この幾千のことほぎを

 

 

 

里は、夜よりも暗い闇の中にあった。

その事実を知る者は、今は少ない。

だが、その限られた者達は、失ったものの大きさに慄き、震え、天を仰いで慟哭した。

心を切り裂かれるような衝撃は、日を追う毎に、癒える事の無い深い悲しみに変わるだろう。

闇は、明けない。

木の葉の誇る上忍、写輪眼のカカシが死んだ。

 

 

 

1.

綱手は一人、火影の執務室にいた。

窓に向かって立ち、新月の夜に沈む里に視線を向け、先刻終わったカカシの葬儀を思い出した。

葬送は、深夜を待ち密やかに行われた。里の南にある火葬場で彼を見送ったのは、綱手とシズネ、上忍のアスマ、紅、ガイ。そして一人の中忍。木の葉隠れ里で、火影の名にも匹敵する実力者の葬儀にしては、慎ましく寂しいものだった。

それも致し方ない。綱手は首を振った。カカシの死はまだ公にはできない。その死がどれほどの影響を国内外に与えるか、戦略的な見通しがたつまでは秘しておくべきというのが、里の上層部との共通見解だった。

小細工がいつまで通用するかは分からないが。綱手は、苛立ちにも似た気持ちを落ち着かせる為、そっと息を吐いた。

木の葉においては揺ぎない信頼と尊敬を集め、周辺諸国では畏怖と怨嗟をもって語られるカカシの名。その特殊な瞳術と、カカシ自身が備えていた忍としての実力と影響力を思えば、この唯一無二の存在を失った痛手は、恐らく今予想している範囲を超えるだろう。

次の一手。その次の一手。判断を一つ間違うと、木の葉崩しからこちら、未だ機能を完全に修復しているとは言い難い里に、決定的な打撃を与えかねない。

「・・・哀しいな」

綱手個人ではなく火影としての思考が先立つ己に、綱手は呟いた。子供の頃から知っている男の死を、ただ、悼んでやる事ができない。里の忍は、すべて我が子だと思うのに。

その時、控え目なノックの音が聞こえ、綱手は瞬時に表情を引き締めた。ドアの向こうに立つのが誰か、彼女には分かっていた。

「入りな」

そっと、ドアが開いた気配がした。

「失礼します、五代目」

思ったよりしっかりした声だ、と綱手は思った。

その男は、葬儀の時は一言も口を利かず、取り乱した様子も見せず、見送る人の輪の最も遠くから、柩に横たわるカカシをじっと見つめていた。そして、カカシの肉体が骨も残さず焼失したのを確認し、消えるようにその場を立ち去った。

だが、その穏やかにさえ見えた黒い瞳の奥で、男がどれほどの苦悩に蝕まれているか、同様に愛する者を失った痛みを知る綱手には、悲しいほど容易に想像できた。

うみのイルカ。はたけカカシが生前、ただ一人その心を捧げた男。

本望、という言葉が綱手の中に浮かんだ。

愛するこの男を庇って、カカシは命を落としたのだ。

「五代目、お願いがあって参上いたしました」

イルカが低く言った。

「お前がここに来た理由は、分かっているつもりだよ」

振り返らず、イルカに背を向けたまま、綱手は答えた。

「結論から言う。答えは、否だ。うみの」

切り捨てるような言葉に、返事は無かった。

「三代目との約束だろう。どんな事があろうとも、お前の封印は解かないと」

イルカが呼吸さえ乱さないのは、ある程度予想していたからだろう。

「五代目、お願いします」

静かな、しかし切実な声が綱手の耳に響いた。綱手は体を返し、立ち尽くすイルカを見据えた。

「駄目だ」

「・・・五代目」

二人は静かに睨みあった。

先に動いたのはイルカだった。ホルダーからクナイを取り出し、淀みない手つきで己の項に切っ先を当てた。

「・・・どうするつもりだ?」

イルカは、真っ直ぐ綱手の視線を受け止めた。

「封印が施されているのは、丁度、この辺りだと聞いています」

「無駄だ、うみの」

「印を施してある皮膚を真皮まで剥げば、術式の拘束力が弱まります。そうすれば、俺でも」

「止めろ、無駄だと言っている」

「やってみない事には分からない」

「・・・私を脅すのか?」

イルカは返事をしなかった。その決意の哀しさに、綱手は深くため息をついた。

「封印の理由、三代目から聞いているだろう。お前の命を守る為・・・」

「そんな理由!」

血を吐くような叫びがイルカから迸った。

「そんな理由・・・今の俺には何の意味も無い」

イルカは苦しげに身を捩った。全身が震え、堪えようときつく瞑った瞳から、涙が幾筋も頬を伝い落ちた。

彼の中でぎりぎりまで保たれていたものが、音をたてて崩れ落ちたように綱手には思えた。

カカシの恋人であり、何よりその死の直接の原因であるにも関わらず、イルカは今まで一粒の涙さえ見せる事がなかった。ただ無表情に黙りこくり、侘びも、後悔の言葉も口にしようとしなかった。不遜にも見えるイルカの態度に、里の上層部は彼への非難を一層強めた。里の宝が一介の中忍の為に失われた事。同性同士でありながら恋人という関係であった事。カカシの死による喪失感と危機感を、イルカへの憎しみに置き換え、査問という名の誹謗中傷の礫がイルカに容赦なくぶつけられた。

二人の関係を隅々まで調べ上げられ、汚らわしいと非難され、カカシとの思い出が泥の中に叩きつけられるような仕打ちを受けても、イルカはただ無言で、じっと前を見据えるだけだった。

親しい上忍の間にさえ、イルカへの控えめな不信が芽生える中、火影である綱手だけが只一人イルカの真意を知っていた。

お願いします、とイルカは擦れる声で綱手に頭を垂れた。

「どんな罰でも受けます。どんな事でもします。俺の命なんかどうでもいい。だから、だから、どうか・・・」

絶望の一歩手前で踏みとどまった、祈りにも似た感情が、ひたひたと綱手に押し寄せてきた。

あの人のいない世界に何の意味がある?綱手の心に今も生々しく残る傷が疼いた。

あの雨の日、両手に受け止めた愛する男の血と肉の感触。そして、あの暗い部屋に横たわった、凍える程に冷たい只一人の弟の体。

同じ想いを知っている。同じ痛みを知っている。

・・・やはり、私は甘いのか。

師を思い、そして綱手は覚悟を決めた。

 

 

 

二人が同じ任務を与えられたのは全くの偶然だった。

戦忍だった経験から、その国の地理に詳しかった事と、諜報能力の高さを買われて、そのSランクの任務にイルカは就いた。その部隊長がカカシだった。

北の山岳地帯に本拠を持つ、ある勢力の秘密部隊の殲滅。忍戦部隊の身軽さを最大限に活かし、ゲリラ戦で敵の勢力を削いでゆく。イルカを長とする諜報班がもたらす情報がその攻撃の基盤となった。

任務は順調に進んでいた。敵の全滅まで後僅かだった。

「こういうの、幸せって言ったら、不謹慎なんだろうねぇ」

指揮官専用のテントの中、寝台に横たわり、胸にイルカを抱き寄せてカカシが言った。

「何ですか、それは」

掠れた声でイルカは答えた。激しく求められた余韻が体内で疼いている。声を堪えるために噛んで作ってしまった腕の傷を、カカシはいとおしげに舐めた。

互いに、外では恋人同士の甘さなど微塵も感じさせない。この任務で、こうして夜を共に過ごすのも、今晩が初めてだった。

「イルカ先生と同じ空気を吸って、同じ景色を見て。同じものを守り、同じものと戦ってる。そういう実感が嬉しいんです」

ここは戦場なのにね、とカカシは苦笑した。

「里では感じられませんか?」

「・・・ちょっと違う感じがします」

カカシは少し考えた後、

「忍として、というと一番しっくりくるかもしれません」

それはイルカも同じだった。カカシと己の能力には、比べる事さえおこがましい程の差がある。それでも一人の忍として、走るその背を追いかけることの出来る喜びは、恋人として繋がりあうのとはまた違った幸福を、イルカにもたらしていた。

「頑張って追いかけますから」

笑うイルカの頬を、カカシの指が撫でた。

「無茶は嫌ですよ、イルカ先生」

「それはお互い様でしょう」

二人は深く口付けた。触れ合う肌を互いに抱き締めあった。

ざっと、互いに熱が上がったのを知った。さて、とカカシは微笑んだ。

「恋人としてのオレは、まだまだ足りない。あなたが欲しくて仕方ない。でも、部隊長としてのオレは、明日のあなたの激務を考えて、止めておけと言っている」

「・・・じゃあ、止めますか?」

ん〜、とカカシはイルカの耳に甘い言葉を吹き込んだ。

「今晩は、部隊長は休業にします・・・」

・・・それは、未来を知らなかったからこその幸福。

その夜の事を、イルカはそれから何度も思い出した。

その時は、思ってもいなかったのだ。

翌日、イルカが敵の仕掛けた罠に落ちるということなど。

イルカに殺到した武器を、カカシがその身で受け止めて、命を散らす運命だということなど。

 

 

 

イルカはふと目を開けた。

暗い部屋。冷えた空気。今だ気配は夜だ。

半身を起こして枕元の時計を見た。針は3時を指している。寝入ってからまだ2時間しか経っていない。

じっと周囲の気配を探ったイルカは、ほっと息を吐いた。そう広くない自室も、アパート周辺も、眠りにつく前と何の変わりもないようだった。

元々忍は眠りそのものが浅い。睡眠中でも、どんな微かな物音も聞き取り、即座に対応できるよう訓練されている。里の暮らしが長いイルカは、戦忍時代に比べれば勘働きそのものが格段に鈍っていたが、このような不意の覚醒は、昔、戦場にいた頃の研ぎ澄まされた日常を思い出させた。

里の中で一体何があるというのか。自分に苦笑し、再び布団に潜りこんだ。

目覚める寸前まで夢を見ていたような気がしたが、思い出せなかった。

今日もアカデミーの授業と夜勤の受付業務がある。眠っておこうと瞼を閉じた。しかし、一瞬とはいえ緊張したせいか、すっかり目が冴えてしまっていた。

数度寝返りを打った後、水でも飲もうと、イルカはベッドから出た。明かりを点けずにそのまま歩きかけ、ふと、視界の端をちらりと掠めた白いものに意識が向いた。

テーブルに、四つに折られた紙が置いてあった。

眠る前に、ここに何かを置いた覚えは無かった。訝しく思いながら、イルカはその紙を手に取り、そっと広げた。

『綱手様に、封印を解除して貰った』

書いた覚えの無い、しかし確かにイルカ自身の文字が、目に飛び込んできた。

イルカは、瞬時に内容と状況を理解した。そして、自分の項に手をやり、そこに何の違和感も無い事を確認した。目が覚めたのは、このせいか。

三代目が施したイルカの封印。何があろうとも、決して解かないと約束した。

なぜ?心臓が冷えた。一体何があった?

『影響を最小限に抑えるために、必要最低限の事しか書かない。この手紙も、読んだらすぐに燃やしてくれ』

淡々とした文が、乱れた文字で綴られていた。そして、次の一文を読んで、イルカは思わず息を詰めた。

『今日、お前はカカシさんに告白される』

イルカは何度もその文字を目で追い、意味を確かめた。カカシさんに、告白される?

写輪眼のカカシ。稀有の瞳術と卓越した技術で、木の葉隠れ里の忍の頂上に立つ男。こなした任務のランクと数、元暗部という経歴に裏打ちされた上忍という以上の偉才は、周囲に憧憬と近寄り難さを感じさせた。

だが、ナルト達の上忍師としてイルカの前に現れたカカシは、猫背と、眠そうな右目がどこかとぼけた雰囲気を醸し出す、温厚な物腰の、ごく普通の男だった。

階級の差など微塵も感じさせず、イルカ先生、と丁寧な口調で話しかけてくるカカシに、最初は正直戸惑った。親しみを込めたその態度は、上忍と中忍という関係には似つかわしくないように思えた。だが、誘われるままに酒と食事を共にし、お互いを知る機会が増えるにつれ、その違和感は、居心地の良さに変わっていった。

それが恋になったのは、何時頃からだろう。カカシから与えられるもの以上のものを、欲しいと思うようになったのは。

だが、同性同士である事、そして忍の世界では絶対である階級差が、イルカから気持ちを伝える術と勇気を奪い去った。好きになってはいけない相手。イルカは自分の感情を恐れ、想いが早く消えてくれる事を願っていた。

そんなイルカと同じ想いを、カカシも抱いていたと?信じられないような気持ちと、息が止まるような幸福感にイルカは包まれた。

だが、次の一文が、瞬時にイルカを奈落に突き落とした。

『だが、あの人の告白を、どうか断ってくれ。それも出来る限り手酷く、嫌われるように拒否してくれ。そして、金輪際あの人には関わらないでくれ』

どうして。イルカの唇がわなないた。どれほど焦がれているか知っているだろうに。

『1年後、カカシさんは死ぬ』

その文字に、心臓が止まりそうになった。

『あの人は、俺を庇って死ぬ』

冷や水を浴びせられたような気がした。

『俺と付き合わなければ、あの人は俺を庇ったりしなかった。俺が恋人でなければ、あの人は死ななかった』

何て事だ。イルカは全身が震えだすのを止められなかった。

『これは俺の我が儘だ。カカシさんが俺を庇わなければ、恐らくそこで俺は死ぬ。だから、俺は、お前に、頼む事しかできない』

イルカは震えながら息を吐いた。理解の速度を超えた現実。恐ろしい決断が、その肩に圧し掛かった。

『俺は、俺なんかの為に、カカシさんを死なせたくない』

だが、どの未来を選んでも、黒く塗りつぶされている事には変わりないと、イルカは思った。だったら、自分の一番の望みを選ぶしかない。

込み上げてくる熱いもので、イルカの視界が揺れた。最後に、と続く文に、涙がはたりと落ちた。

『叶うはずのない恋が叶い、カカシさんに愛された一年間、俺は本当に幸せだった。その幸福を奪い、あまつさえ死んでくれと頼む俺を、恨むなら恨んでくれ。呪ってくれ』

だが、その幸福がカカシの生を奪う理由となるのなら、イルカが選ぶ道は決まっている。

『頼む。カカシさんを頼む。もうお前しか望みがない』

愛しているなら彼を拒め。そして。

未来の自分からの手紙を握り締め、イルカは声を上げて泣いた。

 

 

 

進む

 

 

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