4.

「こんな事言いたくないですけど」

目の前に、ことりと置かれた味噌汁の椀を、オレは親の敵のように睨みつけた。具は茄子、だが今はさすがに遠慮したい。唸りながらダイニングテーブルに突っ伏したオレの後頭部に、キワさんの声が降ってきた。

「随分酷い顔ですよ」

「・・・・・・」

「男前が台無しです。一体どれだけ飲んだんですか?」

酒に逃げるなんてみっともないと思った。だから、仕事に逃げた。彼の事を考える時間が物理的に無くなるように、ぎりぎりまでスケジュールを詰め込んだ。この3週間、寝る間も削って働いていたら、接待で飲んだビールと焼酎5杯でこの様だ。実際、接待の相手をタクシーに乗せてから後の記憶がない。気がついたら、この家の自分のベッドにスーツのまま潜り込んでいた。よく無事に戻ってこられたものだ。

唸るだけで碌な返事を返さないオレにため息をついて、キワさんは流しに向かった。

鍋から立ち上がる湯気に、勝手口の横の小窓が白く曇っている。恐らく外は、灰色の空の下、北風が吹き荒んでいるのだろう。叩きつけられるような激しさで、窓がぴしりと鳴った。

二日酔いの頭痛と吐き気に翻弄されながら、オレの意識は再び、心に空いた穴を覗き込もうとしていた。

あの後、一度だけ彼に電話を入れた。

数度の呼び出しの後、繋がった通話は無言だった。その沈黙に向かって、オレは謝罪した。許してくれとは到底言えなくて、ただ、ごめんなさいと繰り返した。そして、返事が恐ろしくて自分から通話を切った。そこで、彼との関係は完全に終わった。

忘れなくてはならないと思った。

そして、忘れられないだろうということも、心のどこかで知っていた。

この手で壊してしまった繋がりの破片が、後悔という名でオレを蝕んだ。相手に想いが通じない、それに焦れて相手を傷つける。何て独りよがりで、愚かな行為だっただろう。

あの時彼の瞳からこぼれ落ちた涙が、オレの醜さを責め立てる。彼が寄せてくれていた信頼を、一番汚い方法で裏切ってしまった。

抱けなくて良かったと思う。痛い思いや苦しい思いをさせなくて済んだ、それだけが、たった一つの救いだった。

のそりと顔を上げると、洗い物をするキワさんの背中が目に入った。その小さな丸っこい肩に、ふと、ずっと抱いていた疑問が口をついた。

「ねぇ、何で親父と結婚しないの」

振り返ったキワさんは、困ったように眉を寄せていた。

「・・・まだ酔ってるんですか?」

「体は酔ってるけど、心はもう素面」

ねぇ、と重ねて問うオレに、キワさんは小さな目を見開いて、まじまじとオレを見つめた。そして、ふぅ、と肩で息をした。

「・・・人にはね、その人に似合った役目っていうのがあるんだと、私は思います」

再び背を向け、洗い物を始めた。

「相手の為に、自分が果たせる一番の役目、っていうんでしょうかね。あなた達家族が笑って暮らしていく為に、私に何ができるのか。それを考えたら、こうするのが一番いいんだと思ったんです。・・・只でさえ忙しいあの人に、余計な苦労はかけたくないですしね」

幼い頃、母親のような力強さで抱きしめてくれた、彼女の腕を思い出した。大切なのは、形ではなくて心。金やら家柄やらに煩い親戚連中から軽やかに身をかわしつつ、彼女はずっとオレ達家族を愛し続けてくれていた。

それに、とキワさんは首だけで振り返って、声を潜めた。

「結婚なんてしなくても、あの人は私にめろめろですから」

それで十分じゃないですか。そう笑って、キワさんはカッコいいウインクを決めた。

「・・・言うねぇ」

その潔さを、心底羨ましいと思った。

イルカさんの、目尻の下がる朗らかな笑顔が思い浮かんだ。彼の為に、オレにできる一番の事。それはきっと、夢を追いかける彼の助けとなる事だ。

もし、許されるなら。心に浮かんだ淡い願いに、縋りつくように思った。

もう一度、側にいきたい。彼が夢を叶えられるよう、あらゆる災いから、全力をかけて守りたい。

それを許してくれるなら、彼を傷つけるこの浅ましい恋情は、永遠に眠らせよう。

拒まれる事は覚悟で、彼に再び連絡しようと腹を括った。贖わせてくれるなら、どんな償いでもしようと決めた。

少しだけ軽くなった心で、味噌汁の椀を手に持った時、玄関のインターフォンが鳴った。

通話機を取ったキワさんは、あら、いつもお世話になっております、とモニターに向かって頭を下げた。

「お待ち下さいね」

台所を小走りに出て行ったキワさんは、オレが味噌汁を飲み干す前に戻ってきた。

「カカシさんにですよ」

白い封筒をオレに差し出した。宛名は無い。

「誰?」

「うみのさん」

「・・・え?」

「秋に来て下さってた、木ノ葉造園の方。お知り合いだったんですか?」

オレは慌てて立ち上がった。

「来てたの?今?ここに?」

「もう帰られましたよ。お急ぎとかで、門の所で車が待ってらしたし」

訝しげなキワさんの視線も、ぐらぐら揺れる頭も、意識から吹っ飛んだ。

どうして、彼が?立ったまま、震える指で封を開いた。

中には、彼の少し癖のある右上がりの文字で、3日後の日付と時間、あるホテルの名前と部屋番号が書かれていた。

その後に続く、お待ちしています、の文字を、オレは呆然と見つめた。

 

 

 

ガラス張りのエレベーターは、まるでそのまま夜空の中へ上っていくようだった。

ベージュの絨毯が敷かれた廊下は靴音を吸い込んで、オレは自分の心臓の音だけを聞きながら、目指す部屋へ向かった。

号室を記したプレートを見ながらノックすると、間も無くドアは内側から静かに開いた。ドアノブを引くと、廊下から入る光の中に、部屋の奥へ下がる足元が見えた。

室内は暗かった。

「イルカさん?」

中に入りドアを閉め、明かりをつけようと壁を探ると、

「つけないで」

密やかな声に止められた。

「どうか、このままで。・・・お願いします」

約1ヶ月ぶりに聞くその声に、心が甘く疼いた。彼を好きだと、今更ながらに思った。

正面は大きな窓になっていた。眼下に広がる光の喧騒が、部屋の中をぼんやりと浮かび上がらせている。その窓のすぐ横に、イルカさんは立っていた。窓に背を向けているせいで、表情は影になって見えなかった。

「今日はいきなりすみませんでした。・・・お仕事は?」

イルカさんが言った。

「大丈夫です。気にしないで。イルカさんは?外は寒くて、大変でしょう?」

「俺は・・・」

そう言ったきり、イルカさんは黙り込んだ。そして、

「ごめんなさい」

その声は微かに震えていた。

「・・・何で謝るの?」

彼が頭を下げたのが分かって、苛立ちが湧いた。

「悪いのは・・・あなたに酷い事をしようとしたのはオレの方でしょ」

頭を上げたイルカさんは、首を横に振った。

「・・・酷いことじゃ、ないです・・・ただ、吃驚して・・・それで、自分が・・・嫌になって・・・」

「どういう意味ですか?」

彼の言っている事が分からなかった。思わず一歩踏み出すと、彼はじり、と後ずさった。

怯えさせてはいけない。オレは足を止めて彼の言葉を待った。

空調の微かな音さえ耳につくような沈黙の後、

「・・・ばれたんだと思ったんです」

溜め息のような声が、オレに届いた。

「俺が、はたけさんの事をそういう風に見てるのが、ばれたんだと思ったんです」

思考が止まった。

「それは、どういう」

固まってしまったオレの脳味噌は、イルカさんの言葉を、自分の都合の良いようにしか解釈できなかった。情けなく立ち尽くすオレに、イルカさんは、何かを吹っ切ったような、静かな声で言った。

「はたけさんといると、食べる飯も飲む酒もいつもより旨い気がするんです。一緒にいるだけで楽しくて、居心地がよくて。初めて会った時から、他の友達といる時とは違う安心感みたいなのがあって」

イルカさんは顔を窓の外に向けた。

「はたけさんの事を知る程に、その仕事への情熱も、人間としても、本当に尊敬できる人だと思うようになりました。それが・・・いつの間にか・・・い・・・いやらしい感情に変わっていったんです」

髪を解いているのか、ここから彼の顔が良く見えない。ただ、その夜の闇より深い色の瞳に光が入って、鮮やかに瞬くのが分かった。

「はたけさんは男なのに・・・自分がおかしくなったんだと思いました。こんな気持ち、知られたら絶対に嫌われる。そう思って、必死で隠して」

彼の穏やかな笑顔を思い出した。そして、彼がくれた数々の言葉も。そこに込められていた意味に、オレは全く気付いていなかった。

「・・・だからあの時も、吃驚しただけで、嫌な訳なくて。でも、キスされた時に思ったんです。はたけさんにとっては、こんなの大した事じゃないんだな、慣れてるんだな、って。そしてそれが・・・物凄く嫌だったんです」

小さく、イルカさんは笑ったようだった。

「あなたをそういう風に求めていたのは俺なのに・・・馬鹿ですね」

もう、我慢が出来なかった。

「オレとセックスしたいの?」

オレの言葉に、イルカさんの肩がびくりと揺れた。オレは項垂れる彼に近づき、彼は怯えたようにオレから遠ざかった。

「ね、教えて?」

後ずさる彼を、とうとう、壁際に追い詰めた。壁に背をつけたイルカさんは、俯いたまま、は、と小さく息をついた。

「イルカさん。オレはあなたを抱きたい」

自分でもおかしい位に震える手で、そっと彼の頬にかかる髪に触れた。

「そして、あなたの隣で生きていきたい。あなたの喜びも幸せも悲しみも苦しみも、全部を分けて貰いたい。オレは、そういう風に、あなたの事が好きなんです」

イルカさんはゆっくりと顔を上げた。大きく見開かれた瞳に、また光が瞬いた。

「・・・は、たけさん」

「だから、教えて」

怖がらなくていいから。

「あなたが、オレの事どう思ってるのか、教えて」

ずっと焦がれていた、その凛とした眼差しが柔らかく緩むのを、オレは息を詰めて見守った。

「好き、です」

その声は、小さいけれど力強かった。

「ずっと、好きでした。これからも、あなたを、好きでいていいですか?」

当たり前。

それ以外は許さない。

返事の代わりに、オレは彼をきつく抱き寄せた。

 

 

 

「・・・もう手放せないからね」

熱を孕んだ耳に囁いた。その黒髪に口付けた。

「・・・え?な・・・何?」

重ねた胸から直接響いてくるような、低く掠れた声。散々突き上げたその体は、まだオレを深く飲み込んだまま。

「あなたに、大概のめり込んでると思ってたけど・・・まだ甘かった」

本当は、今日は何もするつもりはなかった。彼の気持ちが手に入った、それだけで十分だと思った。勿論、心の欲に直結した体は、我慢の限界まで彼を求めていたけれど、慣れぬ彼に無理強いをするつもりはなかった。

抱き寄せて、初めて深く口付けて。それで体を離そうとしたオレを、彼の腕が絡め取った。

「・・・嫌、ですか?」

耳に吹き込まれた震える声が、彼の頬が羞恥に染まっている事を想像させた。

「そんな事言って・・・今日のオレは、本当に手加減できないよ」

間近で瞬く彼の艶やかな瞳に、理性は跡形もなく吹っ飛んだ。

「あなたが考えている以上に、オレはあなたを抱きたいんです。それで、いいの?」

頷くその体をベッドに押し倒した。

全身に触れ、その肌を熱く昂ぶらせ、震える彼の体を開いて、舌で解した。

「カ、カシさ・・・」

貫きながら、何度も強請ってようやく呼んでくれた名前に、気が遠くなるような気がした。

本当に、自分でも信じられない位に、苦しいぐらいに愛しい。

数度吐精させたイルカさんの雄に、再び指を絡ませると、彼は、も、無理です、とオレの肩を引っ掻いた。その声と仕草に、また、彼の中でオレが力を取り戻した。切なげな吐息を零し、イルカさんは反射的にオレを締め付けた。

「・・・だから、気持ちよすぎ。離れられない」

きっと、一生。もう手放せない。

その代わり。オレは細い声でオレの名を呼ぶイルカさんに、誓いの口付けを落とした。

オレはあなたに、オレのすべてを捧げよう。

夢を追うあなたの前には、遥か遠くまで荒野が続いている。それを一緒に越えていく為に、オレは地を駆ける馬になり、照りつける日差しから守る幌になり、敵を葬る刀になろう。

あなたの笑顔が、オレの最高の喜びとなる。

生い茂る茨にも、明けぬ夜にも負けない、強い力になる。

 

 

 

完(05.10.17〜05.12.30)

 

 

 

その後へ

 

 

 

「日和」るーさまに捧げます。

もう、むちゃくちゃ遅くなってごめんなさい(涙)

しかも、本当はカカシは「公爵」だったんですよね〜。

知識のない私にそれは無理ということで(汗)。

るーさま、拙いお話ではありますが、どうぞ納めて下さいませ。

 

 

 

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