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「イルカさん」 呼ばれて顔を上げた。カカシさんが、眉を寄せて立っていた。 「ぼうっとして、危ない」 灰、と言われて、手の中の煙草を見た。慌てて、今にも崩れ落ちそうだった残滓を灰皿に落とした。取り繕うつもりで、おかえりなさい、と声を出すと、 「・・・さっきも言ってくれましたよ」 呆れた声が返ってきた。 時計を見ればもう夜の7時を過ぎている。テーブルの上に広げた造園技能士の資料には、ほとんど目を通せていない。 「大丈夫?」 カカシさんは、ネクタイだけを緩めた姿で、ソファーに座る俺の隣に腰を下ろした。 「どこか、しんどいんじゃない?昼飯の時も、何だかぼんやりしてたし」 気遣わしげな表情を浮かべ、顔を覗き込んでくる。 「飯、外に出るの止めておきましょうか」 口を開くと余計な言葉が溢れてきそうで、俺はただ首を横に振った。 「だったらいいんですけど」 そう言って微笑む彼の瞳を、俺はもう真っ直ぐ受け止める事ができなかった。 あの女性の赤い唇が脳裏を掠めた。彼女の吐き出した煙草の煙が、彼女に投げつけられた言葉と同じように暗く濁って、俺の心に澱んでいるような気がした。 彼女は、カカシと付き合ってるの?と、確認するように聞いてきた。俺の躊躇をけん制するような眼差しは、嘘や誤魔化しを許さぬ鋭さを秘めていた。 「隠さないで。時間の無駄だわ」 「・・・隠すつもりは、ありませんが」 カカシさんとの関係は、今まで誰にも明かした事がなかった。世間的に認められているとは到底言えないこの繋がりが、周囲にどんな影響を与えるか、正直に言えば不安と怯えがあった。だが、この期に及んで、彼女に隠す必要も無い。 「・・・あなた、男よね」 彼女は柳眉をきり、と寄せた。 「あの女好きが、どういう心境の変化かしらね。単に、女の体に飽きて、毛色の変わったのをつまみ食いしてるだけなのかしら」 単語の一つ一つが、針で刺されるような痛みを伴って胸を突いた。冷笑を含んだその口調に、挑発されているのだと分った。 「あなたは」 「嘘は嫌いだから言っておくけど」 俺の言葉を遮るように彼女は言った。 「カカシとは一応別れてるわ。でも、私は、あの男を諦められないの」 「・・・・・・」 「未練がましい女だと思って頂いて結構。それに、あなたにどう思われようと関係ないわ」 大切なのはカカシ。彼女は笑った。 「今までも、どれだけ他の女を渡り歩こうと、カカシは結局、最後には私の所に戻ってきた。だから、今回もそうなると、私は信じてるの」 彼女の口振りは、まるでそれが確定した事実であるかのように、自信に満ちて聞こえた。 「・・・選ぶのは、カカシさんだ」 怒り、屈辱、情けなさ。ない交ぜになった感情のままに、俺は言った。 「・・・そうね。選ぶのはカカシで、今はあなたが選ばれてるってことよね」 今は、と彼女は頬を歪めながら、念を押すように繰り返した。 「だからって、明日もカカシがあなたを選び続けるって保障は無いわよね」 男同士なんて不毛な関係なら、尚更。そう言って、彼女はついと俺の方に一歩踏み出した。 「男のあなたでは絶対に与えられないものを、女である私はカカシに与える事ができる」 それは、俺の最も弱い所を、ぎりと深く抉った。 「奪い返すつもりだからそのつもりで」 凛とした微笑と高らかに言い放たれたその言葉に、彼女が勝機を見たのだと知った。 その光景が脳裏に再び蘇り、俺は思わず唇を噛み締めた。 奪われる事が怖いのか。奪ってやると言い放てる激しさが羨ましいのか。 俺が女だったなら、今感じている引け目も知らずにすんでいたのだろうか。 カカシさんを好きになった理由、それは俺が、一番知りたい。 資産設計相談事務所を構えて、多くの顧客を抱えるカカシさんは、文字通り毎日仕事に忙殺されている。顧客の要望に応えるだけでなく、日々刻々変化してゆく経済状況を掴む為に沢山の資料に目を通し、自己研鑽を怠らない。その苦労を「ありがとうって言ってもらえると、嬉しいんですよねぇ」の一言で笑って済ませられるのは、自分の仕事に誇りと情熱を持っている証だった。 そんな彼だから、今の俺には途方もなく思える将来の夢を、気負いなく話すことができたのかもしれない。 いつか独立して、国立公園を手がけたい。 同じ庭師だった祖父に憧れ、教師になってもらいたいという両親の願いを蹴って今の仕事に就いた。今もそれに不満を持っている両親とは、微妙に疎遠になっている。 唯一人味方してくれた祖父も既に亡くなった。両親は勿論、今まで誰にも言った事のない夢を、応援すると言ってくれた彼の言葉が、俺にとって先へ進む為の何よりの力だった。 生活環境も職業も全く違う、彼と出会えた事そのものが奇蹟みたいだと思う。 最初に会ってから、週末毎に、食事や酒の誘いの電話がかかってきたのも。彼のさり気ない気遣いにくすぐったさを感じながら、彼にも、俺との時間が楽しいものであって欲しいと願ったのも。自分のその感情が尊敬でも友情でもない事に気付いたのも。彼が、俺と同じ想いを抱いていてくれた事も。 カカシさんに連なるすべての出来事が、ただの偶然の重なり合い以上に、俺の中で重く神聖な意味を持っている。 だから、余計に思うのかもしれない。カカシさんは、俺には本当に過ぎた人だ。同じ年代の男として、仕事への誇りと情熱、温厚で裏表の無い誠実な人柄に、尊敬の念を抱いている。そして、甘やかされていると思うほど大切に扱われる一方、彼が時折見せる子供っぽい執着や他愛なさを装った切実な我儘、まれに零す愚痴に、俺に気を許して、存在を求めてくれる証拠だと、嬉しさを感じている。 そう思うからこそ、カカシさんを手に入れた瞬間から、俺はいつも心のどこかで怯えている。彼に大切にされればされるほど、いつカカシさんが俺じゃない誰かを選んで、俺の元からいなくなってしまうかもしれないと、時折、身の竦むような不安に襲われる。 カカシさんを信じていないのではない。ただ、自信がない。獰猛なまでに真摯なあの熱情に似合う価値が自分にあるのかと、自問せずにはいられない。 俺は彼に、この上ない幸せを貰っている。だが、俺は、彼に何を与える事ができるのだろう。 俺が彼に捧げられる、最も価値のあるものが何なのか、俺は見失ってしまっていた。 「イルカさん」 優しく咎める声に、はっと引き戻された。ソファーに座ったままの俺の後ろから、着替えを終えたカカシさんの腕が回ってきて、そっと肩を抱き込まれた。 「やっぱり、変です。体調悪いんだったら、無理しないで、休まなきゃ」 それとも何かあった?と耳元で囁く声に、俺は思わず口を開きかけ、再び閉じた。 言えない。言えるはずがない。第一、言ってどうする? 気休めが欲しいんじゃない。彼女の言葉を否定して貰いたいんじゃない。これは俺自身の問題だ。カカシさんを失う恐ろしさに、情けないほど揺らいでしまう俺の弱さが原因だ。彼に甘えて、一時の慰めを貰ったところで、俺の中の不安はきっと無くならない。 俺は無理矢理、唇の両端を笑いの形に持ち上げた。 「何も」 俺の短い答えに、カカシさんは、きり、とその形のよい眉を歪めた。間近から向けられるその探るような眼差しを、半分意地になって見返すと、 「・・・あなたって人は、また、そういう顔で、そういう事を言う。」 ため息と苦笑が混じった声で呟かれた。 「あんまりオレに心配かけるようだと、攫って、どっかに閉じ込めちゃいますよ」 ほんとに、と俺を見据える瞳は、その優しい表情に似つかわしくない、どこか凶暴な色をしていた。 あぁ、と思った。 この人は、いつも誰よりも優しくて、時折誰よりも我儘な人だった。 「最初に抱き合った夜に、オレが言った事、覚えてます?」 カカシさんの腕に力が篭った。俺は頷いた。忘れる訳が無い。カカシさんは、どこか寂しげな表情を浮かべた。 「オレは、イルカさんが一人で苦しんだり悲しんだりしてるのを見るのが、とても嫌なんです。あなたに訪れる幸せも不幸せも、全部をあなたと分かち合いたいんです。そういう風に、好きなんです」 そうやって、あなたの隣で生きていきたいんです。 あの夜、俺に捧げてくれた真摯な求愛の言葉を、彼は再び口にした。 「だから、オレのこと好きだと思ってくれるなら、ちゃんと、言って」 彼の言葉に、心と体を強張らせていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。 「お願いだから、そんな、泣きそうな顔で、一人で我慢しないで」 じん、と目の奥が熱くなった。 俺は必死で、咽元にせりあがってくる感情の塊を、歯を噛み締めて堪えた。 泣くな。そう思った途端に、視界が膜を張ったように滲んだ。溢れる涙が、もう止まらなかった。 この人が好きだ。心の底から思った。 いつか終わりが来るかもしれなくても。その眼差しから、今の情熱が失われる日を迎えるかもしれなくても。 彼から何も与えられなくなったとしても、俺は彼が好きだ。それだけは、誰も、犯すことのできない俺の生涯の誇りだと、胸を張って言う事ができる。 きっとそれが、彼に捧げられる俺の最良のものなのだ。 カカシさんは、口を押さえて嗚咽を飲み込む俺の手を、そっと包むように取り、骨ばった甲に、その唇を押し当てた。 「オレの為に泣いた後は、その倍、オレの為に笑って」 そう厳かに言って、慈しみと切なさに満ちた目で俺を見つめて、ふわりと微笑んだ。 「実は、彼女から、数日前に携帯に着信があったんです」 出ませんでしたけど、とカカシさんは俺を伺うように見た。 「・・・嫌な思いをさせたんじゃないですか?ほんと、ごめんなさい」 頭を下げたカカシさんに、俺は答えた。 「もう、彼女とは関係ないんでしょう?」 「そう、ですけど」 「だったら、あなたが謝る筋合いはないと思いますよ」 カカシさんは再び、そうですけど、と呟いた。 手の甲への慎み深いキスは、いつの間にかきつい抱擁と深い口付けに変わった。俺はそのまま寝室に連れていかれ、ベッドの上で全身に甘い刺激を与えられ、言うつもりの無かった彼女の訪問を白状させられた。 「何ていうか・・・楽、だったんですよね」 カカシさんは言った。 「お互い、ほんと、やりたいようにやってたんです。それぞれ仕事もありましたし。時間が合えば会って、会えない時は1ヶ月以上電話もしなくて。生活のペースが合ってた、って言うのが一番近いような気がします」 だから、長く続いたんでしょうね、とカカシさんは続けた。 「彼女は、オレに何らかの責任を求めようとはしませんでした。本当はどう思ってたかは分りませんが。オレも、それに甘えてた」 「もう、いいです」 内心の苛立ちのままに声を上げると、カカシさんは驚いたように目を見開き、それから、にこ、と頬を緩めた。 「もしかして、妬いてくれてるの?」 当たり前だ、と視線で返事をすると、 「不謹慎かもしれないですけど、やっぱり、ちょっと、いやかなり嬉しいです」 ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。 「嫉妬してるのは、オレばっかりだと思ってましたもん」 「何ですか、それ」 「ほら、あの人。カオルさん」 「・・・あぁ」 俺は思わずため息をついた。何故だか知らないが、俺の前の彼女に、カカシさんはやたら拘っている。最近では取り合う気も失せてきた。恐らくお互い様なのだろうとは思うけれど。 「・・・本当は、仕事がもう少し落ち着いたら、って思ってたんですけど」 俺の髪を指に絡めながらカカシさんが言った。 「来週空いてましたよね。よかったら、うちに来てもらえませんか?」 いきなりな申し出に、俺は強張った。 「親父と、弟と、キワさんと。オレの家族に、会ってもらいたいんです」 話だけは彼から沢山聞いている、カカシさんの家族。一風変わった、しかし温かな環境を微笑ましく思っていたけれど。 「もう、あなたの話はしてあるんです。恋人だと。これからもずっと一緒にいたい人だと」 ぎょっとした。世間の常識から鑑みれば、男の俺が認めて貰えるはずが無い。 「でも、俺は・・・」 「親父はね、男だったら孫は無理かぁって」 俺は耳を疑った。 「・・・それだけ?」 「それだけ。あとは、酒は呑めるのかって。オレより強いよって答えたら、ぜひ一緒に呑みに行こうって」 酒好きで煩いぐらいによく喋る変人ですけど、悪い男じゃあないですよ、とカカシさんは笑った。 「キワさんは、家族に男前が増えて、幸せだわって。あの人も、ほんと面食いですけど、気風の良さと料理の腕は折り紙つきです。あなたが来たら、腕によりをかけて旨いものを作るんだって、張り切ってますよ。弟は、まぁ、自分の事に手一杯で、どうでもいいみたいです。兄貴が選んだんだからちゃんと最後まで面倒見ろよ、とは言われましたけど」 そして、俺の表情を見たカカシさんは、嫌ですか?と顔を覗き込んできた。その穏やかで揺るぎない眼差しに、彼の深い決意を見たような気がした。 ・・・本当に、この人は。 俺は、堪らない気持ちでカカシさんを見返した。 いつも俺が求めている以上のものを、こうして俺に与えてくれるのだ。 胸に込み上げてきたのは、くすぐったいような愛しいような、甘く温かい感覚と、喜びと、そして。 「・・・キワさんのご飯、楽しみにしてます」 それだけ何とか口にして、涙で滲む目を何度も擦って。 俺は、自分にできる精一杯の笑顔を、彼に捧げた。 完(06.02.02〜06.03.06) |
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