3.

愚かにも。

心のどこかで期待していた。この気持ちがいつか彼に通じることを。

ゆっくりと時間をかけて、彼の心の内側に近づいて。その照れたような笑顔が、伏目がちの眼差しが、オレの想いに応えてくれる日を願っていた。

そんなはずがないのに。

男のオレが、彼の恋の相手になんて、なれるはずがないのに。

友達でもいいなんて綺麗事を、悠長に思っていた自分に腹が立つ。

見知らぬ女性とドアの中へ消えた、彼の笑顔がオレを苛む。焦燥と諦めと、暗い情熱が交じり合って、胸糞悪い苛立ちに変わる。

もう、我慢する必要は無いだろう。ずっと目を逸らし続けてきた欲望がオレを誘う。

それは、彼への恋心を自覚してからずっと持て余しているもの。男で、繋がりあう快楽を知る体は、正直に浅ましく、それが欲しいと唸りを上げる。

抱きたいんだろう?

彼の体に、熱い肉欲を思う様突き立てたいんだろう?あの清々しい程真っ黒い瞳が、涙と情欲に濡れるのを見たいんだろう?

彼が同じ性を持つ者であるという事実は、この感情を妨げる力にはならなかった。寧ろ、今まで出会ったどんな女達よりも、オレの熱情を駆り立てた。

大切にしたいと思っていたのに。

その切ない願いを、どす黒い欲望がせせら笑う。望む形で手に入らないのなら、もう、どんな事をしたって同じじゃないか。

あの長い髪を掴んで、抵抗する体を押さえつけて、すべてを奪おうと。

この恋を殺そうと。

 

 

 

翌日、クライアントとの約束は3時前に終わった。

携帯電話の液晶に、欲しい名前は浮かばない。オレの中で、冷たく暗い何かが、その醜い姿を露わにしていくような気がした。

オレは一本電話をかけた後、アスマに後を任せて車を西に走らせた。途切れない車の連なりの向こう、ビルの谷間に沈む夕日を見つめながら、もう心が決まってしまった事を他人事のように思った。

郊外にあるそのホテルに着いた時、辺りはもう薄暮に沈み始めていた。駐車場に車を停め、建物の裏手に回ると、同じような作業服を着た一団が、トラックの荷台に道具を片付けているところだった。今日は一日このホテルの庭の整備だと聞いていた。

黙々と作業を進める男達の中に、結い上げた黒髪を見出して、オレは名を呼んだ。

「イルカさん」

振り返ったイルカさんは、はたと動きを止めた。

「はたけさん」

驚いたような声を上げ、こちらへ駆け寄って来た。伏目がちのいつもの笑顔。

「どうしたんですか?こんなところに」

「いきなりすみません。今から、いいですか?」

「今から、ですか?」

イルカさんは、戸惑ったように後ろを振り返った。トラックの荷台の上で、責任者らしい男性が、ぶっきらぼうに声を上げた。

「仕事は終わってる。後は帰るだけだ。上がっていいぞ」

「ありがとうございます」

初めて聞くその明るい声音が、オレの知らない彼の片鱗を物語るようだった。真面目で朗らかな彼は、きっと職場でも可愛がられているのだろう。

胸の苛立ちそのままに、オレはイルカさんの腕を掴み、そのまま引っ張るように表の駐車場へ連れて行った。

「あ、あの、はたけさん」

「乗って」

ホテルの明かりを反射するイタリア車のボンネットに、イルカさんはうろたえたような表情を浮かべた。

「俺、仕事上がりで汚れてますから。車が・・・」

「そんな事、いいから」

切り捨てるようなオレの口調に、イルカさんが僅かに眉を寄せた。

「・・・一度、会社へ。着替えさせてもらえませんか?」

「だったら、あなたの自宅へ寄ります」

イルカさんは、困ったように俯いた。

躊躇する彼を押し込むように車に乗せ、来た道を戻った。気を取り直したように、イルカさんが話しかけてきた。

「どうして、あそこが?」

「あなたの会社に電話を入れました。はたけの名前を出して無理を言って」

「あの・・・違ってたらごめんなさい」

遠慮がちの声。

「はたけさん・・・怒ってるんですか?」

怒っているわけではない。怒りより性質の悪い感情が、どろどろと全身を駆け巡っている。恐ろしいほどの激しさで、捌け口を求めてのた打ち回っている。

無言のままハンドルを繰るオレに、イルカさんは小さくため息をついた。それから、イルカさんに教えられた私鉄の駅に近づくまで、会話は途切れたままだった。

駅の北側の細い裏道に入り、オレは車を止めた。

「ここで、待ってて下さい」

そう言って、イルカさんは助手席のドアを開けた。

「部屋には上げてくれないの?」

オレの言葉に振り返り、イルカさんは困ったように微笑んだ。

「こんないい車、この辺りに路上駐車してたら、何されるか分かりませんから」

すぐに戻ります。イルカさんはそう言って、路地に姿を消した。

 

 

 

「お邪魔します」

促して、彼を先に入らせた。靴を脱いで廊下に上がった彼の背を見ながら、玄関の鍵を静かに閉めた。そのかちり、という密やかな音がやたら大きく聞こえた。

事務所の隣に借りたこの部屋で、オレは主に生活していた。元々、立て込みがちな仕事の合間の仮眠室として用意した為、必要最低限の物しか置いていない。ソファーとローテーブルとテレビしかない殺風景な居間で、イルカさんは落ち着かない表情を浮かべた。

「ここに住んでるんですか?」

「殆ど事務所の方にいますから。この部屋は寝るだけです」

座ってください、とソファーを指し示し、オレは台所に向かった。冷蔵庫を開けて、唯一の内蔵物である缶ビールを取り出し居間に戻ると、ソファーの隅に腰を下ろしたイルカさんは、手に取った雑誌を眺めていた。

「これ、俺も見ました」

20代〜30代の女性向けだというそのファッション雑誌は、どういう訳だか取材を申し込まれ、断るつもりが機を逸し、サクラが面白がってスケジュールを組んでしまったものだった。編集部から記事が掲載された雑誌が届いたのを、テーブルの上に置いたままにしていた。

「会社で、事務の女の子が読んでたんです。丁度名前が見えて。吃驚しました」

オレは肩をすくめ、彼の横に腰を下ろした。

「オレが話した事は殆ど省かれてますよ。仕事の内容にはあまり興味が無いみたいで」

注目のイケメンセレブを追え、と記事の煽りを読み上げたイルカさんは、小さく笑いながら、記事を目で追った。

「休日は、愛車でドライブですか?」

「まさか。寝貯めして、掃除と洗濯してます。運転は好きだって言ったのが、どうしてそうなるんでしょうかね」

「好きな女性のタイプは・・・自分の夢に向かって努力している人・・・」

オレは、そう呟くように言う彼の横顔をじっと見つめた。男らしい顎のラインが、耳に向かってくっきりと浮かび上がっていた。

「・・・飲みませんか?」

差し出した缶ビールを、彼は、ありがとうございます、と受け取った。プルタブを起こす日焼けした長い指に、飲み口に触れた唇に、こくりと波打った咽に、目を奪われた。

「はたけさん?」

気がつけば、オレはその露わな耳元に手を伸ばしていた。驚いた様子で身をよじるイルカさんの腕を取り、オレは囁くように言った。

「気持ち良くしてあげる」

身を寄せ、間近で覗き込むと、大きく見開かれた黒い瞳とぶつかった。

「・・・え?」

彼の汗と緑の匂いが鼻腔をくすぐった。自分の体温が音をたてて上がった気がした。

「きもちよくしてあげる」

彼の手から缶を取り上げ、テーブルに置いた。そのまま両腕を掴んで、覆いかぶさるようにソファーに押し倒した。

「はたけさ・・・な、何・・・?」

オレの下で、今だ状況を飲み込めずに、戸惑いと怯えの表情を浮かべて見上げてくる彼は、震えが来るほど扇情的だった。

僅かに濡れたその唇に、オレは口付けを落とした。ずっと焦がれていたもの。ただ重ねるだけの接触にも、オレは陶然となった。イルカさんの全身がびくりと強張った。

「じっとしてて」

唇を離し、その耳元に囁いた。そのまま首筋に肌に舌を這わせると、イルカさんが低く息を飲んだのが分かった。その途端、彼は物凄い勢いで暴れだした。

「離せっ・・・」

抵抗は、流石女を組み敷く時とは比べ物にならなかった。恐らく、力の強さそのものも、オレと彼はそう違わないはずだろう。

だが、武道の段持ちのオレには、彼が次にどう動こうとしているのか、筋肉の動きと力の込め方から予測する事ができた。殴ろうとする腕を関節で拘束し、膝で蹴り上げようとする動きを体重で封じた。腹に馬乗りになり、両の手首を頭上で押さえつけると、イルカさんの両目に絶望の色が走った。

「は・・・なせっ」

再び顔を寄せた彼の首筋に、拒絶の粟粒が浮かんでいた。彼の嫌悪の感情にさえ、オレの獣欲は駆り立てられた。

初めて経験する眼も眩むような征服欲にまかせ、オレは彼に貪りついた。

「・・・どうして・・・」

オレの舌でその滑らかな咽を汚されながら、全身を震わせイルカさんが低く言った。

「・・・あんたが男で、オレも男だから」

同じ性だから分かる。本当は、相手なんて誰でもいいのだ。極限まで猛らせ、絶頂と開放まで導いてくれるものなら、誰でも。浅ましい男の性は、悲しいほど快楽に従順だ。

だから、オレでも、いいでしょう?ジーンズ越しに、彼の雄に触れた。

「嫌だっ・・・」

指でその形をなぞると、擦れるような悲鳴が上がった。

「嫌だ・・・こんなのは、嫌だ・・・」

抵抗が増して切実になった。そして、天井を睨みつけていた彼の眼差しから、一筋、涙がこぼれ落ちた。

「・・・俺は、違う・・・違うっ・・・」

違う?何が?

問いかけようと口を開いた瞬間、オレの体がぐらりと揺れ、右のこめかみに強烈な衝撃が走った。

「・・・っ」

そのまま後ろへ突き飛ばされた。ローテーブルの角で肩をしたたかに打ち、一瞬息が止まった。

オレは床に蹲ったまま、痛みを遣り過ごした。ぶつかった拍子に、ローテーブルからビールの缶が床に落ち、中身がフローリングに広がってゆくのが目に入った。

一瞬の隙をついて、彼はオレの醜い欲望の檻から逃げ出した。

息をする度に、のぼせ上がっていた血が冷えていくような気がした。何て事を。己の愚かしさが、身が凍るような冷徹さでオレに迫ってきた。

もう、すべてが終わり。

彼の笑顔も、大切にしたいと願った自分の心も、全部、この手で握りつぶしてしまった。

呆然と床を見つめることしかできないオレの耳に、イルカさんの震える声が聞こえた。

「・・・ご、めんなさ・・・」

途端に、ヒステリックな笑いが込み上げてきた。馬鹿じゃないか、この男。自分を強姦しかけた奴に。

口元に笑いを掃いて彼を見上げたオレは、息を飲んだ。

緩んだ襟元を庇うようにしながら、ソファーから立ち上がった彼の表情には、嫌悪の色も、拒絶の形も見えなかった。

それは敢えて言うなら、悲しさのようだった。まるで、拒絶されたのは自分であるかのような頼りなさで、何か言いたげに唇をわななかせ、彼はオレを見つめていた。

どうして。

口を開きかけたオレに怯えたように、彼は顔を歪め、解けかけた黒髪の残像を残して、部屋から駆け出していった。

そして、その背中を追いかける気力は、今のオレには残っていなかった。

 

 

 

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