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優しい顔しか知らなかった。

いつも、穏やかな声で話しかけられて、受け答えはこちらが恐縮してしまう程丁寧で、それでいて誠実な温かさが感じられた。

特別だとは思わないまでも、自分に親しみを感じてくれている、そう、恋に溺れる心は自惚れていた。

だが、はたけカカシは、木の葉の里を背負って立つ、誉れ高き上忍だ。

中忍で、同じ男のの自分が懸想する事すら憚られる相手なのだと、改めて思い知らされたような気がした。

 

「・・・怪我を、なさっているのでは?」

漂う血の匂いが、彼の腹が原因だと知って、背筋が冷えた。傷を押さえる右手の手甲がぐっしょりと濡れて見える。

「大丈夫です」

カカシの声は、今まで聞いた事も無い程、低く、硬かった。そしてそのまま後ずさる。

「でも、病院は、反対方向ですよ」

何時頃負った傷かは分からないが、未だに鮮血の匂いがするなんて、どう考えても緊急に治療が必要だろう。

「・・・ええ、まぁ」

歯切れの悪い返事に、カカシがこのまま帰宅しようとしているのだと直感した。

「行きましょう、病院」

引っ張ってでも連れて行こうと、イルカはカカシに向かって一歩踏み出した。

 

「近寄らないで」

びん、と声に突き飛ばされたような気がした。

初めて聞く、拒絶の言葉。余計な世話だと、無言の圧力がイルカに押しかかる。

 

胸が、痛い。

 

優しい顔しか知らなかった。

それは、カカシが、その顔しかイルカに見せていなかったからだ。

優しいカカシが嘘だとは思わない。ただ、それはカカシという男の一部分にしか過ぎないのだ。

ならば、カカシの全部を知りたい。厳しさも、苦しみも、悩みも、例え、イルカでは想像だにできない程の闇がカカシの中にあったとしても、全部を曝け出したカカシを知りたいと思っている。

だが、そう願う事そのものが分不相応なのだと、カカシの態度は物語っていた。

上忍と中忍という階級差か。それとも、忍としての圧倒的な力量か。

たった一言の拒絶にさえこうして影響される自分が、果たして、カカシの心のすべてを乞う資格があるというのか。

 

だからと言って、怪我をしているカカシを、このまま放っておける訳がない。

「・・・あの、オレ、匂うから」

低く呟かれたカカシの言葉に、イルカは戸惑った。

「任務明けなんですから、当たり前でしょう?」

「・・・匂うから」

イルカを見ようともしないその姿に、悲しいような苛立ちが沸く。

「だから、当たり前でしょう?里の為に血を流すあなたを、そして、里の為に血を浴びる事を厭わないあなたを、オレは誇りに思います」

竦みそうな足を励まして、そっと、近寄った。

「だからどうか・・・俺に、あなたを、大切にさせて下さい」

これが、今の精一杯だ。

「俺が、あなたを大切にします。カカシさん」

 

「・・・どうもかなわないなぁ」

ほんの僅か、緩んだ空気に安堵する。

「さ、行きましょう」

カカシの腕を掴む、自分の右手が震えていた。

「痛いのが怖いなら、一緒にいてあげますから」

下らない軽口で、沈み込みそうな心を自分で哂った。

 

 

 

隣を歩くカカシの気配は、いつも受付でイルカに向ける、穏やかなものに変わっていた。

だがそれが、今のイルカには心底悲しかった。

夜空の月が、落ちそうな程に低い。夜道は静かに続いている。

「今日は、受付だったんですか?」

カカシが、イルカの右手のビニール袋を見ながら言った。缶ビール2本と惣菜の小さなパックが入っている。

「はい。ちょっと遅すぎる気はするんですが、晩酌にと思って」

「ごめんなさい」

そう言って、カカシが立ち止まった。イルカは、疲れたような気持ちで足を止め、振り返った。

「仕事上がりで疲れているのに、付き合わせてしまって。早く帰って、休んでください。オレ、ちゃんと病院行きますから」

どこで、どうして、こんなにずれてしまったのだろう。イルカは奥歯を噛み締めた。カカシの口調が丁寧なだけに、余計に切なくなる。

「逃げようたってそうはいきませんよ」

それでも、無理やりに笑おうとした。

「そんな事言う暇があったら、さっさと歩いて下さい。応急処置は、あくまで応急なんですから」

「でも・・・明日もアカデミーが早いんでしょう?」

こちらを気遣う言葉。だがそこに込められた意味を想像して、イルカの胸がぎりぎりと痛んだ。

嫌がられているのだ。そう認めるのは、何よりも辛かった。

あの約束も単なる社交辞令だったのもしれない。まさかイルカが了承すると思っていなくて、自分から誘った以上断る事もできず、緊急の任務は渡りに舟だったのかもしれない。

目眩がするような気がして、イルカは俯いた。何だか、自分の何もかもが滑稽で、馬鹿らしかった。

「・・・カカシさんは、誰にでもそうなんですか?」

イルカの言葉に、カカシが首を傾げた。

「そう、って?」

「すぐに謝る。病院に付き添うと言い出したのは俺の方でしょう?この間の夕飯の約束も、任務が入って駄目になったのはあなたのせいじゃない。なのに、どうしてすぐに、そんな顔して謝るんですか?」

「オレは、どんな顔してますか?」

僅かに眉を寄せたらしいカカシの気配が、再び、しんと冷えた。だがもう、イルカは止める事ができなかった。

「・・・本当は、他に、もっと言いたい事があるって顔です」

言ってくれたらいいのに。

付き纏われてうっとうしいのだと。

こちらから声を掛けたからって、馴れ馴れしく近寄ってくるんじゃないと。

「それ、立場・・・逆じゃない?」

地を這うようなカカシの声に、背筋が凍る。震える唇で、イルカは何とか言葉を紡いだ。

「中忍の俺が、上忍のあなたにこういう口を利くのは、不躾だと分かっています。でも、俺はもう、あなたを怒らせる以外に、あなたの心を知る方法が分からない」

つい数十分前まで、果たされなかった約束に未練を残して、カカシの帰還を待っていた。

共に過ごせる時間を想像して、まるで初心な子供のように、期待と不安に胸を膨らませていた。

それが、どうして、こんな事になったんだろう。

「カカシさん」

それを言ったら、全部が終わってしまうと分かっていたけれど。

「・・・俺が側にいるのがそんなに嫌なら、どうして俺を誘ったりしたんですか?」

あの約束が、どれ程嬉しかったか。

こうしてあなたの心を想う事が、どれ程苦しいか。

「イルカ先生」

眼球が熱い。視界が揺れる。口が歪む。何て情けない。

「からかってるんだとしたら、もう、勘弁して下さい」

カカシの前に立っている事に耐えられなくなって、

「病院には行って下さい」

イルカはそれだけ叫んで、背を返し走り出した。

 

 

 

路地を、闇雲に走った。

ただ、何も考えずに足を動かして、目の前に続く道を前へ、前へ、進んだ。

考えずに、じゃない。考えたくなかった。

路地に転がっていた空き缶が、足に当たって、蹴り上げたように飛んだ。深夜の住宅街に、耳障りな金属音が響き渡った。

・・・何慌ててんだか。

ふと、我に返って、イルカは足を止めた。

空には相変わらず、白い月が浮かんでいる。住宅街の外れ、この先には、西の演習場と、慰霊碑がある。

コンビニの袋を無意識に握り締めていた事に気づいて、情けなさと可笑しさが入り混じる。

本当に、滑稽だ。何を慌てて、逃げるように。

追いかけて来る訳もないのに。

全身が、やけにだるく感じられた。胸の、心の痛みが、まるで血液に乗って体中を巡っているようだ。

全部忘れたい。とにかく、眠ってしまいたい。

イルカは息をついて、自宅へ帰ろうと、のろのろと頭を巡らせた。

その時。

 

「ねぇ、イルカ先生」

耳に響いた声に、心臓を射抜かれた。

 

「オレの勘違いだったら、本当に、ごめんなさい」

でも。

一つだけ、あなたに確かめたい事があるんです。

 

背後の闇の中に、静かに、カカシが立っていた。

 

 

 

080318

 

 

 

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