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教えてください。 あなたにとっての幸せを。人生の喜びを。 俺があなたに与えられる、最も価値のある、美しいものの名前を。 男女の間に友情なんか成立しないと言ったのは、誰だったか。 「なんか、もったいない事しちゃったのかな?」 そう言って、カオルは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。半年振りに二人で並んだこの店のカウンター。彼女の手の中のグラスは相変わらずのペルノ。 「イルカったら、何か男前になってるんだもん」 臆面の無い言葉に俺は苦笑した。 「そんな事言うのは、カオルだけだ」 ふふん、とカオルは笑った。 「皆、思ってても中々口に出せないの。あたしとイルカの仲だから、言えるのよ」 2年前に大学の同期から恋人になり、半年前に恋人から友人に戻ったカオルは、会わない内に背中まであった髪を首の辺りまで短く切っていた。小柄な体を包むあっさりした服装はどこか無邪気な印象で、化粧気の薄くなったその表情を、俺は素直に綺麗だと思った。 そう広くないこの店を、会社の中国支店への転勤が決まったカオルの為に、同期の仲間で借り切った。だが、既に酔っ払ってこの集まりの趣旨を忘れたメンバーは、店のオーナーも交え、後ろのテーブルで何やら大声で笑い合っている。その様子を、カオルは心底楽しそうに微笑みながら眺めていた。 「いつ、発つの?」 俺の問いに、カオルは、来週、と答えた。 「準備が大変よ〜。しばらく帰れそうにないから」 海外の支店への転勤は、カオルの年齢では珍しいらしい。一も二も無く頷いた彼女は、イルカと付き合ってた頃の私だったら多分断ってたと思う、と笑った。 喧嘩別れでもない、どちらかの心変わりでもない。ただ、造園という仕事の楽しさと奥深さが少しずつ分かり始めた当時、何より仕事を優先する俺に不満が募っていた彼女の心に気付いてやれなかった俺が子供だったのだ。 「今の私だったら、もっとずっと理解でると思うんだけど」 カオルはその大きな目をくるりと回して微笑んだ。 「でも、もう、無理よね〜」 まるで期待した風も無い口調に苦笑が浮ぶ。 「イルカもね、頑張んなさいよ」 ありがとう、と答えると、カオルは、他人事みたいに、と頬を膨らませた。 「ほんと、イルカみたいな男と続けられなかったあたしは、不幸というか、不運というか」 俺は噴出した。 「何、それ」 「やっぱりね、人は愛し愛されてなんぼの生き物よ。仕事も大事、夢も大事。それと同じぐらい、愛も大事よ」 そう言ってカオルは、イルカは好きな人、いる?と身を乗り出して聞いてきた。 「・・・・・・」 脳裏に浮んだのは、彼の、左右で色の違うその瞳。普段はどこか厳しさを孕む眼差しが、笑うと穏やかにゆるむ瞬間と、イルカさん、とどこか戸惑ったような風情で俺を呼ぶ声。癖のある髪と、描いたように形の良い耳。 その端整な美貌が、どれ程俺の目を惹き付けて離さないか。年齢以上に成熟した部分と、どこか子供っぽい所を併せ持った内面の起伏の豊かさに、どれ程心奪われているか。 そして、哀しい性としか言いようの無い肉欲を、どれだけの努力で押し殺しているか。 「・・・きっと一生片思いだ」 思わず口から零れた俺の言葉に、カオルは驚いたような表情を浮かべた。 「え?どうして?」 「・・・好きだなんて、言ってはいけない相手だから」 カオルの表情が曇っていくのを見つめながら、俺は、自分を納得させる為に笑った。 「あなたを見たんです」 カカシさんは目を伏せて、言葉を絞り出すように言った。 二人でベッドのシーツに潜り、彼の肩に頭を載せて、髪を梳る彼の指を感じていた。生まれて初めて男を受け入れた体は、身じろぎするだけで悲鳴を上げる。ごめんね、大丈夫?と心配を顔に書いて繰り返すカカシさんは、セックスの最中甘い顔で無体を働いた彼とはまるで別人のようだった。 「いつも二人で行く店に、見知らぬ女性と親しげに入って行くイルカさんを見たんです」 カオルだ、と思った。 「昔、付き合ってた人です」 安心して貰えるよう、ゆっくり言葉を選んで言った。 「大学の同期でもあるんです。海外の支店に栄転になるそうで、仲間内でお祝いを」 「すごく、仲良さそうだった」 拗ねたような口調を、可愛いと思ってしまった。思わず口元が緩む。 「・・・嫌い合って別れた訳じゃないですから」 びくりと揺れたその肩をそっと撫でた。 「でも、もう昔の事です」 うん、とくぐもった声でカカシさんは答え、 「ごめんなさい。自分があんな事する人間だとは思ってなかった」 そう眉を寄せた。 俺とカオルの様子を見て、男の自分は俺の恋愛の相手にはなれないと宣告された気がしたと、カカシさんは言った。望む形で手に入らないのならば、もう何をしたって同じだと、苛立ちと諦めの中で思い詰めてしまったという。 自分が情けない。カカシさんは悲しげに呟いた。 俺は首を伸ばし、彼の唇にそっと口付けた。離れてから、彼の目を見て、好きです、ともう一度触れた。 強姦されかかった事実を良かったとはとても言えない。だが、確かに、勇気を出すことさえ諦めていた俺の背中を押してくれたきっかけではあったのだ。 「オレのほうが、絶対にあなたの事を好き」 蕩けそうな表情でため息のように言われ、触れ合わせた唇から、再び不埒な舌が進入してきた。この人は俺が思っているより嫉妬深いたちなのかもしれない、と頭の片隅で思った。 遠慮がちな、しかし確実な恋情と情熱と欲望で以って、俺たちは始まった。 会えない時でさえ、その存在に励まされ、先へ進む力をくれる恋。 例え二人の前に続くのが約束のない未来でも、心にあるこの想い以上に確かで力強いものはない。 そう信じたいと、思っていた。 カカシさんの手が、器用に滑らかに、動くのを見ていた。 すんなりと長く節が目立たない指と、大きな掌。形の良い爪は桜色で、甲の肌色も白いのに、しっかりと男の力強さを備えた手。 その綺麗な手が、昨夜どんな風に俺の全身をまさぐったのか、覚えていないのが悔しい。そうやっていつも、我を忘れて翻弄されてしまうのが歯痒い。 俺以上に、俺の肌の色を知っている、指と、唇。 「どうしたの?」 俺の視線に気付いたのか、顎を心持ち上げてクローゼットの鏡を覗き込んでいたカカシさんが言った。 「・・・きれいだな、と思って」 ベッドに横たわったまま、組んだ腕に頬を載せて、俺は答えた。 「何が?」 「・・・ネクタイ」 俺は枕に視線を落とした。本当の事なんて、恥ずかしくて言える訳がない。 「俺、上手く結べなくて。カカシさんが羨ましいです」 結ぶ機会もそうないけれど。 「オレは毎日の事だからね、慣れてるだけ」 微笑みながら、カカシさんはベッドの枕元に腰を下ろした。グレーのネクタイは、まるで最初からそう整えられていたかのように形良く、彼の襟元に収まっている。薄いブルーのシャツとの平凡な組み合わせが、恐ろしく様になっているのは、それぞれの品質の高さと、着こなすカカシさんの、見た目以上に筋肉のついた体格のせいだ。 カカシさんは、仰向けに体を返した俺の、耳元の髪を掬うようにかきあげた。 「だったら、これからは、オレがイルカさんのも結んであげます」 そして、同じ口調で、体しんどくない?と聞いてきた。 「・・・大丈夫です」 4時間程前まで散々に揺さぶられていた事を再び思い出し、覗き込んでくる彼の瞳に、顔が勝手に熱くなった。ここの所互いに仕事が忙しく、逢瀬は10日ぶり、体を重ねるのは約3週間ぶりだと言ったって、限度ってものがあるだろう。 俺の表情と口調に何を思ったのか、カカシさんは小さく笑った。それが余計に恥ずかしい。 「寝てていいからね。昼過ぎに一度戻りますから」 「だったら、昼飯、何か作っておきます」 カカシさんは目を細め、俺の前髪をつい、と引っ張った。 「ありがとう。でも無理はしないで。夜は、久しぶりに外に食いに出ましょう」 そして、行ってきます、とカカシさんは俺の唇を軽く啄ばんで立ち上がった。 カカシさんの気配が玄関のドアを閉じて出て行ったのを感じ、俺は息をついた。毛布を口元まで引き上げると、抱かれている時でもほとんど感じない、あるかないかのカカシさんの匂いに包まれる。 もう数え切れない程の時を過ごしたカカシさんの部屋。寝室の天井にも、背中に触れる滑らかなシーツの感触にも、もうすっかり馴染んでしまった。 今も体内に残る、カカシさんの熱そのもののような疼きにも。 カカシさんとのセックスはまるで、彼の存在を皮膚と感覚神経そのものに刻みつけられるように濃密だ。挑まれるように性急に体を開かれる夜もあれば、今まで他の誰にも言った事の無い言葉で俺が強請るまで、ずっと焦らされ続ける時もある。 その声に、言葉に、愛撫に、口付けに、容赦なく絡め取られて、身動きさえままならなくなる。埋め込まれた熱が生む許容を超える快楽に、すべてを曝け出さされる。本来性を受け入れるようにはなっていない俺の体は、カカシさんの愛撫を受け、彼を求めて温む。自分の体がそんな反応をするなんて、彼に教えられるまで知らなかった。 俺だけを乱すように追い詰める彼の眼差しは、だがいつも、主導権を握る者の余裕とは程遠い。穿つ動きは、まるで俺の肉体を壊して、俺の内側にあるものを手に入れたいと願うように切実だ。 抱かれる事に抵抗がなかった訳ではない。正直、恐怖も、男としての自我と矜持の葛藤もあった。俺がカカシさんを受け入れられたのは、彼が望むようにしたいという気持ちの方が強かったからだ。 その分俺の方が想いが深いのだと、冗談交じりに言ってみれば、「その分オレの方が、あなたをより強く求めてるんです」と、当然と言わんばかりの表情で返された。 硬質な容姿からは想像もつかない熱情と執着。 好きだという言葉を、こんなに切なげに伝えてくれる人を、俺は他に知らない。 彼と初めて会った時は、こんな関係になるなんて思ってもみなかった。 うちの会社の長年のお得意様で、資産家として知られるはたけ家の長男は、男の俺でさえ目を奪われる程の端整な容姿と、均整の取れた高い上背と、耳障りのよい声を持っていた。一目見て、これは女にもてるだろうと不躾な事を考えてしまったが、落ち着いた柔らかい口調で話す彼からは、男前で金持ちで独身、という単語から安易に連想される、浮ついたところも選良意識も全く感じられなかった。寧ろ、首の後ろを掻きながら丁寧に言葉を選ぶ様子は、酷薄そうな外見を裏切って、温和で実直な印象を抱かせた。 少し猫背の彼と、二人並んで縁側に腰掛け、庭を眺めながらポツポツと会話を交わした。沈黙さえ穏やかに感じたその時間は、会ったばかりとは思えない程居心地の良いものだった。だから、また会いたいという台詞と共に携帯電話の番号を渡され、翌日直ぐに食事の誘いを受けた時も、面食らいはしたが、同時に嬉しくもあったのだ。 ・・・いつの間にか眠ってしまっていたらしい。 何かを聞いた気がして、俺はふと目を開けた。 律儀な間隔で、玄関のインターフォンが鳴っていた。俺は慌ててベッドから起き上がり、床に脱いだままのジーンズに足を突っ込んだ。上に着ていたシャツを探したが、何故か見当たらない。仕方なく、目についたカカシさんのセーターを被り、軋む体で玄関に向かった。 開けたドアの向こうには、女性が一人立っていた。彼女は僅かに目を見開き、おはようございます、と丁寧な口調で頭を下げ、小さく首を傾げて言った。 「こちらは、はたけさんのお宅ではありませんか?」 仕事関係の人だろうか。凛とした声と、大きな瞳が際立つ美しい顔立ちが、まとめ髪にグレーのスーツという地味ないでたちさえ華やいで見せていた。 「そうですが、今朝はもう事務所に出ています。そちらへ回って頂けますか?」 答えた俺の顔から、彼女はちらりと視線を落とした。その茶色の目が、みるみる訝しげに細められた。 「・・・そのセーター」 呟いた彼女の顔つきが変わった、気がした。 顔を上げた彼女に、今度は穴が開くほどまじまじと見つめられた。その強い視線は値踏みするように不躾で遠慮がなく、俺は面食らいながら口を開いた。 「あの、何か」 「お邪魔するわ」 いきなり彼女はそう言うと、俺の脇をすり抜け、玄関に入り込んだ。ハイヒールを脱ぎ、勝手知ったると言った様子で廊下に上がって、どんどん奥へ歩いて行った。 「ち、ちょっと」 慌てて後を追いかけると、彼女は廊下の奥、寝室の入り口で足を止めた。開け放したままのドアの隙間から、寝乱れたベッドをじっと見つめ、 「・・・まさか、とは思ったけど。よりにもよって」 吐き捨てるような口調が俺の心を引っ掻いた。嫌な予感がした。 彼女は引き止める間もなく寝室に入り、ずんずんとベッドの脇に歩み寄った。淀みない手つきでサイドテーブルの引き出しを開け、中に入れてあったカカシさんのライターを取り出した。そして、堂々とした仕草で自分のバックから煙草を取り出し、そのライターで火をつけ、俺をくるりと振り返った。 どうして、彼女は、そこにライターが入っているのを知っているのか。その問いの意味と答えに、俺の心臓がざっと冷えた。 呆然と立ち尽くす俺の前で、彼女はまとめ髪をほどき、艶やかな茶色い髪を指で解すようにしながら煙を吐き出した。その冴えた表情ははっとするほど美しかった。 「・・・煙草、構わないわよね?今更だけど」 挑戦的な光を目に宿し、赤く塗った唇を艶然と吊り上げて微笑む彼女が誰か、俺は分った気がした。 |
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