Garden

 

 

 

触れたいという欲望が

こんなに激しく危ういものだと

あなたに会って初めて知りました

 

 

 

1.

昨日は、ちょっと、飲みすぎたかも。

酒臭い自分の気配に辟易しながら、キッチンのドアを開けた。

「あら、いらっしゃったんですか」

流しに向かっていたキワさんが、振り返って驚いたような声を上げた。

「おはようございます、カカシさん」

「おはよ・・・一応、この家の息子ですから。なあに、朝から嫌味?勘弁してよね、キワさん」

のろのろと、ダイニングテーブルに向かって座る。やっぱり、少し頭が痛い。

「あら。息子面しようというのなら、もっと家に帰って来るものですよ」

そう言いながら、彼女がオレの前に出してきたのは好物の茄子の味噌汁。何が、いらっしゃったんですか、だ。力なく睨みあげたオレの視線を平然と無視して、キワさんはまた流しに向かった。全く、本当に、この人にはかなわない。

親父の幼馴染であるキワさんは、長年この家の家政婦を勤めてくれている。そして、早くに母親を亡くしたオレ達兄弟の、実質的な母親代わりでもあった。

だが、性格からくる遠慮のない口調を除けば、彼女は今まで家政婦というスタンスを崩した事がなかった。ガキの頃は、「キワさんがお母さんになってくれたらいいのに」などと無邪気に訴えたりしていたが、30も目前になれば、見合い再婚を勧める周囲の声を全く無視して来た親父と、キワさんとの関係の、その難しさと奥深さにも思いが至る。

親父のキワさんへの片思いは、望む形では叶いそうにないが、彼女はずっとこの先も親父と一緒にいてくれるだろう。

オレは椀を啜った。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。

「あちらの部屋は、掃除しなくても大丈夫ですか?」

キワさんが首だけこちらへ向けて言った。マンションを並びで二部屋借りて、片方を事務所、もう片方にベッドを置いて、そちらに主に寝泊りしている。この家に戻るのは月に十日も無い。

「いいよ。事務所はサクラがきちんと片付けてくれているし。寝る部屋の方は、何か、たまに勝手に綺麗になってるし」

「あら、そういう方がいらっしゃるんですか?」

「オレはそんなつもりはないよ」

「・・・困った人ですねぇ」

開け放した窓から、心地よい風が吹き込んでくる。その中に、常には無い清々しい緑の匂いを感じ取って、オレは言った。

「庭、誰かいるの?」

「手入れに来てくれているんですよ」

確かに、微かに音が聞こえる。

しゃくん。しゃくん。迷いの無い響き。きっと、あの大きな鋏を使っているのだ。

子供の頃見た風景が脳裏に浮かんだ。表の庭に並ぶ松の木に脚立を立てかけ、それに登って鋏を使う男性と、縁側に座って彼と話す親父。男性はもうその頃から随分と高齢だったが、身のこなしは驚く程軽く、脚立から体を乗り出すようにして、次々と枝を断ち落としていった。

造園という言葉も知らず、枝切っちゃうの可哀相、と言ったオレに、彼と親父は何と答えたっけ。

「あら、もう10時」

今日は暖かいから、と呟きながら、キワさんは冷蔵庫から冷えたお茶を取り出した。小さなチョコレートの包みを小皿に盛り、盆に並べたグラスにお茶を注ぐと、勝手口のドアを開けて庭の奥に向かって声を上げた。

「お茶にしませんか」

返事をする声が聞こえた。

「そんな、遠慮する事ないんですよ。いい天気ですから、縁側の方に持って行きましょうね」

「オレが行こうか」

ふいに言葉が口をついて出てきた。振り返ったキワさんは、お手伝いしてくれるなんて何年ぶりかしら、と失礼な事を言いながら、グラスと小皿を載せた盆を差し出した。

キッチンを出て、ひんやりとした廊下を進んだ。表の庭に面した角へ曲がって、すぐの掃き出し窓を開く。縁側には日差しが降り注いでいる。10月も下旬だが、今日は本当に暖かい。

足音に顔を上げると、青年が庭をこちらに歩いて来る所だった。オレに気づいた彼は、一瞬驚いたような表情の後、目じりを下げ、にこりと笑った。

「ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げた彼に、オレは少なからず驚いた。子供の頃来てくれていた老年の男性だとは流石に思っていなかったが、まさか、こんなに若いとは。

「・・・どうぞ」

盆を置いた。彼は、もう一度会釈してから、縁側に腰を下ろした。

歳はオレより少し下位か。黒髪を頭の高い位置にきっちり結い上げている。目立つのは鼻梁を横一文字に走る傷。何より、黒い切れ長の瞳が目を引く。

オレは何故か、そのまま並んで縁側に腰掛けた。猫背気味のオレとは対照的に、彼はすらりと姿勢がよかった。

「今日は、暖かいですね」

彼の薄いグレーのTシャツに汗が浮いていた。言ってから、どうも気の利かない台詞だと思う。しかし彼は、少し厚めの唇に柔らかな微笑を浮かべてオレを見た。

「そうですね。暑い位です」

こうして。

オレは彼に出会った。

 

 

 

「造園の仕事は、結構若い人多いんですよ」

頂きます、とグラスを持って、彼は言った。

「会社にも、後2人、同年代がいます」

「会社って?」

「今の社長の代になってから、会社形態にしたそうです。こちらのお宅には、社長の父親である先代の頃から、ずっとお世話になっていると伺ってます」

老人の、皺の刻まれた気難しそうな顔を思い出した。職人気質を地で行くような厳しい雰囲気が、無口なその表情から窺えた。

「先代というのは、小柄で細身の、白髪の頭の」

「そうです」

「覚えてますよ。子供ながらに、怖いお爺さんだなって思ってました」

彼はくすりと笑った。

「今も、怖いですよ。たまにふらっと作業現場に現れては、じっと仕事を見ています。社長といる時より緊張します」

彼はグラスを傾けた。こくり、と小さく咽が鳴った。

「今日は、社長が急に来られなくなって。作業を遅らせる訳にはいきませんが、俺はまだまだですから、裏の目立たない木を刈らせて貰ってます」

先代と社長が、丹精こめて手入れさせて頂いている庭ですから。

そう言って目を細め、庭に並ぶ松に視線を向ける横顔を、オレはじっと見つめた。彼のこめかみに、薄く汗が滲んでいる。露わな耳元と襟足に、薄くほつれ毛がかかっている。

彼がふいとこちらを向いて、オレは思わず視線を逸らした。

「こちらの、息子さんでいらっしゃいますか?」

オレは首の後ろを掻いた。

「めったに帰らない、親不孝者ではありますが」

「弟さんには、昨日お目にかかりました。学生さんだそうですが、随分としっかりなさってますね。びっくりしました」

「ありがとうございます。無愛想なのを、家族は気にしてるんですが」

とんでもない、大丈夫ですよ、と彼は笑った。少しきつめの瞳が、柔らかく緩むのに気づいた。

・・・何と言うのだろう。

職業柄か、しっかりした筋肉がついているのは、服の上からでも分かる。線のしっかりした顔立ちは、整ってはいるが、平凡の部類に入るだろう。きちんと結い上げた黒髪は寧ろ清潔な印象を与えるし、真っ直ぐな姿勢も、好感を持てる部分ではあるけれど。

取り立てて目立つところなど無い、どこにでもいる、普通の男。

だけど。

「お茶、ご馳走様でした。ありがとうございました」

そろそろ、仕事に戻ります。そう言って、彼は立ち上がった。

会いたい。

ふいに浮かんだ感情に捕らわれた。

この人と、もっと話をしたい。

「携帯の番号教えて貰っていいですか」

口から勝手に言葉がこぼれ落ちて、自分で驚いた。彼は少し恥ずかしそうに笑った。

「持ってないんです、携帯」

番号を教えたくない嘘、と一瞬思ってしまったのは、自分に、そう言って誤魔化した覚えがあるから。しかし、俯き加減に鼻の傷を掻く彼の様子に、真実を言っているのだと分った。

「じゃぁ、どうやったらあなたに会えますか?」

彼は、きょとんとした顔でオレを見た。その表情に焦りが湧いた。

「あの、変な意味じゃないです・・・また会いたくて」

墓穴だ。こんな言い方、変な意味にしか聞こえない。第一、変な意味ってなんだ?

彼は、自分の荷物から小さなメモ帳とボールペンを取り出した。不器用な仕草で書き付ける彼の様子を、オレは何故か緊張しながら見つめた。

「部屋の、電話です」

渡されたメモには、右上がりの、少し癖のある数字が並んでいた。

「仕事、朝早いし、夜も遅いんで・・・」

それは、かけないでくれと暗に言っているのだろうか。メモを見つめるオレに、彼は言った。

「留守電にメッセージを入れておいて下されば、こちらからかけ直します。ですから・・・」

言いよどむ彼の手から、オレはメモ帳とペンを取り上げて、番号を書き付けた。

「オレの携帯番号です。いつでも、かけて下さって結構ですから」

彼の、少し困ったような表情は、この際無視する事にした。返したメモ帳を、彼は丁寧に荷物にしまった。

「名前を聞いてなかった。オレははたけカカシです」

彼は丁寧な口調で言った。

「うみのイルカといいます」

彼の声から、眼差しから、離れ難いのは何故だろう。

電話します。そう言ったオレに、彼は再び柔らかい笑顔を浮かべた。

 

 

 

「・・・ここの部分ですね」

オレはパソコンの画面を指しながら言った。

「退職金をお店の開店資金に当てる方法は、老後の生活資金に影響が出る可能性が高いので、あまりお勧めはできません。テウチさんの年齢だと、厚生年金の受け取りが始まるのは62歳からですが、このあたりから、年間収支のマイナスが大きくなってきてしまってます」

クリックすると、画面が入れ替わる。

「こちらが、あと5年今の会社で働いて、開店資金と余裕資金を目標額まで貯めた場合のフローです。マイナスの発生時期を遅らせる事ができますし、額も減らせます」

「やっぱり、そうした方がいいですか?」

画面に見入りながら、テウチさんが言った。

「少なくとも、今のキャッシュフローでは、そう言わざるを得ません。年金制度も、この先どう変わるか予測がつきませんし」

小さくため息をつくテウチさんに、オレは言った。

「でも、決めるのはテウチさんです。もし、どうしても今と言うのなら、事務所総力を上げて、出来る限りのお手伝いをします」

「・・・今晩、女房と相談してみます」

オレは用意してあった封筒を差し出した。

「こちらがこの画面をプリントアウトしたものです。是非、ご家族で話し合って下さい」

テウチさんは、上着に袖を通して椅子から立ち上がった。

「いやはや、こうやって表で見せられると、現実を思い知らされますね」

「すみません」

「はたけさんが謝る事じゃないですよ。わたしらはどうしても、夢を叶える事にばかりに目がいってしまいますから。それをはたけさんが、こうやってきちんと現実に引き止めてくれる。感謝してるんですよ。やっぱり女房や娘に、余計な苦労はかけたくはないですしね」

「それが、仕事ですから」

テウチさんは笑った。

「仕事でもね、親身になってくれているかどうか、ですよ」

これからもよろしくお願いします。そう頭を下げて、テウチさんは事務所を出て行った。

今日の予約クライアントはテウチさんで最後だ。オレは玄関に鍵を掛けて、部屋に戻った。

時計は7時を回っている。事務をやってくれているサクラは先に帰らせた。

「一応、めぼしい物件はリストアップしてあるぞ。駅に近いか、幹線道路沿いの飲食店舗」

アスマが、机の向こうでファイルを持ち上げた。

「やっぱり、すぐは無理か?カカシ」

「微妙だね・・・」

オレは自分の椅子に座って、大きく伸びをした。

「テウチさんが、今すぐにでも会社を退職してラーメン屋を開業したいっていう気持ちは分かるけどね。もう店名も決めてるらしいし」

「気が早いな」

「それだけ切実なんだよ。子供の頃からの夢らしいから。だから、出来る限りの事はしてあげたい」

アスマは煙草に火をつけた。クアイアントがいる時は完全禁煙だ。

「ま、クライアントから開店の話が出たら、いつでも言ってくれ。空き物件を案内する」

「うん。ありがとね」

礼なんざ気色悪い、とアスマは笑った。

数年前に証券会社を退職したオレは、独立して、資産設計相談の事務所を開いた。個人を対象とした相談業務を中心に、最近では、法人の資産管理、企業内研修やセミナー、マネー情報誌の記事執筆の仕事も入るようになった。

共同経営者のアスマは、大学時代の同窓生で、以前は不動産会社に勤めていた。開業の際、オレは奴には何も言わなかったのだが、知らぬ間に、奴の机が事務所にあった。そういう奴だ。

オレもアスマも資産設計の上位資格は持っているが、その職歴から得意分野は違う。大学でオレ達と同じゼミを専攻していて、今は保険代理店を経営している紅や、実家と長く付き合いのある税理士、弁護士とも提携を結び、高度な専門性と、きめ細やかなサービスを提供できるのが自慢だ。

今ではそれぞれ百人を超えるクライアントを抱えている。収入は、前にいた会社の部課長クラスと大差ないが、やりがいと充実度いう点では雲泥の差だ。

「カカシ、俺は帰るぞ」

「また明日」

アスマが出て行ったのを確認して、オレはポケットから携帯電話を取り出した。着信はない。

昨日イルカさんに貰ったメモを再び開く。彼からかかってくる事は期待していない。だが、オレからかける理由も見つけられずにいた。

何て言えばいいのだろう。一緒に食事でも?・・・何か、微妙。

どうしてこれ程悩むのか自分でも不思議だ。相手は同性、普通ならもっと気楽に誘い出せるだろう。いや、女性相手にでも、こんな途方にくれるような思いは今までした事がなかった。

・・・そうか。オレはふいに気づいた。

失敗したくないのだ。下手な事をして、嫌われたくない。次がない、後がないと思えば、慎重にならざるを得ないだろう。

そこまで考えて、つい苦笑が漏れる。おかしい。失敗したくないとか後がないとか、オレは何を怖がっているんだろう。男相手に。

とにかく、始めなければ、失敗もしないが成功もない。オレは番号を押した。

「はい。うみのです」

出ない事を前提に、頭の中で伝言を用意していたオレは、3コール後に聞こえた声に、一瞬言葉を詰まらせた。

「・・・もしもし」

はい、と静かに答えた彼は、確かに電話の向こうにいた。オレは息を衝いた。

「オレです。はたけです」

「こんばんは、はたけさん」

ふ、とやわらいだ口調に、微笑んでくれたのだと分かった。彼の、目じりの下がる笑顔を思い出し、途端に胸が早鐘を打ち始めた。・・・何だろう、これ。

「こんばんは。お仕事お疲れ様です、イルカさん」

戸惑いながらも口から言葉が出てくるのは、踏んだ場数のお陰か。

「さっきはごめんなさい。出てくれるとは思ってなかったので」

「いいえ。こちらこそ。今日は、少し早く上がったんです」

丁寧な口調。あの綺麗な姿勢が思い浮かぶ。

「今日は、昨日に比べて大分過ごしやすかったですね」

「そうですね。こういう気候だと、作業もはかどります。はたけさんも、お仕事終わられたんですか?」

「今終わったところです」

一息飲んで、オレは言った。

「よければ、夕飯一緒に喰いませんか?」

数秒の沈黙の後、申し訳なさそうな声が聞こえた。

「ごめんなさい。今日は」

心が音をたてて萎むような気がした。

「・・・そうですか、残念です」

自分でも驚くほど落胆した声になった。このまま引くか、次をねだるかと迷ったオレの耳に、イルカさんの声が入った。

「あの、明後日なら」

「え?」

「明後日なら、大丈夫です。はたけさんの、ご都合がつくなら」

オレは思わず電話を見つめ、急き切って言った。

「何が何でも、つけます」

一瞬の空白の後、イルカさんの笑い声が聞こえた。心底楽しそうな、朗らかな声が耳に触れた。

「面白い方ですね、はたけさんて」

「・・・そんな事、初めて言われました」

「誘って貰って、嬉しいです。・・・俺も、あなたに会いたかった」

その時感じた気持ちを、オレは一生忘れないと思った。

待ち合わせの時間と場所を決め、電話を切った。天にも昇りそうな高揚感と、頼りなさと、足元が震えそうな恐怖感が同時に襲ってきた。

どうやら。これは。

たまらず机に突っ伏した。・・・何てことだ。

オレは、彼に。

うみのイルカという男に、恋をしたらしかった。

 

 

 

進む

 

 

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