いまはむかし。

若い旅人が、ある村を通りかかった時のことでございます。

道案内を乞うたある家で、それは美しい娘が、さめざめと涙を流しておりました。

傍らの両親も、世も末とばかりに悲嘆にくれ、泣き濡れています。聞けば、北の洞に鎮座まします神様が、生娘を生贄として望んでいるとの事。

「生贄に選ばれた娘の家の玄関には、白い羽のついた矢が突き刺さるのです」

両親の言う通り、この家の玄関の柱には、深々と白羽の矢が刺さっておりました。

話を聞き終えた旅人は、たった一人の娘を失う悲しみにくれる両親に、

「大切な我が子を失うことより辛いことはないでしょう。なのに、ただそうやって泣いているだけでは、娘さんは不幸なままですよ」

驚く両親に旅人は、言い聞かせるように、励ますように言いました。

「はなから死なせるつもりなら、娘さんを私に下さい」

そうしたら、娘を失う代わりにあなた方は、来年あたりかわいい孫を腕に抱いているかもしれませんよ。

 

そして、両親の了承を得た旅人は、小さな飼い犬を伴って一人北の洞へと向かいました。

 

 

 

 

 

 

うみの家の家訓なんですよ。

酒も煙草も博打も、若いうちに覚えておけって。

悪い遊びは大人になってから嵌り込んだら、なかなか抜け出せないからって。

だから、とイルカは口元を緩めて、手の中の杯を空けた。

「修行が足ったんですね」

カカシも決して酒に弱い方ではない。しかし、イルカはまさしくざるだ。まるで水を飲むかの如くすいすいと飲み干して、一晩で一升瓶を空けることも稀ではない。馴染みの気安い居酒屋では、余りにペースが早くて注文取るのが面倒だと瓶ごと運んできたりする。

今も、カウンターでカカシの横に座り、漬物やら竹輪やらを相手に手酌酒を楽しむイルカは、顔色も口ぶりも、普段とそう変りない。ただ、その黒い瞳だけが、まるで水の膜が張ったかのようにつやつやと、濡れて光って見える。

「博打もね、最初に手痛く負ければすぐに止めたかもしれませんが、それなりに勝ててしまったから、ずるずると。冗談で、忍を辞めて博打打ちになると言ったら、アスマさんに殴られました。三代目にも、随分心配かけてしまって」

もう何年も前に止めたので、五代目には絶対に内緒ですよ、と笑いを孕んだ声をひそめる。

ただ、

「悪い遊びだったら・・・女遊びは?」

そう投げかけたカカシの問いには、微かに眉を下げて、くすりと微笑んだだけだった。

 

 

 

さすがに酔っ払いました、とイルカは嘘をつく。

「カカシさん、強いから」

そう笑って隣を歩くしっかりとした足取りは、付け入る隙も見出せない。

「有難うございました。お休みなさい」

互いの自宅へと分かれる路地の角で、イルカはぺこりと頭を下げた。そのままくるりと向けられた背を、

「イルカ先生」

呼び止めるのに、カカシは一生分の勇気を振り絞った。

振り返ったイルカに、

「今、先生、一人ですよね?」

カカシは告げた。

「オレと、付き合ってもらえませんか?」

「・・・え?」

「恋人として、付き合ってもらえませんか?」

イルカは、こぼれんばかりに目を見開いて、それからにかりと歯を見せた。

目を細めて、口角を無理矢理に上げて唇をまくり上げた、まるでどうすれば笑顔に見えるのかという手順を一つ一つ追いかけているような、そんな顔でカカシを見返した。

そして、

「無理です」

それだけ言って、まるで逃げるように走り去った。

 

 

 

自宅の古いアパートに戻ったイルカは、荷物を置くとそのまま洗面所に直行した。

風呂に入るつもりなのだろう。浴室の明かりだけを点けて服を脱ぎ、そのまま洗濯機へ放り込んでいく。

と、洗面台の鏡に映る自分の姿に目をやって、イルカはそのまま手を止めた。

傷だらけの身体は固く引き締まって、筋肉の隆起が複雑な陰影をつけている。その左の鎖骨の下、心臓の斜め上の辺りに、大きな痣があるのが見えた。

歪んだ四角形が二つ並んだようなその痣に、イルカは右手で触れた。鏡の中の自分を見返しながら、その痣を指先で辿り擦り始めた。

ごしごしと、力を入れて。まるで、そうやって擦れば、皮膚から痣が無くなるとでもいうように、周囲の皮膚が赤くなる程に、何度も何度も擦り続けた。

ふ、とイルカの声が漏れた。その口元が、微かに、本当に微かに震えている。

泣いている。

それに気付いた瞬間、カカシは声をかけていた。

 

 

 

真っ赤な顔で、不法侵入です、と喚くから、

「誓って、今晩が初めてなんです。許して下さい」

カカシは何度も頭を下げた。しかし、イルカの怒りはおさまる気配がない。

「初めてがどうとか、そういう問題じゃありません。ひ、人の家を・・・しかも風呂場を覗くなんて・・・信じられない・・・っ」

だって、とカカシは言った。

「イルカ先生が、オレを振るから」

開いた口が塞がらない、をまさしく地で行く顔で、イルカはカカシを見返した。

「振るからって・・・あなたねえ・・・」

「イルカ先生、オレの事、好きでしょう?」

カカシの確信に満ちた問いに突き飛ばされたかのように、イルカの身体が揺れた。

目を見開いて、そのまま俯いてしまう。酷い人だ、と小さな声がその唇から零れた。

「・・・だから、オレは、無理なんです。お付き合いはできません」

「どうして?」

思わず、その肩に手を伸ばしかけ、カカシはそのまま握り締めた。

「イルカ先生はオレの事好きで、オレも同じ気持ちです。お互いに独身で、心配かける家族もない。どうして、無理なの?何が問題なの?」

イルカは、顔を上げた。その顔は、また、微笑みの練習のような笑顔だった。

「・・・俺には、決まった相手がいますから」

今度は、カカシが激昂する番だった。

「決まって人ってなんですか?あなたに恋人はいません。悪いけど、オレが知らないだけ、なんて、絶対有り得ませんから」

「・・・どうしてあり得ないなんて言うんですか?」

「オレがどれくらい長い間、あなたの事見てたと思ってるの?」

もうずっと、ずっと、イルカを想っている。

初めて戦場で会った時から。

アカデミーの教師になる、と輝く目で未来を語るその姿を、眩しいと思った時から。

その時から、どれだけの時間を、イルカへの想いで埋め尽くしてきただろう。その朗らかな笑顔を、どれだけ、心の支えにしてきただろう。

「オレの事、好きでしょ?イルカ先生」

ずっとイルカを見つめ続けてきたのだから、気付かない訳がない。いつからか、切なげに吐息をひそめて、カカシをひっそりと追ってくれるようになったその視線に。

自分に都合のいい錯覚かもしれないと思いながら、その眼差しの一途さに期待する気持ちを押えられなくなる程に、その視線は熱く、深く激しく、カカシを求めてくれていると、はっきりと感じられたのに。

「・・・俺には、決まった相手がいるんです」

俯いたまま、イルカは自分の胸にある痣を指差した。

「これが、その証です」

 

 

 

西のある貧しい地域には、人身御供の風習がある。

数年に一度、その地域の子供の肌に、ある決まった形の痣が浮かび上がる。まるで矢尻の羽のようなその痣を、白羽の矢と呼び、痣ができた子供を神が求めるという。

どれだけ親が隠していても、子供はいつのまにか拐かされる。連れ去られた後は、神を慰める伴侶となり、最後には贄となる。その数年の間、地域は、旱魃や洪水や流行り病から免れるという。

よく聞く話だ。

子供に道理を躾ける為の害の無い昔話としても、もっと血生臭い現実の隠れ蓑でも、大陸のあちこちに転がっている話だ。

「どうしてあなたに、その痣があるの?」

カカシのもっともな問いかけに、

「下忍になりたての頃、偶然任務でその地域を訪れていたんです。朝目覚めたら、痣ができていて、村長にその話を聞きました」

供物が逃げても、神はどこまでも追いかけてくるそうだが、もし、神の意に沿わない事になったら、地域に恐ろしい災いがもたらされる。地域の民の命が掛かっていると、涙ながらに訴えられたと、イルカは答えた。

「意に沿わないってどういう意味ですか?」

「それは・・・前例が無いので、よく分かりません」

カカシの苛立ちを悟ったのか、イルカは口の中で歯を噛み締めた。

「・・・つまり、その痣がある限り、あなたはその神様のものだって事?」

イルカは小さく頷いた。

「痣がついてから随分時間が経ってますよね。いつその神様は、あなたを迎えに来るの?」

「・・・分かりません」

「じゃあ、下手したら、一生迎えに来ないかもしれないの?だってもう、あなた子供じゃないでしょう?」

「それは・・・そう・・・ですね」

はっとしたように、イルカは顔を上げ、それから再び俯いてしまった。

「分からないまま、これからずっと、一人でいるつもりなの?」

「そうするしか、ありませんから」

カカシの咎めるような口調に、諦めと決意の混じった声音で答えて、

「人の命に関わる、と言われたら、そうぜざるを得ないでしょう?」

は、とカカシは息をついた。

この高潔で、しかも頑固な心根にカカシは心底参ってしまっているのだ。

「・・・それだけ?」

カカシの問いかけに、え?とイルカは首を傾げた。

「あなたがオレを拒む理由は、それだけですか?」

その痣がなければ、あなたは、オレのものになってくれますか?

「イルカ先生、オレの事、好きですよね?」

問いかけは三度目だ。

そしてようやく。

頬を真っ赤に染めたイルカは、はい、と小さく返事をしてくれた。

 

 

 

「これが、多分、正体」

カカシが言った。

「ごめんなさい。オレ、知らなかった」

あなたがそんな目に遭ってるなんて、知らなかったから。

そう続けるカカシの隣で、イルカは息を詰めたような表情を浮かべ、目の前にあるものを見つめていた。

木の葉を遠く、西。深い山の中に、その洞はあった。

自然の作用で出来上がった巨大な空洞は数キロに渡っている。その最奥、突き当たりの壁に、氷で張り付けられているのは、

「蛇・・・ですか?」

見上げる程巨大なくちなわだった。

氷の中でカッと目を見開き、大きく開いた口からは、鋭い牙が覗いている。ゆらりと鎌首を持ち上げたその様は、今にもこちらへ飛び掛ってきそうだ。

この大きさなら、子供や小柄な女性なら簡単に飲み込んでしまえるだろう。

「長く生きて、神性を備えたんでしょうね。人語も解して、なかなか手ごわかったですよ」

「どうして、カカシさんが?」

「十年近く前、近くで任務があったんです。その時まだ訓練中の子犬を連れていて、そいつが、これに捕まったんですよ」

それで、とカカシは蛇を見上げた。爛々と光る眼、牙の先からは毒の滴りが見える。

「生き物が食べ物を求めるのは当然ですから、殺すのはどうしても忍びなくて氷漬けにしたんですけれど」

「だったら」

イルカはカカシを振り返った。

「もう、子供に、白羽の矢は立ってないんですよね?」

「・・・・・・」

「村の人達に知らせてやらないと」

先にたって歩き出したイルカを、カカシは呼び止めた。

「・・・知らせない方がいいかもしれません」

驚いて振り返ったイルカにカカシは続けた。

「人身御供や人柱を求める神の殆どは・・・人の心が生み出すものなんです」

貧しい地域で、旱魃や洪水は、共同体そのものの生存を脅かす。その不安を解消するために、神の名のもとに犠牲を捧げる。

畏れと恐怖を、共同体の外部に向けることによって、貧困に閉塞する共同体の団結を維持する。

スケープゴート。生贄の山羊。よくある話だ。

「調べたら、オレがこいつを氷漬けにして以降も、白羽の矢は立っているようなんです」

イルカは、はっと眉を寄せた。

思わず見上げた蛇の目が、じいと二人を見下ろしていた。

 

 

 

挙動不審、を絵に描いたような動きで、イルカは、カカシの隣にようやく腰を下ろした。

「もっと、こっち来て」

微妙に開いた二人の隙間を埋めたいと、カカシはその肩に手を伸ばした。

里に戻って、攫うようにカカシの部屋へ連れてきた。

イルカは確かに風呂上りではあるが、それ以上に、肩を抱かれただけでのぼせ上がって見えるその表情が可愛い。

「あの・・先に・・・言っておきたい事があって」

膝の上で両手を握り締め、イルカは思い詰めたように言った。

「・・・俺は、したこと無いんです」

「何を?」

赤い顔に更に血を集めて、イルカは囁くように言った。

「その・・・今まで誰ともしたことないんです」

自分は神様のものだから、そういう事をしてはいけないと、思い込んでました。

「・・・だから・・・その・・・」

「童貞で、処女ってことでしょ?」

すっごく嬉しいです。カカシは笑った。

「酒も煙草も博打も、遊び足っているイルカ先生が、唯一知らない事を、オレが一から全部教えてあげられるんだもの」

カカシの手で、カカシの好みに、カカシの色に。

この何よりも大切でいとおしい男を、カカシだけで染めてしまえるのだ。

 

 

 

大人になってからだから、嵌り込んじゃうかもね。

そう、赤い耳に囁けば、

「遊びじゃないから、いいんです」

そんな事を言う、その可愛い口を塞いでやった。

 

 

 

完(10.12.19)

初出(10.09.12)オンリーイベント「海千山千」配布ペーパー

 

 

 

 

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