恋の雫

 

 

 

他には何も望まない。ただ、あなただけ。

 

 

 

盃の残りを干した唇が、ふう、と満足げなため息を零す。

大柄な男二人が並ぶには少し手狭な店のカウンターは、時折触れる体温に酔ってしまいそうな気さえする。

「・・・ほんと旨そうに飲みますよねぇ」

ほのかに上気したその横顔に、ぼうっと見惚れていた事を悟られたくなくて、彼がこちらへ向く前に、揶揄の言葉を口にした。

「旨そう、じゃなくて旨いんですもん」

そう軽く口を尖らせた後、イルカ先生はにぃ、と、満面の笑みを浮かべてみせた。

「こんないい酒、カカシさんに飲ませて貰わなきゃ、なかなか口に入りませんからね」

期待に満ちた眼差しで、空になった徳利の首を摘んで持ち上げ、左右に振って見せたりするから、

「はいはい。遠慮なくどうぞ」

かわいいなあ、なんて惚れた欲目が零れないよう、苦笑で誤魔化すのはいつもの事だ。

出会って3年。

普段は常に遠慮と節度の気配を滲ませるその態度が、酒を含んだ時だけ、こうしてゆるりと崩れるのが何よりも嬉しい。

もう3年。

オレはこの人に、恋をしている。

 

 

 

今夜で、もう何度目になるだろう。

鼻歌でも飛び出しかねない程上機嫌のイルカ先生と、並んで夜の路地を歩く。

深夜の里は、静かに眠りについている。時折注意の端を掠める微かな気配は、任務を負って自宅を出る忍のものだ。

首筋を撫でる風が冷たい。人家の庭先で、葉の殆ど落ちた木の枝が、きしきしと頼りなげに揺れている。

目にははっきり映らなくとも、季節は、確実に移ろって行く。

深い黒に浮かび上がる下弦の月を眺めながら、できるだけ、何でもなく聞こえるように言った。

「明日からしばらく里を離れます」

本当は、不在の事実さえ漏らしてはいけない火影勅命の依頼。オレはイルカ先生を共犯に、こうして何度か規律違反を犯している。

理由は、ただ一つ。

「お気をつけて。ご武運を」

今日のように酔っていても必ず。オレの顔を真っ直ぐ見つめ、僅かに眉を下げ、それでもしっかりと力強い微笑みを浮かべる彼から、この言葉を貰いたいから。

例え、どれ程深い闇に堕ちようとも。善悪と生死の境界で、自分自身さえ信じられなくなったとしても。

あなたの表情、その言葉は、夜が明ける方角に輝く金星のように燦然と、オレが進むべき道を指し示してくれる。

必ず、この笑顔の隣に帰る。

祈る神を持たないオレの、唯だ一つの寄る辺。

 

 

 

隣を歩くイルカ先生は、相変わらずご機嫌な様子で、ほんと寒くなりましたよねぇ、なん言いながら、吐く息がほわりと白く染まるのを子供のように楽しんでいた。

その彼の瞳が、淡い月光を映したにしては、常に無い程強い光を宿しているような気がして、

「泣いてるの?」

思わず問い掛けてしまったのは、オレも、自分で感じている以上に酔っていたからか。

しまったと臍を咬んだが、イルカ先生は一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、それから、にかり、と歯を見せた。

「どうして俺が泣くんですか」

返答は至極尤もなもの。

「旨い飯を喰って、旨い酒を飲んで、里は平和で・・・」

そう言って、イルカ先生は小さく息をついた。

「・・・こうして、カカシさんと過ごす事ができるというのに」

これ以上の幸せは無いというのに。

ゆらゆらと揺れる肩が、立ち止まったオレを追い越してゆく。

月光に白く照らされたその後ろ姿は、陽気な酔っ払いそのものに見えたけれど。

 

 

 

あぁ、オレは何て。

ずるくて、間抜けで・・・幸せな男なんだろう。

「ねぇ。イルカ先生」

オレの呼び掛けに、イルカ先生は足を止め、ゆっくりと振り返った。

月を背負って影になったその表情の、どこか遠くを探るような頼りなさに、オレの心は力を得る。

「オレは、あなたといると、泣きたくなる時があるよ」

こんなに近くにいるのに遠い、あなたが恋しくて。

そう言って、一歩を踏み出せば、大きく目を見開いたイルカ先生が、短く息を飲んだのが分かった。

 

 

 

イルカ先生。

あなたが今まで必死に隠してきたものに、オレは今日やっと、気付くことができた。

少し覚束ない足取りのあなたの手が、きつく握り締められている事が。

陽気な笑みを浮かべた唇が、ほんの少しだけわなないた事が。

何よりも雄弁に、あなたの心を物語っていたのに。

ねぇ。

今、あなたの内に渦巻く奔流の、その流れを堰き止めているものを壊してくれませんか?

同性であること、階級、常識、互いの命が里の為にあること、あなたが恐がっているだろうすべてのものを、オレに向かって乗り越えてくれませんか?

「あなたの気持ちを知るまで動けなかったオレを、ずるいと、卑怯だと、責めるなら責めて」

でもオレはもう、あなたの全てを請う事に、一秒だって躊躇をしない。

「イルカ先生」

たった数歩をもどかしく感じながら歩み寄り、怯えたように後ずさったその腕を掴む。

「あなたが、好きです」

呆然とオレを見返す瞳を覗き込み、ずっと心の奥に隠してあった、ただ一つの願いを口にする。

どうか。

「あなたの全部をオレに下さい」

この心は、永遠にあなたのものだと誓うから。

 

 

 

硬い黒曜が、貝殻様の断面を煌かせる美しい破片となるように。

鋼のような強い意思で、本心を垣間見せもしなかった黒い瞳が、白銀の月光を集めて輝きを放つ。

「・・・ずるいのは、俺のほうです」

あなたが、恐くて。

あなたに関するすべての事が恐くて。

友人として隣にいられるだけで、幸せだと思おうとしていました。

「あなたが任務に出る度に・・・決して俺だけのものにならない人を好きになってどうすると。好きになればなるほど、ただ苦しいだけじゃないかと、そんな事ばかり考えて」

 微かに震える唇から、囁くように紡がれた言葉は、常の彼からは想像も出来ない程弱々しく、彼の内で渦巻く葛藤の重さを物語る。

「・・・でも」

彼の腕を掴むオレの手に、彼の掌がそっと重なる。

「やっぱり俺は、カカシさんを諦める事ができなかった」

好きだから。

どんな尤もらしい理由をつけても、あなたを想う気持ちは、どうしても止められなかった。

「・・・諦めなくてよかった」

晴れやかな笑顔が。

「俺も・・・あなたが恋しくて堪らない」

何よりも欲しかった言葉が、オレの胸に染み透る。

 

 

触れ合った手を互いに絡めあい、引き合い、身を寄せる。

「その覚悟も、苦しみも不安も悲しみも、全部ひっくるめて、あなたはオレのものだから」

あなたはただ、オレを、好きでいて。

そう囁くと、黒い宝石の瞳から、ほろり、と雫が一粒、零れ落ちた。

 

 

 

完(08.05.26)

 

 

 

06.12.29発行 Web再録『恋の雫』(完売)より、書き下ろし「恋の雫」

まともに読み返せません・・・。

 

 

 

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