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2. 「携帯、別に拘りがある訳じゃないですよ」 イルカさんの指が、グラスを揺らす。中の氷がたてる澄んだ音と、彼の穏やかな声が、耳に心地よく響く。 「仕事中に落として壊してしまって。丁度金が無くてすぐに買い換えられなかったんです。でも、無くてもあまり支障がない事に気がついて。思い切って解約してしまいました」 でも、また持とうかな、とイルカさんは目元をくしゃりと緩めて笑った。 イルカさんの友達がオーナーの小さなバー。嘘か誠か、無口で厳ついオーナー自らどこかの山から切り出してきたという厚い木板のカウンターに陣取り、眼前の大きな窓に溢れる光の喧騒を眺めつつ、二人で杯を傾ける。 イルカさんは、酔うと笑い上戸になる。顔色は殆ど変わらないけれど、いつもは伏し目がちな深夜の色の瞳が、真っ直ぐにオレを見つめる。背筋を少し丸めて、頬杖をついて、まるで子供のように口を尖らせたりする。すらりと伸びた常の姿も好きだけれど、こうして寛いだ姿を見せてくれるのが、何よりも嬉しい。 「携帯、買ったら番号教えて下さいね」 買ってあげたいなんて思うのは、的外れな独占欲。口に出せば不審がられるだけだと分かっている。 「勿論。その為に買うんですから」 そうからりと言って、オレが飲みかけた酒でむせたのを見て、悪戯っぽい目で笑う。こんな軽口にまで、いちいち反応してしまう自分を情けないとも思うけれど。 何度か食事と酒を共にして、彼の事を少しずつ知っていく。 「・・・イルカさん恋人は?」 「いません」 あっさりとした言葉に胸が疼く。 「半年ぐらい前に、振られてしまいました」 「もったいない」 思わず零れた本音に、イルカさんは苦笑した。 「仕事の話ばかりだから、つまらなかったんでしょうね。いつも帰りは遅いし、休みの日も稽古事やら何やらで、あまり構ってあげられませんでしたし」 「稽古事、ですか?」 「華道と茶道の教室に通ってるんです」 オレの表情を見て、イルカさんは、意外ですか?と微笑んだ。 「絶対必要って訳じゃないですが、庭造りは感覚的なものも重要視されますから。そういうのを磨いておきたくて」 「努力、してるんですね」 「・・・夢が、あるんです」 少し恥ずかしげに、そして誇り高い瞳で、彼は言った。 「いずれは独立して・・・いつか、国立公園の仕事をやってみたいんです」 その噛み締めるような口調が、彼の夢の高さと重さを物語る。 「応援します」 オレにできることなら、どんな事でも。イルカさんは照れて顔を赤らめた。 「はたけさんといると、いつも、オレばっかり喋ってますよね」 「職業柄、人の話を聞くのは得意なんですよ」 あなたの事なら、全部知りたい。好きなものも嫌いなものも、いいところも悪い部分も全部。そして、オレは、あなたの好きのカテゴリーに入りたい。今は、それだけでいい。 「はたけさんこそ、彼女いないんですか?」 くい、とグラスを傾けてイルカさんが言った。 「いませんよ」 恋人になって欲しいと心底想っている人はいるけれど。 「どうしてですか?物凄く、もてそうなのに」 「どうしてって・・・」 自嘲が浮かんだ。所詮、こんなものだ。好きな相手に、好きな人はいないのかと問われるこの間抜けさ。 「・・・好きな人はいるんですが、なかなか難しくて」 本当に難しい。どうやったら自分の方を向いてくれるのか、全く分からないのだから。 「難しい・・・ですか?」 「はい。好きだとも伝えられなくて。・・・気持ちを口に出したら、嫌われそうで」 こうやって一緒に酒を飲んでくれなくなるかもしれない。気持ち悪いと蔑まれるかもしれない。そして、そうやって拒まれても、諦められそうにないから始末に悪い。 振り返って考えてみても、誰かの気持ちが欲しくてこんなに悩んだ事は今まで無かった。しかも相手は同性。今まで培ってきた手練手管が通用するとは到底思えない。だから余計に、不安と焦りが湧いてくる。 「はたけさんなら・・・きっとうまくいきますよ」 そう言って笑うから、憎らしい気持ちにさえなる。 「・・・いくと思いますか?」 「男の俺から見ても、はたけさんはとても魅力的ですから。そんな風に想われて、なびかない女性は、きっといないです」 なびいて欲しいのはあなた。それ以外はいらないのに。 そろそろ帰りませんか、とイルカさんはグラスを空けた。 最初に誘った時以来、支払いはいつも割り勘だ。金が無いから飲みに行けません、なんてあっさり誘いを断るくせに、決してオレにおごられようとはしてくれない。見栄を張るという言葉とは無縁で、筋とけじめはきちんと通す。隙が無さ過ぎて、付け入ることもできない。 「送ります」 店の外に出て、じゃあ、またと頭を下げる彼に言った。一分でも一秒でも長く、側にいたいと思うけれど。 「女の子じゃないんですから、一人で大丈夫ですよ」 楽しかったと手を振って、駅に向かう彼の背中を、オレはじっと見送った。 今まで何度追いかけようと思っただろう。肩を並べて、同じ所へ帰りたいと、何度願った事だろう。 この気持ちを、伝える術も勇気もないくせに、望みばかりが大きくなる。 「これ、返すよ」 差し出した紙の袋を、彼女はまじまじと見つめた。 「もう、会わない」 紙袋の中身を覗き込んだ彼女は、ぐ、と綺麗に塗った唇を噛み締めた。オレの部屋にあった彼女の私物。知らぬ間に増えていたそれは、彼女の無言のアピールだったはずだ。 午後のカフェ。カップルで混雑した店内には、楽しげな笑い声が溢れている。 「・・・いいのよ。遊びなら幾らでも」 運ばれてきたコーヒーにも手をつけず、袋を見つめながらたっぷり一分沈黙していた彼女は、ふいと顔を上げて言った。 「あなたが、一人の女で満足できる男じゃない事は分かってる。あの部屋に、私以外の女が出入りしていたのも知っている。私は、それでもいいの。今までもそうだったでしょ?」 この見てくれのお陰で、今まで女に不自由した事はない。別にセックスマニアという訳ではないが、据え膳喰わぬは何とやらだとも思っていた。 特定の恋人は作らない。来る者は拒まない。去る者は追わない。今までもこれからも、ずっとそうだと思っていた。だから彼女にも、何の約束もしていない。そして、今のオレには、彼女に同情する資格もない。 イルカさんに気持ちが通じる当てはない。ただ、生まれて初めて、心から欲しいと思うあの人以外が、色褪せて見えるだけ。 「遊びじゃないから」 そう伝えると、彼女は、震える声で無理に笑った。 「私・・・もっと甘えればよかったのかしら?」 傷つけていると、心底思う。憎むなら憎んでくれ。そう思うことさえ傲慢か。 「違う。ごめん。君が悪い訳じゃない」 彼女は、余計悪いわと呟いて、紙袋を掴んで立ち上がった。 「きっと後悔するわよ」 「・・・嫌な事言うね」 「後悔したら、戻ってらっしゃい」 「あの人を知ってしまったから、もう、戻れないよ」 ぱあん、と耳元で音がして、視界がぶれた。打たれた左の頬が熱くなる。女に殴られるなんて久しぶりだ。 「さよなら」 叩きつけるように言うと、周囲の客の物見高い視線の中にオレを残して、彼女はヒールの靴音も高らかに店を出て行った。 事務所に戻ると、玄関にハイヒールが揃えてあった。 アルバイトで事務をやってもらっているサクラのものではない。紅が来ているのか。 「カカシ先生は、知れば知る程超優良株ですよ〜」 奥の事務室から、サクラがうふふと笑う声が聞こえた。 「男前で背が高くて稼ぎがいい。裏表が無くて面倒見の良い性格も可。ご実家は代々続く開業医で資産家な上に、姑も小姑もいない。ま、唯一のマイナス要因と言ったら、女癖が悪い事位かな?」 「それが決定的に致命的!」 アスマと紅が異口同音に言って、3人で大笑いしている。 「こら、人の陰口たたいてるんじゃないよ」 部屋に入ると、確信犯のにやにや笑いに迎えられた。オレがいるの知ってて言うか? 「陰口じゃないです、褒めてるんですよ、カカシ先生」 サクラが、お帰りなさい、と立ち上がった。 「お茶入れましょうか。紅さんが、葵堂のチーズケーキ持って来てくれたんですよ」 「あら、サクラ。それはあなたによ。こんなむさ苦しい男二人に食べさせる必要ないわ」 その本性を知らない男達からは極上と評される笑顔で、紅が言った。保険代理店を経営している彼女は、見た目が女として一級品なら、中身には並の男以上の覇気と根性を備えていた。 「こき使われたり、セクハラされたらすぐに言いなさいよ。本当に、あなたみたいに気が利いて頭のいい子、こんなところの事務で置いておくのもったいないんだから」 「こんな所とは失敬な」 オレは苦笑しながら声を上げ、サクラが慌てたように言った。 「カカシ先生もアスマ先生も本当によくしてくれます。いろいろ気を遣ってくれますし、大学の授業を最優先してくれますし」 「そういう雇用条件なんだから、当たり前よ」 あっさりと片付けられ、アスマと顔を見合わせた。全く、大学時代から変わらず、紅の前では立つ瀬がない。 その時、胸のポケットで携帯電話が振動を始めた。 開いた画面には、見知らぬ携帯の番号が浮かんでいる。クライアントなら名前を登録してある。どこかの女ならさっさと切ろう。オレは通話ボタンを押した。 「こんばんは」 聞こえてきた声に、危うく電話を取り落としそうになった。 「イルカさん?」 「分かりますか」 耳元で、愛しい声が弾んだ。 「当たり前です。買ったんですか?携帯」 「はい。で、何だか嬉しくなって、はたけさんに一番にかけてしまいました」 そうやってオレを喜ばせるのは無意識だろうか。だったら本当にたちが悪い。 「イルカさん、外にいるんですか?」 常になくイルカさんの後ろがざわざわと騒がしい。 「はい。ちょっと約束があって、今から飲みに出るんです。あ、すみません。お仕事の邪魔でしたね」 「いいえ」 「ごめんなさい。では、また」 引き止める間も無く通話は切れた。番号をアドレスに登録し、ふと顔を上げると、3人がじっとこちらを見ていた。 「イルカさん、ねぇ」 紅がしみじみと言う。 「今回のは、今までとは随分違うみたいじゃないか、カカシ」 アスマがにやりと笑う。 「週末の度に、携帯をじいっと見つめながら、かけるかかけまいか悩んでいるカカシなんぞ、中々お目にかかれるものじゃないよな」 アスマの言葉に、サクラもうんうんと頷いた。 「いつも気になってたんです。ついに本命ですか?カカシ先生」 「あんた達ねぇ・・・」 紅が、ぐいと身を乗り出した。 「そこら辺、今晩はゆっくり、詳しく、聞かせてもらおうじゃないの」 「あっ、紅さん。聞き出した事、今度じっくり教えてくださいね」 「任せて、サクラ」 きゃっきゃと笑う女性陣。こうなったら、もう逃げられない。 勝手にしてくれ。オレはため息をついて天井を見上げた。 紅が新規開拓した串焼き屋は、具材の鮮度の高さも味付けも、燻した木目で整えた店内の雰囲気も、酒の品揃えも全く申し分なかった。 「また来よう」 小さく呟いたのを耳ざとく聞き取ったらしい、紅がにこりと笑った。 「で、本命とは、どうなのよ」 鮪の山葵添えを口に運びながら、当然のように聞いてきた。 「どうって?」 「とっかえひっかえのカカシが一人に絞ったんですもの。どんな風にいちゃいちゃしてるのか、興味があって」 本当にはっきり言いやがる。アスマが吐き出す煙草の煙を見ながら、オレは答えた。 「いちゃいちゃなんてしてないよ。だって、まだ片思いだもん」 二人は、顔をは?の形にしたまま固まった。失礼な。オレは肩をすくめた。 「ねぇ、オレが片思いって、そんなに変な事?」 「・・・アスマ、あたしなんだか泣けてきたわ」 紅が、隣のアスマの肩に顔を寄せた。 「10歳にして愛を知る。カカシ30を前にして、初めて恋に落ちる」 重々しくアスマが呟いた。何だそりゃ。 「頑張んなさいよ、カカシ」 身を乗り出して、紅が言った。 「初恋は実らないっていうけれど、そんな悠長な事言ってる場合じゃないわ」 「また、嫌な事を」 今日2回目だ。ため息をついたオレに、紅は驚くほど優しい目を向けた。 「気持ちがきちんと通じ合うって、本当に幸福な事よ」 「・・・・・・」 「あたし、カカシの事好きだから、ちゃんと幸せになって欲しいのよね」 出来の悪い弟を見てる気分よ、と紅は笑った。 散々飲んで食って、その串焼き屋を後にした。 次行くわよ、と息巻く紅の後を、アスマと並んでついて歩く。 街は、早くもクリスマスの気配を漂わせていた。イベント事にはあまり興味がないが、彼を誘い出す口実になれば、どんなものでも利用したいと思う自分が、あまりに健気で可笑しい。 前を行く紅の長い黒髪に、彼の姿を重ねた。 気持ちが通じ合う幸せ。手に入れる事が出来るだろうか。いつかイルカさんも、オレが彼を想うように、オレを見てくれる日が来るだろうか。 「あれ?」 ふと、視界の隅、行きかう人波の向こうに、恋しい後ろ姿を見た気がした。立ち止まったオレに、アスマがどうした、と声を掛けた。 「ごめん、先行ってて」 多分いつもの店だぞ、と言うアスマの声を背中で聞きながら、オレはイルカさんらしき背中が見えた辺りに足を向けた。 何度も目を凝らしたが、溢れる人込の中にあの黒髪の尻尾は見当たらなかった。流石に見間違えたかと、アスマ達の後を追おうと歩を進めかけた時、見覚えのある看板が目に入った。前にイルカさんと一緒に来たバーが、このすぐ近くだと気がついた。 あの店は生意気にも客を選ぶんですよ、と微笑んだ顔を思い出しながら、オレはバーの入り口がある路地を探した。そして、見当をつけて入った路地の奥に、丁度店のドアを開けようとするカップルの姿を見つけた。 オレは息をつめた。高く結い上げた黒髪、伸びた背筋。もう見間違えるはずもなかった。そして、その傍らには、小柄な女性が寄り添うように立っていた。 イルカさんが笑っているのが見えた。 二人の距離感が、そして、女性の背に回ったイルカさんの手が、二人の関係を物語っているような気がした。 しん、と自分の心臓が冷えたのを感じた。 あの時、恋人はいない、と言った彼。だからと言って、今日もいないとは限らない。 オレは、馬鹿だ。二人の姿がドアの影に消えるのを、呆然と見つめた。 本当に大馬鹿だ。 のぼせ上っていたオレに、現実はこんなにも容赦がなかった。 |
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