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窓の外は、もう10日以上雨に濡れていた。 俺は受付の机に向かい、雨の雫が窓ガラスに弾けて散っていく音を聞くともなしに聞いていた。長い雨。只でさえ気持ちが塞いでいるのに、うっとうしい事この上ない。 午後4時を過ぎたばかりの受付は、そろそろ報告書を提出に来る忍達が増えてくる頃だった。それでもまだ、処理に順番待ちをしてもらうほどの事はない。差し出される報告書の処理が終わって手が空く度、暗い鬱屈に捕らわれた。 カカシさんと会えなくなってもう3週間が過ぎようとしていた。 部屋を出ていった翌日からずっと、カカシさんは里外任務に就いていた。ランクはB。急に入った任務らしく、指示書が簡易様式で作られている。受付でその指示書を見つけた時、俺は不覚にも泣きそうになった。 任務なら、会えないのは仕方が無い。そう思う俺は、何てさもしくて見っとも無いんだろう。避けられていると、もう嫌われてしまったかもと、どうして認められないんだろう。 このランクの任務なら、いつもカカシさんは出発前に一言俺に言い置いた。黙って出て行かれたのは、恋人と名がつく関係になってから、初めてではないだろうか。 あんなに怒らせたのも、初めてだ。身の竦むようなあの時の恐怖を思い出し、ぞっと背中に寒気が走った。 ずっと知っていた。本当は、カカシさんのその実力を以ってすれば、俺を思う通りにすることなど造作もないことなのだ。俺を、肉体的にも精神的にも屈服させ、我意を通す事ができるのだ。 それでも。だから。カカシさんは、俺に決して無理強いはしなかった。我が儘めいたおねだりは得意だったが、最後は必ず俺の意思を尊重してくれた。 嫌わないで下さい、と不安気な顔で何度言われた事だろう。 甘えているのは俺のほうだと分かっていた。本当に大事に思われているのだろうとも。 ぎりり、と胸が軋む。改めて後悔が湧き上がる。あなたは俺のものではない、という俺の言葉が、どれほどカカシさんを傷つけたのか。 人は物ではないなんて綺麗事だ。好きだから、心も体も全部欲しいし、相手には、この世に自分だけでいて欲しい。そして相手にも、自分に対してそういう執着を燃やしてもらいたいと願っている。 縛るというのとは少し違う。それは、互いが互いに対して誠実であろうとする事と同じだ。そして、あなたが俺のものでないと言うのなら、俺もあなたのものではないと言っているのと同じだ。 迂闊だったと臍を噛んでも、一度口から出た言葉は二度と取り消せない。でも、他にどんな言い方があったというのか。里の将来に繋がらないこの関係は、いつか終わりを強要される。失いたくないと切望しているのに、浮かんでくる二人の未来が絶望しかないなんて、なんて救いがないんだろう。 すい、と目の前に報告書が差し出された。 ぼんやりしていたと、慌てて上げた俺の目に、思いがけない姿が入った。 「あ・・・」 「お願いします」 抑揚のない声が降ってきた。気配を全く感じさせず、カカシさんがいつの間にか、俺の前に立っていた。 「・・・・・・」 よかった。無事に戻ってきた。俺は思わず息をついた。銀色の髪が雨の雫を乗せて微かに輝いている。この天気にも関わらず、纏う空気が少し埃っぽい。3週間ぶりに見る背を丸めて立つその姿に、愛しさが湧き上がった。 しかし、右目しか見えないカカシさんからは、何の感情も伺えなかった。怒っているのか。悲しんでいるのか。呆れているのか。一瞬浮き立った心が、力なく萎れていくような気がした。 「・・・お預かりします」 報告書をチェックしている間も、カカシさんは黙ったままだった。俺も、何も言う事ができない。紙の上を走るボールペンの音だけがやたら耳についた。言うべき言葉があるのに、口に出せる勇気が無い。 「はい、結構です。お疲れ様でした」 カカシさんの目を見る事ができず、胸の辺りに向かって俺は言った。事務的な自分の口調が心底情けない。カカシさんが、息をついたのが分かった。 その時、 「はたけ上忍」 艶やかな声と共に、ポケットに突っ込んだカカシさんの腕に、するりと白く細い腕が絡まった。聞き覚えのある声に慌てて顔を上げると、緑の大きな瞳を愛らしく微笑ませた女性が、カカシさんを見上げながら、その腕にもたれるように体を寄せた。 カカシさんを下さいと俺に言った、あの彼女だ。 「また、あんた」 明らかにうんざりした声でカカシさんは言った。 「あんたも大概しつこいね。言ったでしょ。オレには付き合っている人がいるの」 付き合っている人がいる。胸が甘く疼いた。よかった。まだ、そういう風に思っていてくれたのか。 だが彼女は、その綺麗に塗った唇を艶然と持ち上げた。 「あら、でもその人は、そうは思ってないみたいよ」 彼女の目はカカシさんを見上げている。だが、その言葉は明らかに俺に向けられていた。俺は堪らなくなって俯いた。 「その人、あなたは自分のものじゃないって言っていたわ。それって、あなたの事はどうでもいいって言っていることと同じじゃないかしら」 はあ、とカカシさんは口布越しにも分かるくらい大きなため息をついた。その灰色の右目がじっと俺を見下ろしているのが分かる。でも俺は、その視線を受け止める事ができなかった。 「・・・確かに、オレの独りよがりかもしれないね」 低い声に、心臓を鷲掴みにされたような気がした。そうじゃない、そうじゃないけど。 俺は、机の下に隠した左手を握り締めた。どくどくと、自分の心臓の音が耳元で聞こえる。 失ってしまうのか。こんなに好きなのに。 自分で選んだことだろう、と心の中で冷ややかな声がする。里の為だなんだと理由をつけて、心のどこかで、カカシさんを拒絶し続けていたのは自分の方だろう。 どんな事があっても貫き通す覚悟が無いくせに、その存在を失う事は怖いのか。 自分の愚かさに震える俺の耳に、でもね、とカカシさんの声が聞こえた。 「・・・その人は、本当は、オレの事好きじゃないのかもしれない。前の失恋の痛手から、まだ立ち直ってなくて、臆病になっているのかもしれない。どんな事があっても、一生かけて守ると誓ってるけど、オレじゃあ力不足なのかもしれない。でも、その人がどうであろうと、オレは、その人の事が好きなの」 静かだけれど、明確なその意思と覚悟。 「だって、好きなんだもん。仕方ないじゃない」 心が震えた。 俺も、誰よりも何よりも、あなたが好きです。 カカシさんはくるりと背を向けた。そして、彼女を腕にぶら下げたまま、入り口に向かって歩き出した。 行ってしまう。俺は立ち上がり、夢中でその名を呼んだ。 「カカシさん」 カカシさんの肩が、びくりと弾かれたように跳ねた。そして、恐る恐ると言った感で、ゆっくりとこちらに向き直った。 「ごめんなさい」 俺は、カカシさんの隣で目を見開く彼女に向かって言った。 「その人を、カカシさんを譲る事はできません」 そして、不安に揺れる瞳で俺を見つめるカカシさんに、精一杯の笑顔を返して言った。 「その人は、俺のですから」 待たせてしまってごめんなさい。不安にさせてごめんなさい。 もう、迷いませんから。 数秒が永遠の長さに感じられた沈黙の後、俺は、駆け寄ってきたカカシさんにきつく抱き寄せられた。 「怒ってるんですか?」 カカシさんが、顔を覗き込んできた。 「・・・違います」 「じゃあ、何で、眉間に皺寄せてるの?」 「・・・明日から、どんな顔をして出勤すればいいのかと」 受付で、カカシさんに抱きしめられた俺は、そのまま攫われるように外に連れ出された。危うく、抱きかかえられたまま連れて帰られそうになり、とんでもないと俺は必死で暴れた。本当に渋々といった感で俺を離したカカシさんと、一つの傘を分け合って、家への道を歩いていた。 自分がやった事が信じられない。あんな事。人前で。俺たちが出て行った後、受付所から妙な歓声が聞こえてきた理由は、本当に考えたくない。 「職場放棄ですよ。後で火影様になんて言われるか」 八つ当たり半分に言うと、だって、とカカシさんは肩をすくめた。 「やっとあなたのものになれた。29年間生きてきて、二番目に嬉しい事なんです」 よく、そんな恥ずかしい事を平気で口に出せるものだ。勝手に赤くなる顔を逸らした俺は、ふと、カカシさんの台詞に引っかかりを感じた。 「・・・って、カカシさんどういう事ですか?」 「いや、一番嬉しかったのは、あなたがオレの気持ちに応えてくれた時ですけど」 そうじゃなくて、と俺は首を傾げた。 「あなた、何時の間に29歳になったんですか?」 カカシさんはああ、と呟いた。 「丁度、6日前ですかね」 6日前。9月15日。 「誕生日・・・知りませんでした・・・」 言ってませんから、とカカシさんはあっさり笑った。俺は慌てた。 「あの・・・ごめんなさい。何も用意できなくて」 「とんでもない。今日は、あなたから、何より欲しかったものを貰いましたから」 受付でのやりとりを思い出して、再び頬が熱くなった。本当に、明日から、どんな顔して出勤すればいいんだ。それでも、嬉しそうに目を細めて俺を見るカカシさんに、次第にそれさえどうでもいい事のように思えてきた。 全く、この男に、どれだけ惚れてるっていうんだ。 イルカ先生、とカカシさんが俺を呼んだ。 見上げた俺に、カカシさんは額宛と口布を取り払った。端麗な容貌が露わになった。 「オレは、あなたが思っている以上にあなたが好きです」 真っ直ぐな瞳。真摯な言葉が耳に流れ込んできた。 「オレはこんなですから、きっとこれからも我が儘言って、あなたを困らせたり、迷惑かけたりすると思う。でも、これから先の人生、オレには、あなた一人だけです。それだけは、覚えといて下さいね」 ぐ、とこみ上げてきたものが、目元で熱く弾けた。俺は慌てて後ろを向いた。こんな顔、恥ずかしくて見られたくない。こんな、嬉しくて、切なくて、幸せな顔。 俺も同じです。伝わって欲しいと願うように思った。あなたのように、そんな台詞はとても口には出せないけれど。 目から次々と溢れてくるものを、右手で必死で擦っていると、 「腫れちゃいますよ」 そっと腕を外された。目元に口付けられ、涙を吸い取られる。 「・・・何、やってるんですか」 う〜ん、とカカシさんは呟いて笑った。 「やっぱり、泣かせるのはベッドの中が一番良いですね」 なんて事を。思わず出てしまった手をあっさりとられて、ぎゅっと繋がれた。 「帰りましょ」 その柔らかい微笑が、憎たらしくていとおしい。 「・・・・・・はい」 見上げた西の空が、僅かに明るい。 雨はもうすぐ上がるだろう。そして、黒い雲が去った空は、秋の気配に高く澄み渡ることだろう。 俺は、繋いだ右手にそっと力を込めた。 永遠なんて言葉は信じられない。 けれど、繋いだこの手の温かさは、いつかは明ける夜のように、いずれ晴れ渡る空のように、何よりも確かなものに感じられた。 完(05.09.16〜05.09.21) 「うたえ こいのうた」その後の二人。 誕生日を迎え、少しだけ大人になったカカシさんと、 かなりオトメになったイルカ先生のお話(笑) |
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