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3. 「あらイルカ、随分男前じゃない?」 美しい唇を含み笑いの形にして、紅が言った。イルカは、小さくため息をついて、差し出された報告書を受け取った。 イルカの左頬に、赤くミミズ腫れが走っていた。どうみても、爪で傷つけられた跡だ。恐らく女の長い爪で。真面目な堅物で通っているイルカに何があったのか。隣に座る同僚が、ちらりとイルカを見た。報告書を提出に来た者たちも、事の成り行きを見守っている。だが、イルカは黙々と目と手を動かした。 「・・・はい、結構です。夕日上忍、お疲れ様でした」 「そうそう。伝言を預かってるのよ」 イルカは顔を上げた。紅は顔を近づけ、耳元に魅惑的な声で囁いた。 「受付の仕事が終わったら、西の演習場に行きなさい。どうしてあの子が、あなたのほっぺにおいたしたのか、その訳も分かるわ」 イルカは、紅の微笑を見ながら頷いた。 それは、先刻のことだった。 受付の業務を始めたばかりのイルカの前に、一人のくノ一が立った。 「ちょっと、いい?」 イルカは戸惑った。彼女が上忍だということは知っているが、個人的に話をする間柄ではなかった。しかも、彼女の目は既に不穏な色に染まっていた。 「今、ですか?」 受付の席を空ける訳にはいかない。イルカの内心を読み取ったのか、彼女は上忍の気を漲らせて、イルカの隣の同僚を見た。 「・・・イルカ、ここは、いいから」 同僚は、がくがくと震える顎で言った。イルカは眉を寄せた。こういうやり方で我を通す人間は好きではない。だが、気を当てられている同僚がむごい。仕方なく、わかりました、と立ち上がった。 連れて行かれたのは、アカデミーの裏庭だった。 そういえばこの間もここに呼び出されたな、とイルカは思った。よくよく縁のある場所らしい。 この間、紅に手当てをしてもらったベンチに、一人の女が座っていた。 「私の妹なんだけど」 くノ一が言った。確かに、立ち上がった女は面差しが似ていた。だが、身のこなしは忍のものではない。服装も、一般の女性のものだ。 「話を聞いてやってくれないかしら」 イルカは女を見た。姉と同じ栗色の髪と緑色の瞳の、彫りの深い美しい顔立ちの人だった。だが、目の縁が赤く腫れあがっている。 「あなたが、イルカ先生?」 女は震える声で言った。 「そうですが」 「カカシさんとは、どういう関係なの?」 予期せぬ名前に、イルカは動揺した。昨日のやりとりを思い出し、鼓動が跳ね上がった。 「どういう、とは?」 何とかひねり出した言葉に、女は激しく反応した。 「とぼけないでよ!あなた、カカシさんに何したの?」 告白を、蹴った。だが、なぜ彼女に、こうやって糾弾されなくてはならないのか。 「おっしゃっている意味が、よくわかりませんが」 本心からのイルカの言葉に、女は顔をぐしゃぐしゃにし、右手を振り上げた。 殴られると分かったし、避けることも簡単だった。だが、イルカは敢えて彼女の手を受けた。がり、と嫌な音がして、左の頬が熱くなった。 人を素手で傷つける生々しい感触に、女性は慌てたように手を引っ込めた。だが、涙でいっぱいの瞳は、憎しみに揺らめいていた。 「・・・あなた、自分がどんな事したか分かってるの?」 低い、地を這うような声で女は言った。 「カカシさんは私の婚約者よ」 ・・・婚約者?イルカの心臓が、ぎり、と音をたてた。そんな人がいたなんて、知らなかった。 「私達は幸せだったわ。私が22歳になる来年、結婚する事が決まってた」 なのに、と女は低く呟いた。 「4月の終わり、カカシさんに急に婚約を解消したいと言われたわ」 4月の終わり。もう2ヶ月以上も前だ。 「理由は、他に好きな人ができたからですって」 女の目がぎりりとつりあがった。口調が突然激しくなった。 「好きな人ですって?そんな事、認められるものですか!おまけに、相手の名前を聞いても、迷惑がかかるからって、口を割ろうとしない。迷惑ですって?私をばかにしてるの?迷惑なのはこっちよ!」 女の剣幕に圧倒されながら、イルカは心が震えるのを止められなかった。4月の終わり。カカシと出会ったのは、その頃だった。 「私は今も納得していないの。そんなの、できる訳無いじゃない。私はこんなにカカシさんのことが好きなのに。あんな男にはもう二度と出会えないわ。それを、あなたは・・・」 女は叫んだ。 「薄汚い泥棒猫!私の幸せを返してよ!」 激しい憎悪の礫に、頭がずきずきと痛んだ。眼が眩みそうだった。 「ねぇ、男のくせに、どうやってカカシさんをたぶらかしたの?その身体?何にも知りませんって顔をして」 汚らわしい、と吐き捨てられる声に寒気がした。 「もう止めなさいよ、みっともない」 それまで黙っていたくノ一が言った。ぴたり、と女は口を閉じた。 「それに、この男は多分わかってないわ」 「でも・・・姉さん」 「仕方ないじゃない。はたけカカシを繋ぎとめられなかったあんたが悪いのよ」 女は弾かれたように顔を上げた。 「でもお父様は、私を許さない。きっと、あの家を出ていけって言われるわ・・・」 「大丈夫。私が何とかするから」 でも、でも、と泣きじゃくる女性の肩を抱き、くノ一はイルカを見た。 「悪かったわね。妹が、どうしてもって言うものだから」 「あの・・・」 「あなた、カカシから何も聞いてなかったの?」 頷くと、面白そうな顔をした。 「昨日、妹は最後通告を突きつけられたの。もう、よりを戻すつもりも、会うつもりもないって。妹は、その代わりにカカシからあなたの名前を聞き出して、この様」 くノ一は小さく肩をすくめた。 「あなた、カカシといつから付き合ってるの?」 イルカは頭を振った。 「・・・付き合ってなんかいません」 「嘘」 「本当です」 疑うような眼差しに、イルカは仕方なく言った。 「・・・好きだとは言われましたが、昨日お断りしました」。 へぇ、と唇を歪めて、くノ一はイルカの顔を見た。 「随分と甘やかされてたのね」 棘のある言葉に、イルカは眉を寄せた。 「どういう意味ですか」 「カカシが、あなたを守ってたって事でしょ?妹の事、知らなければ何の責任もないし、良心の呵責も感じなくてすむもの」 「・・・・・・」 「きれいな所で守られて、カカシの心のきれいな部分だけもらって、のうのうとしてたのね」 その言葉は、ぐさり、とイルカの心を刺した。確かに、自分はカカシの何を知っていたというのだろう。 カカシがどんな気持ちで自分に告白したか、それを考えたことがあっただろうか。 まぁいいわ、とくの一は薄く微笑んだ。 「カカシにどういう心境の変化があったのかは知らないけど、結局はこうなった。・・・これであなたも罪を背負った」 罪。カカシと同じ。 「重いと感じるか軽いととるかは、あなた次第だけれど」 肩を震わせて泣く妹を促して、くの一は裏庭を出ていった。妹に向ける冷えたような眼差しが、イルカの心にいつまでも残った。 西の演習場は、小高い丘の麓にあった。 入り口の広場に、小隊ごとに50人ほどが整列している。 何事か、と門の所で足を止めたイルカは、その中に知った顔を見つけて、ぎょっとした。 あいつらだ。 イルカを目の敵にしている、あの男達。そう言えば、最近その姿も、あの敵意に満ちた気配も感じなかった。 イルカに気づいた男達は、心底憎々し気な視線を投げてきた。だが、すぐに怯えた表情を浮かべ、顔を伏せた。 振り返らなくても、背後に誰が立っているのか分かった。 「・・・カカシさん」 「彼らは、これから樹の国での任務だそうです。反政府ゲリラの鎮圧で、期限は1ヶ月とも1年とも」 カカシは、イルカの横に立った。視線は隊を見つめている。 「任務は、中忍には少々厳しいかもしれません。戦況も一進一退と聞きます。でも、生きて帰れない程じゃない。彼らの力量次第です」 イルカは、嫌な胸騒ぎを感じてカカシを見上げた。 「まさか、あなた・・・」 「オレはただ、火影様に彼らを推薦しただけです」 淡々とした口調が、恐ろしかった。 「どうして・・・?」 カカシはイルカを見た。 「あなたの受ける憎しみを、オレも背負いたいと思いました」 カカシの静かな眼差しに絡めとられて、イルカの体は動かなくなった。 カカシは、そっとイルカの左頬に触れた。ひんやりと冷たい指が、傷をなぞった。 「あの女でしょう?やられちゃいましたね」 「・・・俺の、せいですか?」 声を絞り出した。 「俺が、あなたを拒んだから、だから同じ罪を」 もう容赦はしませんから。あの時、そう言ったのは、このことか? カカシは、頬を撫でていた指をイルカの唇にあてて、イルカの言葉を遮った。 「ごめんなさい」 カカシは囁いた。 「昨日は、少し、いえかなり、腹が立ってしまった」 ゆっくりと、カカシはイルカの唇から指を離した。 「場所を変えましょう。こんな所で話していいことじゃない」 イルカは頷くしかなかった。 ナルトとサスケ以外の人間を、この部屋に入れるのは久しぶりだった。 イルカは、散らかってますが、どうぞ、とカカシを促した。 本当は、部屋に入れるのはよくないのかもしれない、と心のどこかで思っていた。そんなイルカの心を読んだのか、居間のちゃぶ台の前に胡坐をかいたカカシは、 「警戒してますか?」 と薄く笑った。額宛と口布をとったカカシは、男のイルカが見惚れるほど端整な顔立ちをしていた。 「はい・・・あ、いいえ」 思わず本音を漏らしたイルカに、 「無理しなくていいですよ。大丈夫です。今日はちゃんと話をしたいだけですから」 大丈夫って。そういう言い方をされるのもどうかと思った。一応イルカも男だ。黙って隣に腰を下ろしたイルカに、カカシは言った。 「驚きましたか?彼女のこと」 「・・・はい。全く知りませんでしたから」 恨みがましくなる自分の口調が嫌だった。 「あの姉妹は、ある貴重な血継限界を持つ一族の末裔です」 思わずイルカはカカシの顔を見た。 「九尾の事件で、一族はあの二人だけを残して絶えました。しかも、彼女達にはその血継限界は現れていません。妹の方は体が弱くて、忍になることもできませんでした」 そうだったのか。イルカは思わず頬の傷に手をやった。 「寄る辺の無い身となった二人に、ある古老が目をつけました。二人を自身の養子として迎え、強い忍と交わらせて、自分の一族として血継限界を持った子供を生ませようと」 イルカは思わず顔をしかめた。忍として理解はできる。だが、心情的には許せるものではない。 「そうして相手に選ばれたのが、オレです」 どうして、とイルカは呟いた。求められるのは自分の種だけ。それを屈辱的と思う自分が間違っているのだろうか。 カカシは目を伏せた。 「今思えば、同情半分、成り行き半分です。嫌な言い方ですが」 「同情と・・・成り行き・・・」 「彼女達の養父は、オレの後見人でした。親父が死んでから、何くれと面倒を見てくれたんです。だから、断りきれなかった」 優柔不断です、とカカシは言った。 「優秀な忍の姉は、養父の思惑に反発して家を出ていました。忍になれない妹だけが、忍の家系の家に残っていました。あの家で、あの妹は、子供を成すことだけを期待されていたんです」 「・・・でも」 嫌なら、家を出ればいい。姉妹だけで暮らすという道はなかったのか。 「あの妹は、姉に対して烈火の心を持っているんですよ」 カカシは言った。 「優秀な姉にずっと劣等感を持っていた、と初めて会った日に言われました。だから、強い忍と結ばれて、いい子を産んで、血継限界を持つ立派な忍に育てるんだと、それが、忍になれぬ自分がこれから先生きていく為の意地だと、静かな声で言い放ちました。身体は弱いけれど、激しい心を持った女だと思いました。だから、オレは彼女を気に入ったんです」 気に入ったという言葉が、イルカの心を刺した。そして、妹の激情を浮かべた表情を思い出した。 子を成す事を目的に始まった関係。だが、彼女は、本気でカカシを好いていた。 そしてカカシは、彼女が失うであろうものの重みを知っていながら、彼女を捨てた。その原因はお前にある。そう彼女は言いたかったのだ。 お前のせいで、約束されていたはずの、愛する男との生活も、愛する男との子供も、何より私自身のプライドも、すべてを私は失ったのだ、と。 イルカは思わず、自分の胸を押さえた。息苦しくてたまらなかった。 「・・・本当は言いたくなかった・・・なんて、嘘です」 カカシは静かに言った。 「あなたに知って欲しかった。あなたに出会って、オレの中のすべてのものが価値を変えてしまったことを」 色違いの美しい瞳が、イルカを見た。惹きこまれる色だった。 「彼女とは、きちんとけりをつけたつもりでした。彼女には黙っていましたが、彼女の養父には、もう断りをいれて了承してもらっています。だから昨日、彼女が家に訪ねてきた時は本当に驚きました。よりを戻してくれと言われて、断ると、だったらせめて相手の名前を教えてくれと、懇願されました」 カカシは、ひんやりと笑った。 「本当は言うべきではなかったんです。気性の激しい彼女が、あなたを傷つけに行くだろう事は目に見えていましたから。でも、昨日のオレは、本当にあなたに腹をたてていた。で、思ったんです。頑固なあなたの心に、彼女がきっかけを与えてくれるかもしれないと」 イルカは口を開いた。だが、言うべき言葉が思い浮かばなかった。再び口を閉じたイルカの手を、カカシがそっと握った。 「彼女に言ってよかった。あなたが、今ここにこうしていてくれるんですから」 残酷な事を言う。罪悪感で縛りつけるような真似をして。 「俺は・・・彼女に酷いことを・・・」 カカシは呆れたように微笑んだ。 「偽善者ぶらないで下さいよ。第一、酷いことをしたのは、オレでしょう?原因があなたというだけです」 じゃあ、とイルカはカカシを睨んだ。 「彼らのことも、そうですか?」 イルカに敵意を抱く彼らを、死地へ赴かせたのも、同じ理由か? 「そうですよ」 カカシはあっさりと頷いた。 「本当は殺してやりたかったんですが、それだと、あなた本気で弱るでしょう。だから」 「だから・・・?」 「奴等は、死ぬかもしれない。帰ってくるかもしれない。どちらにしろ、奴等の心はオレに対する憎しみでいっぱいのはずです。そういう風に仕向けましたから」 何かを思い出したように、カカシはくく、と笑った。 「・・・俺のせい、だと言わせてくれないんですね」 震える声で、イルカは言った。微笑むカカシは、本当に綺麗な男だった。 「あなたがオレのすべてになってしまった。オレの言っていること、わかりますか?」 底の見えない暗い淵を覗き込んでいるような気持ちになって、イルカは頭をふった。 「わ、分かりません・・・」 カカシはくすり、と笑った。 「嘘ばっかり」 イルカは目を閉じた。そして、もう逃げられないと悟った。 上忍とか中忍とか、世間の常識とか、裏切りとか、憎しみとか妬みとか。何も関係がない。 もう何も、思い悩む必要はない。 カカシの心は、イルカにひざまずいている。 イルカは、ただ手を差し出して、その想いを受け取ればいい。 ただ、それだけのことなのだ。 イルカはゆっくりと目を開けた。世界が、変わってしまった事を実感した。 イルカは、カカシに微笑を返した。カカシは眩しそうに目を細め、イルカの手に口付けた。 恐くない訳がない。 だが、もう、目の前の愛を請う激しい生き物を拒む事はできない。 本当はイルカ自身も、それを求めている事を、この生き物は知ってしまったのだから。 完(05.05.05〜05.06.11) |
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