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誘惑 1. 受付所のドアの脇に、一枚の紙が貼られていた。 受付にやってきた者たちが、足を止め、指差し、互いに囁き合っている。オレもつられて立ち止まり、その紙を見上げた。 うみのイルカの隠された真実、と言う書き出しの、黒く太いいびつな文字が並んでいた。 『アカデミー教師であるうみのイルカの私生活は、教職に就く者としてあるまじき、乱れたものである。男女関わらず、何人もの人間と性的な関係を持ち、それを恥とも思わない。しかも、その内の何人かとは、その肉体を提供する事を対価に、金銭的な援助を受ける契約を結んでいる。 彼の笑顔に騙されてはいけない。本来の彼は、邪で淫乱、恥知らずな唾棄すべき人間なのだ』 何だこれ。瞬時に沸騰した怒りに目が眩む。 手を伸ばしてその紙を引き破ろうとしたが、何か術をかけてあるらしく、壁にぴたりと張り付いて剥がれない。 用意周到な悪意。思わず舌打ちをした時、場がざわりとどよめいた。振り返ると、周囲の注目を浴びて不思議そうな顔をするイルカ先生の姿があった。 「こんにちは、カカシさん」 ・・・なんてタイミング。 「どうしたんですか?皆・・・それ、何ですか?」 明るい微笑を浮かべながら、イルカ先生はオレの隣に立ち、その張り紙を見上げた。 見る間に、その表情が消えた。 今ほど、何もできない自分に腹が立ったことはない。せめて、これ以上騒ぎが大きくならないように。そう思った瞬間、 「何を皆集まってるんだい?」 背後から聞こえた五代目の声に、絶望的な気持ちになった。イルカ先生の顔から、ざっと血の気が引いた。 イルカ先生が震える指を伸ばし、紙に触れると、その忌まわしい告発文は、はらりと床に落ちた。 「カカシさん・・・こんばんは」 開いたドアの向こう、浮かべる弱々しい微笑に胸を突かれる思いがする。ずっと訪ねたいと思っていたイルカ先生の部屋を、まさかこんな形で訪問する事になるとは。 「こんばんは、イルカ先生。お邪魔してもいいですか?」 「・・・どうぞ」 オレは、促されるままに部屋に上がった。居間に入り、ちゃぶ台の横の座布団に腰を下ろすと、茶を煎れてくれたイルカ先生も、座って畳に視線を落とした。表面上は変わりなく思えるが、憔悴している内心が、その瞳からありありと見て取れた。 「これ」 オレは張り紙をイルカの前に置いた。本当は、もう見せたくもないが。 「調べましたが、犯人に繋がるような手掛かりは、発見できませんでした」 「・・・そうですか」 イルカ先生は、空ろな目でその紙を見つめた。 「それから、明日もう一度、五代目が話を聞きたいと」 「わかりました」 公共の場に、個人の私生活を暴露し中傷する内容の張り紙を掲出する。既に悪戯で済むレベルではない上に、里の秩序悪化にも繋がりかねない。その行為を重く見た五代目は、イルカ先生を執務室に呼び出した。勝手について行ったオレに、イルカ先生は何か言いかけたが、結局黙った。 張り紙に目を通した五代目は、イルカ先生に言った。 「実際のところ、お前の私生活がどうだろうと関係ない。お前は優秀な忍だし、優秀な教師だ。五代目としての私には、それだけでいい」 「・・・はい」 「この張り紙は調べさせてもらうよ。木の葉崩しの混乱から、里は今だ立ち直っていない。こういう卑怯な中傷や流言で、木の葉の結束を乱すような行為は、絶対に許されるものではないからね」 ただね、と五代目は言った。 「綱手個人として言わせて貰えば・・・ひょっとして、お前、誰かにつれない仕打ちをしたんじゃないかい?」 オレははっとしてイルカ先生を見た。イルカ先生は、微かに目を見開き、覚えがありません、と首を振った。 「本人に自覚がない場合もあるがね。何と言うか、文面に妙な執念を感じるよ」 今日はもういいよ、と切り上げ、五代目はイルカ先生を帰した。そして、壁にもたれてやり取りを聞いていたオレに、 「つれない仕打ちをされてる男が、ここにもいたね」 と皮肉っぽく唇の端を持ち上げた。 「・・・どういう意味ですか?」 すっとぼけても無駄だよ、と五代目は肩をすくめた。 「不覚じゃないか、カカシ。自分の想い人が、公衆の面前で辱められたのに、指をくわえて見てるだけとはね」 隠しているつもりの想いを言い当てられて、オレは苦し紛れに呟いた。 「・・・さすが医療忍術のスペシャリスト、傷口に塩を塗りこむのが得意でらっしゃる」 「私に言っても八つ当たりだよ。悔しいなら、犯人を見つけて、そいつをぶちのめすんだね」 「言われなくてもそうします・・・ありがとうございます」 口は悪いし素直ではないが、五代目がその任をオレに与えてくれた事に変わりはない。素直に礼を言って、オレは執務室を後にした。 鑑識班に張り紙を調べてもらったが、予想通り、イルカ先生のチャクラに反応して糊がはがれるように仕掛けてある以外、物理的な手掛かりは何も見つからなかった。 そしてオレは、イルカ先生の部屋を訪れた。執務室でのやりとり以来、気になる事があった。 「ずっと思ってたんですが」 意を決して、オレはイルカ先生に言った。 「あなた、本当は、犯人に心当たりあるんじゃないですか?」 「・・・・・・」 イルカ先生の視線がほんの一瞬、僅かに右に泳いだ。やはり。 「どうして、何も言わないんですか?証拠さえ揃えば、名誉毀損で訴える事が可能ですよ」 「・・・カカシさんは、どう思いますか?」 「え?」 「あなたは、俺をそういう人間だと思いますか?」 イルカ先生はついと顔を上げてオレを見た。いつも朗らかなこの人からは程遠い、低く倦んだような口調が、オレの心を軋ませた。 「いいえ。思いません」 頭を横に振ったオレに、どうして?とイルカ先生は頬を歪めた。 「今日・・・あれから散々言われました。真面目な顔してやる事は派手なんだな、とか。い、いくら払ったらやらせてくれるのか、とか」 その時の屈辱を思い出したのか、イルカ先生は白くなるほど唇を噛み締めた。誰がそんな事を。湧き上がる怒りと共に、その唇に触れたいという浅ましい欲望がうねりだすのを、オレは何とか押さえつけた。 こんな時にまで。自分の下劣さに嫌気がさす。 あなたを守りたい、大事にしたいと思っているのに、それと同じ強さで、あなたを奪いたいと思っている。胸を焦がすこの想いを、その体に刻み付けてやりたいと切に願っている。 教え子を介して知り合った、太陽みたいに眩しい人。慈しむ手と、真っ直ぐな心根と、濁りのない目を持った人。 オレみたいな男が、好きだなんて言うのも憚られるような、気高い人。 いつも思っている。任務ならともかく、同性との恋愛なんて範疇にないだろうあなたを、どうやったら手に入れられるのだろう。 あなたに触れたい欲望を、いつまで我慢すればいいんだろう。 結局、好きだなんて言葉は綺麗事で、心に抱く肉の欲望は、あなたに誘いをかけてきた奴らと同じじゃないか。そう思われるのが何より怖い。 「真実なんて、どうでもいいんです」 吐き棄てるように言うイルカ先生に、オレは言い募った。 「そんな事はないです。少なくとも、オレにとっては、どうでもよくはないです」 「・・・・・・」 「あなたはそういう人間じゃない。オレはそう信じてます」 オレの言葉に、イルカ先生の両目がすっと細くなった。唇の両端を艶然と持ち上げた、初めて見る冷たい笑いに、オレの背筋がぞくりと粟立った。 「・・・俺が、本当は、誘われれば誰彼構わず体を開くような男だったら?」 囁くように、挑むような目で、イルカ先生は言った。 「金で、誰にでも体を売るような男だったら?」 痛ましくも魅惑的なその微笑みに、オレの心臓は早鐘のように打った。 叫びたい。どんな人間でも、あなたが好きだ。 「そういう人間じゃないってあなたは言いますが、じゃあ俺をどういう男だと思ってるんですか」 太陽みたいに眩しくて、真っ直ぐで、オレみたいな男が、好きだなんて言ってはいけない人。 だから、そんな哀しい顔で笑わないで。誘われているのだと、勘違いしたくなるから。 そんなはずはないと分かっているのに、そうやって笑うあなたのせいにして、酷い事をしてしまいそうになるから。 「・・・疲れてるんですね、イルカ先生」 何とかそう呟いたオレの顔を、イルカ先生はじっと見た。それから視線を俯け、は、と小さく息を吐いた。その表情は、笑ったようにも、呆れたようにも、悲しんだようにも見えた。 「そうですね」 額に手を当てて、イルカ先生は呟いた。 「・・・気にしていないつもりでしたが、やっぱり、堪えてるんですね。もう休みます・・・今日は、ありがとうございました」 本当は、犯人の心当たりについてもう少し問い詰めたかったが、これ以上ここにいたらまずい事になるのは目に見えていた。オレはそのまま立ち上がった。 「じゃあ、ゆっくり、休んでください」 玄関でそう言うと、イルカ先生はもう一度、ありがとうございますと微笑んだ。いつもの穏やかな笑顔にほっとした。さっきみたいな顔を見せられたら、理性はすぐに擦り切れる。 でも、初めて知った。あんな風に笑える人なんだ。 「おやすみなさい」 「おやすみなさい」 イルカ先生は、オレが外階段を下りるまで見送ってくれた。 そして。 路地を歩き始めたオレの耳に、本当に微かに、イルカ先生の声が聞こえた。 「・・・結局、どんな俺でも、あなたは、俺を抱きたいとは思ってくれないんですね」 恐らく、イルカ先生は聞こえないと思って呟いたに違いない。 今ほど、オレは自分の能力に感謝した事はなかった。 オレは踵を返し、階段を無視して飛び上がった。 閉じかけたドアの隙間に手を差し込んでこじ開け、戸惑いの表情を浮かべて立ちすくむイルカ先生を抱きしめた。 |
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