ねぇ。イルカ先生。

 

お願いがあるんです。

 

 

 

どうか、もう一度だけ・・・。

 

 

 

Sleep in my hand

 

 

 

その夜も、カカシは血塗れで自宅に戻った。

いつものように明かりは灯さず、誰もいない暗闇の中を風呂場へ直行する。

暗部装甲をタイルの上に外して、アンダーウエアのままシャワーの湯を浴びた。湯気と一緒に生々しい鉄錆の匂いが立ち上り、排水溝へ赤い水が渦を巻いて流れ込む。すべて任務で屠った敵の血だ。乾く間も無く浴び続けていたから、纏わりつくようにずっしりと重かった。

血がある程度流れ落ちた所で、カカシは身につけているものをすべて脱いだ。石鹸に手を伸ばして、今日も傷一つ負う事の無かった身体に擦り付ける。

まだ十代半ばのその体は、しなやかさと弾力を感じさせる瑞々しい筋肉が白い肌の下で張り詰めて、青年の力強さを備え始めていた。端正な白皙に、Sランク任務を無事に終えた安堵は無い。

とにかく、疲れていた。

この秋、里を襲った九尾の災厄で、木の葉は壊滅的な被害を受けていた。危機的な人手不足は、力ある者を極限まで摩耗させ、実力の覚束ない者を力量以上の任務という命の危機に追いやった。

数少ない暗部の生き残りであるカカシも、連日連夜、休む間もなく働き続けていた。最も過酷な役目をカカシに任せる事が、何より任務の成功と部隊の生存率を上げると、周囲もカカシ自身も理解している。弱音は吐けない。吐くつもりもない。

今までも昨日も今日も明日もこれからも、ずっとカカシは血を浴び続ける。ただ、それだけだった。

細い絹糸のような銀色の髪にこびり付いた血を乱暴な手つきで洗い落とすと、カカシはシャワーの湯を止めた。

タイルに脱ぎ捨てたアンダーは、明日洗濯するつもりだった。血反吐と汚泥で汚れた装甲も綺麗にしておかなければ、と思う。血液は、早く洗わないと固まってしまって落ち難くなるけれど。

「めんどくせ・・・」

カカシは呟いたが、他に誰もやってくれないから仕方がなかった。

脱衣場でおざなりに体を拭いて、適当な服を被ると、腹が減っているような気持になった。そう言えば、朝から何も食べていない。

だが、明かりの灯らない家に、食事が用意されている訳もない。結局いつものように、カカシは携帯用の丸薬入れから兵糧丸を取り出すと、口に入れた。味気はないが、栄養は取れる。後は眠れば、体力も回復するはずだ。

髪の毛の先から雫が落ちるのにも構わずに、カカシはぺたぺたと暗い廊下を家の奥へと歩いた。

幼い頃に母を病気で亡くしてから、ずっと父と二人だけで暮らしていた。父もいなくなった今、この家に帰るのはカカシしかいない。

母の死後、父は、家族以外の人間が家に入るのを余り好まなかった。だから父が亡くなった後も、カカシはずっと、この家で一人だ。

この古い家には、両親との数少ない思い出が残っている。他人の気配を入れぬ事で、その淡い思い出を、永遠に留めておけるような気がしていた。

ただ、とカカシは思った。

たった一人だけ、この家に連れてこようと思った人がいた。

名前も、どこの人間かも知らない。木の葉の忍服を着ていたが、敵の間者だったかもしれない。

九尾の災厄の夜に出会ったその男は、命さえ危ういほど衰弱していた。九尾が蹂躙した大地に伏し、抱きとめたカカシの腕の中で、愛する者を想って慟哭した。

助けたいと思った。その命も。その心も。

敵かもしれないのに、と戸惑いながら、助けたいと願う自分の心を止められなかった。

邂逅は、数分。男は、カカシの腕の中から、文字通り消えてしまった。何が起こったのか理解できず、追いかける事もできず、儚い体温が残る掌が喪失感に震えたのを、今も覚えている。

任務を終えた、こんな静かな夜に、もう二度と逢えないだろうその男の事を、カカシはよく思い出した。

もう一度、逢いたい。そう思う度に、胸が詰まったように苦しくなった。痛み、というよりどこか甘やかなその疼きは、他の誰に対しても感じないもので、それが余計にカカシを落ち着かない気持ちにさせた。

カカシは廊下の突き当りに来ると、襖に手を伸ばした。襖の向こう、庭の見える部屋が亡くなった父の部屋だった。

任務の後はいつも、カカシは父の部屋で眠る事にしていた。だから、最近はずっとだ。

襖を開けたカカシの濡れた髪を、夜風が撫でた。見ると、確かに閉めたはずの掃き出し窓が開いている。

そこに、庭に向かって腰かける人影を見つけて、カカシは息を飲んだ。

長い黒髪。淡い月光に、精悍な横顔が浮かび上がった。

まさか。状況を飲み込めなくて呆然と立ち尽くすカカシを、影が振り返った。

夜の色の瞳。鼻の上を走る傷。

「こんばんは。カカシさん」

微笑む声は、確かに、あの男、だった。

 

 

 

「あ、んた」

呟いたカカシに、男は微笑みを返した。

「任務だったんですね。おかえりなさい」

「・・・どうやって入ったの?結界張ってあるのに」

カカシしか解術の印は知らないはずだ。だが、男はそれには答えず、

「飯、食ってないでしょ?」

「え・・・あ、うん。ってちょっと」

立ち上がった男は、すたすたとカカシの横をすり抜けた。

「許可は貰ってるとはいえ、流石に家主がいないうちに、台所触るのはどうかと思って」

「え?許可って何?」

「米はあるでしょう?」

「うん、ある、けど」

「とりあえず、飯炊きますよ。塩結び作りますね」

「うん、って、待ってって」

闇に沈んでいた台所に、凶暴な程の明かりが溢れて、カカシは思わず顔をしかめた。

男はすぐに米櫃を探し当てると、慣れた手つきで米を研いだ。冷蔵庫を覗き込んで、

「味噌汁も作りますね」

「あ・・・うん」

「じゃが芋、全部使いますよ」

「うん」

台所に湯気が立つのはどれくらいぶりだろう。カカシは食卓に腰を下ろして、立ち働く男の様子を見守った。

願いが叶った、その現実感が無い。心のどこかで諦めていたせいだろうか。それとも。

男は、カカシの記憶の中とは違っていた。背は思っていたより高く、カカシより大きかった。服の上からでも分かるしっかりした筋肉を備えて、肌の血色もいい。黒髪を下ろした顔は日焼けして、男らしく引き締まっている。

そして。カカシの胸が疼くように痛んだ。

何て、優しい顔で笑うのか。

「ねぇ」

あの夜、カカシの腕の中で、あんなに弱々しい姿で震えていたのに。

「何ですか?」

自分の声が尖る。

「もう、忘れたの?」

命を掛けて想っていた相手を。そいつがいなければ世界に意味がないと言い切った相手を、忘れたの?

男は、手を止めてカカシを見返した。

「忘れていませんよ」

じゃあ、どうして、そんな綺麗な顔で笑えるんだ。カカシの無言の問いかけに、男は困ったような表情を浮かべただけだった。

米が炊ける間、男は風呂場でカカシの衣類を洗った。

「いいよ、明日、オレやるから」

「任務明けで疲れてるでしょう?俺に、洗わせて下さい」

そう微笑まれると、もう何も言えなかった。男は何故か物干し場の場所を知っていて、手早く洗い上げた暗部装束を干した。

炊き上がった米で、男は沢山の握り飯を作った。味噌汁の具は、戸棚の隅にあった乾燥若芽としなびかけたじゃが芋だ。

食卓に向かい合って、男と握り飯を食べた。海苔も無い単純な塩味。だが、久しぶりに味のある食べ物を摂ったカカシの臓腑に染み渡った。

「塩、辛過ぎませんか?」

「・・・うまい・・・です」

聞きたい事も言いたい事も沢山あった。だが、胸が詰まって言葉にならない。

泣きたい訳ではない。ただ、目の前に男がいる事実が、息苦しい程にカカシを満たした。

もう他には何もいらない。これだけでいい。

皿一杯に乗っていた握り飯を平らげて、熱い茶を飲み干すと、カカシは、やっぱり腹が減っていたんだと、ぼんやりと思った。

自分が何に飢えていたのか、分かった気がした。

男と並んで食器を片付けた後、父の部屋に戻った。窓の外の月は、夜が更けた事を知らせてくる。

「あ、あんたは布団いるよね」

そう呟いたカカシを、男はじっと見つめた。

「この部屋で眠っているんですか?」

カカシは頷いた。

丹精込めて育てていた庭で、自ら喉を突いて息絶えていた父を見つけたのはカカシだ。

だからカカシは、この部屋で、庭を見ながら眠った。蹲り、前のめりに倒れた父の最後の姿でもいい。その面影さえあれば、自分はこの世界に一人じゃないと思えた。

「布団、オレの部屋から取ってくるから」

「家で眠るのに、布団を使ってないんですか?」

「いらないから」

畳に上にそのまま寝転んで眠っていた。任務中は木の上で眠る事だってある。横になれればそれだけで贅沢だ。綿の柔らかい感触は、どうも落ち着かない。

男は、カカシの答えに悲しげな表情を浮かべると、今日は一緒に寝ましょうと言った。

自分でも気付かなかった何かを暴かれた気がして、カカシはうろたえた。

「・・・いいの?」

運び込んできた布団を敷き始めた男に、カカシは問うた。

「何がですか?」

「一緒に寝るって、そういう事でしょう?」

無言のまま布団を敷き終えた男は、

「違います」

きっぱりと答えた。

「あなたは、違う」

断言に、頭に血が上った。

敷いた布団の上に男を引き倒し、カカシはいつも身につけている小刀をその首元に当てた。

「違うって、何?」

年下の自分では相手にならないと思っているのか。

「誰と違うの?」

死んでしまった奴の事など、忘れてしまえばいい。カカシはここにいて、その体を抱きしめる事ができる。これからずっと側にいて、男を守る事ができる。

だが、男は表情も変えず、静かにカカシを見上げた。

「気に入らないなら、俺を殺しなさい」

そう言って、無造作に刃を肌に食い込ませようとする。

「―――っ」

カカシは慌てて刀を放り投げた。

「・・・酷い」

また、傷つける所だった。

「酷いのは、あなたです」

項垂れるカカシの背に、男の腕が回った。驚く程きつく抱きしめられた。

「どうか、心配かけないで」

男の言葉に、無性に泣きたくなった。

「なんで、あんたがオレを心配するの?」

「・・・・・・」

「オレは強いよ。本気出したら、あんたを犯すのなんて簡単だよ」

だが、男はさらに腕に力を込めて言った。

「眠りなさい」

触れ合った肌から直接響くような優しい声に、カカシの体から力が抜けた。崩れるように男の上に覆い被さると、男はカカシを自分の胸に抱き寄せた。

「俺は、ここにいます」

男の心臓の音が聞こえた。

「だから、安心して、眠りなさい」

力強く脈打つ命の血潮が、カカシに響いてくる。男が確かにここにいるという安堵と、それ以上の安らぎが、カカシを温かく満たしてゆく。

出会った夜、カカシは男の弱々しい体を抱き寄せた。今、男の腕は、どこまでも優しくカカシを包み込む。

カカシのすべてを抱き締める為にここにいるのだと、男は、言葉以上に信じられる確かさで伝えてくる。

大丈夫、と言われた気がした。

・・・眠りたくない。

急激に襲ってきた睡魔に、カカシは思った。溺れるものがしがみ付くように、男に縋り付いた。

眠れば、男はきっといなくなってしまう。

また、カカシは一人になる。そう予感以上に知っているのに。

カカシはいつの間にか、深い眠りに落ちていた。

 

 

 

目覚めると、布団の中でカカシは一人だった。

慌てて起き上がり、部屋を見回すが、朝の日差しが満ちる室内に、男の姿は無かった。

呆然としていると、気配を感じた。台所だ。カカシは飛んで行った。

「ちょ・・・っと・・・」

引き戸を開けて、足を止めた。

誰もいない。

テーブルの上には、握り飯と、湯気の立つ味噌汁が用意されていた。ほんの直前まで、男がここで立ち働いていた、その気配が残っている。

でも。

行ってしまったのだと、痛いほどに理解できた。

あの夜と同じように、男は、カカシの手の届かない所へ行ってしまった。

カカシはふらふらとテーブルに近寄った。握り飯の皿の横に、丁寧な文字の書かれた小さな紙が置かれていた。

 

 

「できる限り、食事を取ること。

 

できる限り、布団で眠ること。

 

風呂は肩まで浸かって百まで数えること。

 

 

 

いつか。

あなたが大切な人を見つけた時は、絶対に守り抜くこと」

 

 

 

ぽたり、と落ちた滴で、文字が滲んだ。

胸に、大きな穴が開いた気がする。

寂しい。苦しい。

でも、その痛みと同時に、晴れ晴れとした気持が湧きあがった。

「・・・風呂は、関係ないんじゃない?」

カカシは、小さく呟くと握り飯に齧り付いた。

温かい男の手が握った、温かな握り飯は、何よりもカカシを温めた。

「しょっぱい・・・」

次から次へと流れ落ちる涙をぬぐう間もなく、カカシは握り飯を頬張り続けた。

 

 

 

まずは、雑草だらけの庭をきれいにしよう。

父さんが大好きだった庭だ。

どうすればきれいにできるのか、三代目ならきっと知っている。

 

 

 

父さん。

 

あなたが大切にしていた場所なのに。

無くしたくないと思っていた、家族の思い出がある場所なのに。

 

ずっと放りっぱなしにして、ごめんね。

 

 

 

**********

 

 

 

イルカの膝枕でイチャパラを読むのがカカシにとっての至福の時だった。

至高の愛の物語は何度読んでも飽きないし、視線を上げれば、テストの採点をする想い人が、赤ペン片手に「何でこんな答になるかなあ」としょんぼり呟く顔を眺められる。眠くなればそのまま寝入ってもいい。

今も、窓から入ってくるそよ風が、カカシの眠気を誘った。

取りとめのない記憶や思いが、さらさらとカカシの脳裏を流れてゆく。

そろそろ、実家の手入れをしなければ。人が住まない家は気をつけていないとすぐに古びる。庭も、きっと雑草で覆われているだろう。剪定は業者に頼むとしても、草むしり位は自分でやろう。

ふと、唐突に、カカシは思い出した。

思い出した、というより、それはまるで記憶の中に新しく書き加えられたようにはっきりと、カカシに刻みつけられていた。

「ねぇ、イルカ先生」

考える前に、言葉が出てきた。

「お願いがあるんです」

何ですか?とイルカがカカシを見下ろした。

「どうか、もう一度だけ、時を渡ってくれませんか?」

 

 

 

助けたいと思った。

その命も。その心も。

でも、助けられたのは、自分の方だった。

 

 

 

あの夜出会ったのは偶然だったかもしれない。

だが、その偶然が、カカシの運命を導いた。

命をかけて守る相手を。

命をかけて守ってくれる相手を。

その者の名を、運命はカカシに言祝いだ。

 

 

 

「おかえりなさい」

戻ってきたイルカを、カカシは抱き寄せた。

「ありがとう。イルカ先生」

覚えている。一晩中、抱きしめてくれていたこの腕を。

「オレは、寂しかったけど、悲しくはなかったよ」

忘れない。優しい微笑みを。握り飯を握る手の温かさを。

「ちゃんと、あなたを言いつけを守ってるでしょ?」

一人の時も、きちんと飯を食ってるし、布団で眠ってる。

それに。

「やっと見つけた大切な人を、絶対に守り抜くって決めている」

だから。

どうか。

「泣かないで。イルカ先生」

 

カカシは、自分だけがこの流れ落ちる涙を止められるのだという事実にこの上もない幸福を感じながら、腕の中の愛しい人を更に強く抱き締めた

 

 

 

完(09.02.02)

 

 

 

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