶悪な痴態にも煽られて、明け方まで何度も穿った。その途方もない気持ちよさ、いいと泣きながら自ら腰を振るイルカの淫猥さは、今思い出しても腰が疼く程だ。
 だからと言ってイルカに無理をさせたい訳ではない。ただでさえ男同士のセックスは受け入れる方の負担が大きいのだ。なのに、
「あの場で痛いなんて言ったら興醒めでしょう?」
赤い顔でそんな事を言うから、カカシは思わず声を荒げてしまった。
「どうして?無理される方が嫌ですよ」
「無理じゃありません。確かに俺は慣れてなくて、どうしたらあなたを気持ちよくさせられるのか分からなくて」
「だからって」
「俺が、したかったんです」
遮るように言って、イルカはカカシを睨み上げた。赤く染まった目の縁がやたら婀娜っぽい。
「あなたが俺で気持ちよくなってくれたら嬉しいんです。だから、無理とかそういうんじゃなくて」
 何て言えば良いんだと焦れたように眉を寄せるイルカに、胸に蟠っていた不安が晴れていく気がした。
 代わりに湧き上がったのは期待だ。
 イルカの表情に、その言葉に、もしかして、と思う。まさか、とも思う。だから問わずにはいられなかった。
「どうして、オレと寝たいと思ってくれたんですか?」
イルカは可哀想な程に顔を上気させて俯いた。シャワーの湯が二人の身体を打って柔らかな湯気が立つ。
 本当は、言葉を尽くして問い詰めて、無理矢理にでも暴いてしまいたかった。だが、イルカ自身の口から聞かないと、結局心底からは信じられないのだ。
 だからカカシは待った。獲物が射程圏内に入るまで息を潜めて窺う肉食獣のように、イルカが言葉にしてくれるのを待ち望んだ。
 不意に、足の裏が温かく波打った。見れば、溜めていた湯が浴槽から溢れ出している。カカシの腕の檻から逃れて蛇口に手を伸ばしかけたイルカを、カカシは反射的に自分の胸に抱き込んだ。
「先生」
どうか答えて下さいと、願いを両腕に込める。
「先生」
お湯が、と小さく声を上げて身じろぐイルカを更に強く抱き締めた。
 かちかちに強張っていたイルカの身体から力が抜けた。
「…好きだからです」
おずおずとした小さな声がカカシの耳に触れた。
「あなたの事を、好きだからです」
思わず緩んだ拘束からするりと逃れて、イルカは手を伸ばし、蛇口から流れ落ちる湯を止めた。肩に流れた黒髪が、ずるい、と呟く。
「こんな事…言うつもりなかったのに」
どうして? と背中からもう一度抱き締めた。腹に回して組んだ腕に、温かい手が遠慮がちに添えられる。
「だって、叶うはずがない」
だから。
「一度だけ、酔っ払ったはずみで羽目を外してしまったって、やらかしちゃいましたねって冗談にして笑って、それからまた今迄通りって、そういう風にしたかったのに」
イルカは罠を仕掛けたのだ。ただ一度捕らえる為だけの、獲物も狩人も互いに傷付かないよう、最初から逃がすつもりで準備された、臆病な罠を。
「そんなの、駄目です」
イルカの誤算は、獲物に、カカシに逃げるつもりが更々無かった事だ。
「だってオレも、あなたの事が、好きだから」
カカシの腕を優しく撫でていた指がぴくりと揺れて、
「やっぱりずるい」
甘く睨みつけてきた瞳がくしゃりと滲んだ。

 そしてカカシは、水道代とガス代を盾に取って告白させられたのだと、この先一生イルカにからかわれ続ける事になる。



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