手にて君を感じ

 

 

女の喘ぎ声が、一際大きくなった。

絶頂が近いらしい。

覆いかぶさる男の動きが、激しさを増した。

イルカは、足元の、親指の太さほどに開いた穴から、その様子を覗き込んでいた。

扇情的に設えられた部屋に、荒い呼吸と二人の熱が満ちている。

女の長い爪が、男の背にいくつも傷をつけた。男がきつく突き上げる度に、甘い嬌声があがり、その白い腿と、赤く染めたつま先が、ひくひくと蠢いた。

むせるような交わりだった。

イルカは、穴からそっと目を離した。そのまま静かに体を後ずさりさせ、目星をつけていた板を探ると、そっと指をかけた。

板は音も無く外れ、下の部屋の明かりが、低い天井裏に広がった。

人一人が通れるほど開いたその空間から、再びイルカは下を覗き込んだ。

ちょうど、男の後ろの畳に飛び降りられるように計算してあった。

男の銀色の髪が、その律動に合わせて揺れ、女の足が、その汗ばんだ腰に艶かしく絡みついていた。

男は夢中のようだった。

頃合を見計らって、イルカは下の部屋へ降り立った。気配を消したまま、物音一つたてずに、そっと男の背中に忍び寄った。

胸元からクナイを取り出し、男の口を押さえようと左手を伸ばした瞬間。

「はい、残念〜」

男はそう言い、いきなり前屈みになったかと思うと、布団の下に仕込んでいたらしいクナイを振り向きざま、イルカの喉元に正確に当ててきた。イルカも男の動きを予測し、右手のクナイを男に突き出した。

お互いが、お互いの喉にクナイを押し付け合って、睨みあうこと数秒。

「・・・合格です、はたけ上忍」

イルカは、体の強張りを解き、クナイを胸にしまった。

「全っ然、嬉しくないね」

カカシは、不愉快そのものの声で言った。口布は取っているが、左目は隠したままだった。細身だが鍛え上げられた体を、汗が伝っていた。

 申し訳ありません、と、そうは思っていない口調でイルカが答えた。イルカにしても、全くやってられない任務だった。

 女が、着物を胸にかき抱き、泣きじゃくっていた。

 

 

 

 「本当は、射精の瞬間を狙いたかったんですが」

イルカはしれっと言った。

「もしくは、射精の直後か。でもはたけ上忍のタイミングがよく分からなくて」

最悪、とカカシは忌々しげに呟いた。

 泣きじゃくる女に、値の数倍の金を握らせて、イルカは再び天井裏からその遊郭を出た。

 森の中を里へ急いでいると、後ろから、カカシが追いかけてきた。

「はたけ上忍。口直しを、するのでは?」

「萎えちゃいました」

当たり前でしょう、と言うカカシに、イルカは申し訳ありません、と再び謝った。今度は、気持ちがともなっていた。同じ男として、やるせなさはよくわかった。

「いくら訓練とはいえ、ああいうのは、嫌です。迷惑です」

ぶつぶつと文句を言うカカシに、イルカは無言で肩をすくめた。全くもって同感だった。

この訓練は、主に、単独潜入任務を行う上忍を対象に実施されていた。

同じ上忍または能力の高い中忍から選ばれた者が、訓練の対象者を、性交の最中を狙って襲撃する。襲撃は、相手を殺傷つもりで行うのが鉄則であった。

何時如何なる状況においても、事態に対処できる冷静さを養うと共に、己の色欲に溺れぬ頑健な精神力の育成を図ることを目的としたこの訓練は、無論、対象者には極秘であった。さすが上忍ともなれば、カカシのように問題なく対応できる者が殆どだが、中にはこの訓練がトラウマとなって、以後の性生活に支障をきたす者もいた。逆に、対象者に返り討ちにあって重傷を負う刺客もおり、木の葉の訓練でも過酷なものの一つといえた。

ただ、対象者にとってはいい迷惑としかいいようがなく、当事者達は命のやり取りをしながらも、ある種の馬鹿馬鹿しさが湧き上がるのを禁じえなかった。

「だってイルカ先生、本気でくるんだもん」

カカシが言った。

「当然です。本気で殺そうと思わないと、あなたの裏なんかかけません」

でも結局は、気づかれてしまいましたが、と、イルカは残念そうに言った。

「この出歯亀任務は、初めて?」

イルカは、嫌な言い方しないで下さい、とカカシを睨んだ。

「・・・過去にも経験があります」

「やる気削がれた相手に、責任取れとか、言われない?」

イルカは、今までを思い出し、少し躊躇した。

「まぁ、言われなくは、ないです」

カカシはちらりとイルカを見た。

「どうやって、とるの?」

「任務ですからあしからずって答えます」

「つまんない答え」

カカシは心底つまらなそうに言い、盛大な溜め息をついた。

「もうちょっとでいけそうだったのに。任務明けで、すっごくすっごく溜ってるのに」

また明日から任務なんですよねぇ、と情けない口調で呟くカカシに、イルカはついつい笑ってしまった。ナルト達の上忍師として、出会ったばかりの男だが、偉ぶらない、気さくな人となりのようだった。

「笑わないでくださいよ、深刻なんですから」

全く深刻そうでない口調でカカシは言った。口布と額宛で覆われた顔で、唯一晒された右目が、微妙な色に瞬いた。

「イルカ先生、ずっと覗いてたんでしょう?オレがやってるの見てる時、どんな事考えてました?」

イルカはまたか、と小さくため息をついた。アカデミーの教師をしているせいか、真面目で堅物な印象があるらしい。酒の席や、情事がからむ任務に就くと、必ずといっていい程からかわれた。

イルカ自身は人並みに経験を積んでいるし、外見や人に与える印象ほど、実際は初心でも潔癖でもない。自分から動くことはないが、誘われれば、相手を嫌っていない限り拒むことも無い。そうして関係を持った男女の数を聞けば、イルカの表面的な部分しか知らない人間は驚くことだろう。

特に何も、とイルカは答えた。

「あなたを殺すことだけ考えていたので」

それは残念、とカカシは呟いた。

「オレは、イルカ先生に見られてると思って、すごく興奮したのに」

「・・・・・・」

突っ込むべきなのか慇懃に無視するべきなのか、イルカは反応に苦慮したが、とりあえず聞いてみた。

「見られるのが、お好きなんですか?」

カカシの右目が笑った。

「まさか。イルカ先生だから興奮するんです」

カカシが何を言いたいのか、イルカには測りかねた。話題を変える意味で、気になった事を尋ねた。

「最初から、気付いてたんですか?」

「そうです、って言えたら格好いいんですがね、違います。イルカ先生、一度驚いたでしょう」

イルカは首を傾げた。思い当たることと言えば、天井裏に潜んでいる時、一度足元を鼠が走ったことぐらいだ。それも驚く程ではなく、一瞬気を取られた程度である。

カカシはさらりとした口調で言った。

「イルカ先生に会えるのを楽しみに任務から帰って来たら、あなた受付所にいないんですもん。がっかりして、真っ直ぐ家に帰るのもつまらなくて、あの遊郭に行ったんです。まぁ、出せればいいか、位に考えてたんですが、途中で、あなたがいることに気がついて」

カカシは、真っ直ぐイルカを見ていた。

「チャクラを感じたのは一瞬でしたけど、すぐにあなただと分かりました。何故天井裏に潜んでいるのかは謎でしたが、あなたがそこにいて、覗かれていると考えると、堪らなく興奮してしまって」

あなたの事を考えながら、自慰をしていたようなもんです。

顔を隠す額宛と口布のせいでカカシの表情を読み取れず、イルカは戸惑った。物凄い事を言われているような気がした。

「でも、あなたのせいで、結局いけませんでした。だからイルカ先生、責任とって下さいよ」

イルカの頭の隅で警鐘が鳴ったが、カカシの淡々とした口調に、つい答えてしまった。

「私に、どうしろと?」

カカシは、指で口布をずらし、口元を露わにした。先程初めて見た素顔だが、改めてみると、恐ろしい程美しく整っていた。その形のよい唇が、にぃっと笑った。

「やらして?」

軽い声に、イルカは眉を上げた。

「・・・お断りします。任務ですから、あしからず」

「じゃあ、いかせてくれるだけでいいです」

じゃあ、で済まない事を、カカシはあっさりと言った。

「そんな難しく考えないで下さい。触ってくれるだけでいいから。それとも、こういう事には慣れてない?」

ぞっとするほど蠱惑的な笑みを浮かべるカカシに、イルカは舌打ちしたい気持ちを抑えた。忌々しい。下手に出て見せて、揶揄するような言い方で、断れなくする寸法か。

その罠に、みすみすはまるようで癪だったが、どう?と首を傾げて微笑むカカシを見ていると、次第にどうでもいいような気持ちになった。

別に大したことではない。男相手も何度も経験がある。あまり楽しいものではないが、カカシ程綺麗な男なら、少しは気分がのるかもしれない。

「承知しました」

イルカが答えると、カカシから、今まで浮かんでいた笑みが消えた。

そして、イルカを居心地が悪くなるぐらいじっと見つめ、小さくため息をつくと、では、と言ってイルカの右手を握った。

思わぬカカシの行動に、

「逃げたりしませんよ」

イルカは慌てたような気持ちで言ったが、カカシは、哀しげにも見える表情で答えた。

「イルカ先生には大したことじゃないかもしれないけれど、オレにはとても大事なことなんです」

イルカと繋ぐ手に力を込めて、カカシは歩き始めた。歩幅の広いカカシに、イルカは自然引っ張られるような格好になった。むしろ、ぐいぐいと力任せに連れて行かれるといった感だった。

「・・・怒っているんですか?」

無言で、歩調を緩めず歩くカカシの背中に向けた質問に、答えはなかった。

 

 

 

カカシの家は、上忍住宅街の外れにあった。

低い石垣に囲まれた平屋の建物は、かなりの広さがあるようだったが、夜目にもその古さが分かった。イルカが意外に思っている間に、カカシはさっさと玄関の鍵を開けた。

手はずっと繋いだままだった。

中は、外見と違って丁寧に手がかけられているようだった。磨き上げられた廊下を進み、奥の、柔らかな明かりを灯した部屋に通された。

上忍は、支給された部屋が街の中心部にあり、そこを生活の拠点にする者が多かった。カカシも、そうなのだろう。小さなちゃぶ台と、小引き出し、長持、ベットの他に家具は無く、きちんと片づけられた部屋は広く感じた。

カカシは、部屋の隅のベットに、イルカを座らせた。

その横に腰を下ろしたカカシは、ようやく口を開いた。

「怒ってた訳じゃ、ないんです」

さっきの問いへの答えだと、少し考えて分かった。

「自分が情けなくて。あなたに触れられれば、どんな方法でもいいと思ってたんですが、やっぱり、皆と同じじゃ嫌なんです」

カカシは、繋いでいたイルカの右手を、そっと両手で包み込んだ。その慈しむような仕草に、イルカの心臓が音をたてて鳴った。

「あなたをここまで連れて来ることができて、よかった」

嬉しそうに微笑むカカシに、イルカは動揺した。なんて顔で笑うのだろう。先程の艶かしい笑みには動かなかった感情が、その素直な表情に反応した。

「・・・逃げたりは、しませんよ」

「手を離せって言われたらどうしようって思ってました」

カカシは、イルカの右手を、自分の胸に押し当てた。

「分かりますか?」

イルカの手の平に、早鐘のように鳴る、カカシの鼓動が伝わってきた。

「すっごく、緊張してます。みっともないですね」

カカシは片手で額宛を取った。イルカは初めて写輪眼を間近で見た。赤い色が宝石のようで綺麗だと思った。

「写輪眼では、私はどんな風に見えますか?」

軽口のつもりで言ったイルカの言葉に、カカシは、何にも変わりません、と悲しそうに答えた。

「この眼で、あなたの事が少しでも分かるなら、本当にいいんですが」

イルカ先生は難しくて、どうすれば気がひけるのか、全然わからないです。

 カカシの鼓動の早さにつられる様に、イルカの心臓も脈打っていた。カカシの視線が、恐ろしいような気がした。

 イルカ先生、とカカシが囁いた。

「オレはあなたを好きなんですが、いいですか?」

ぎりりと、胸が締め付けられた。忘れかけていた感覚だった。

「・・・いいですか、って、どういう意味ですか?」

「イルカ先生、もてるから」

「もてませんよ」

そんな覚えは無かった。

「あなたを好きな人、オレは何人も知ってます」

あなたと関係を持った人間も、とカカシは痛みを堪えるような顔で言った。

「その誰より、オレはあなたを好きだという自信があります。だから、よかったら、オレだけにしてもらえませんか?」

真摯な言葉が、イルカを侵食した。眩暈がするような気がした。

「・・・私は、はたけ上忍の事をよく知りません」

「はい。知り合ったばかりですから」

「私は、好きな相手としか、付き合わないと決めているんです」

嫌いじゃなければセックスはできる。だが、心を与えることは、自分が好きになった相手にしか許さない。

カカシは、静かに言った。

「オレはあなたに一目惚れでした。そして、あなたの話を子供達や他の誰かから聞く度に、あなたを好きになっていきました。だから今、あなたがここにいて、こんなに胸がどきどきしています。イルカ先生は、オレのことは、好きじゃないですか?」

わかりません、とイルカは正直に答えた。

 カカシは、自分の胸に当てていたイルカの右手を、イルカ自身の胸に当てさせた。カカシと同じように、全身が心臓になったかと思うくらい、激しく脈打っていた。

「この鼓動は、あなたの気持ちじゃないですか?」

イルカは返事に詰まった。確かに、カカシの言動に心動かされていることは事実だった。求められて、嬉しいと感じていることも。

 イルカは、自分の惚れにくさには自信があった。体を通わせた相手にでも、恋愛感情を持つことは稀だった。情が薄いと、泣かれたこともあった。

でもそれは、今までの相手には、今カカシに対して湧き上がっているような心のざわめきを、感じることがなかったからだ。

他の誰でもなく、カカシに動いた感情。

だったら、それを信じてみてもいいかもしれない。

イルカはさっきとは逆に、カカシの手を両手で包み込んだ。カカシの肩が小さく揺れた。

「はたけ上忍は、私・・・俺の事を、どれ位知っているんですか?」

「子供達には、心から真剣に向き合ういい先生だということ。受付所とアカデミーの職員室では、温厚ないい人で通っていること。とんでもなく腕が立つのにそれを隠している、忍として不真面目なところがあること・・・ナルトを里の誰よりも慈しむ、深い愛情を持っていること」

なのに、とカカシは言った。ナルトや子供達以外はどうでもいいように、誰にでも許すくせに、誰のものにもならない人。

 確かに、そうとられても仕方ないようなことをしてきた。イルカは薄く笑った。

「酷い事をしているのかもしれないと、思う時がありました。でも、俺の心が動かない人の気持ちには、どうしても応えることはできなかったんです。だから、せめて体だけでも、と傲慢にも思っていたんですが」

 傲慢、とカカシは呟いた。

「でも、もうやめます」

そう言ってイルカは、カカシの手を自分の胸に、自分の手をカカシの胸に当てた。二つの鼓動が、互いの中で重なり合った。そう感じると、よけいに高ぶった。

「きっと、はたけ上忍のがうつったんです。だから、責任とってもらいましょうか」

 できるだけ軽い口調で言うと、カカシは大きく眼を見開き、それから心底嬉しそうに微笑んだ。

 この笑顔がよくないな、とイルカは思った。

誘惑されている自分を実感した。

 

 

 

カカシの唇は、口付けなど慣れているはずのイルカを翻弄した。

 カカシの手が、イルカを今まで経験したことのない高みまで押し上げた。

 好きです、と切なげにイルカを呼ぶカカシが、堪らなくいとおしかった。

 カカシにのめりこむ自分を、イルカは恐ろしいほどはっきりと自覚した。

 それでもいい、と思った。

 心も体も、許すのは、あなただけ。

 満たされる喜びに、イルカは心から微笑んだ。

 

 

 

完(05.05.15)

 

 

 

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