4.

「こんばんは」

開けた玄関の向こうで、カカシが言った。

「こんばんは」

イルカは体をずらせ、カカシを迎え入れた。カカシが身に纏った冷気がふわりと香った。

「任務お疲れ様でした・・・お帰りなさい」

「ただいま」

変わった様子はない。血の匂いも感じられない。イルカは息をついて、サンダルを脱ぐカカシに言った。

「あの・・・風呂、沸いてますから」

カカシは薄く笑って、ありがとう、と答えた。

 

 

 

「イルカ先生」

夕食後、茶を啜りながらの他愛ない会話がふと途切れた。

名を呼ばれ、顔を向けたイルカを、カカシの色違いの瞳が真っ直ぐに見返した。

その瞳に浮かぶ明確な意図に、イルカの心臓が跳ね上がった。あっという間に鼓動が全身に広がり、二人きりの部屋の気温が上がった気さえした。

目を伏せたイルカの耳に、先ほどまでとは色を変えたカカシの声が忍び込んだ。

「こっちおいで」

その低い囁きが、蕩けるように甘い時間が始まる合図だった。

旧校舎のあの部屋で初めて体を繋げてから、カカシは日を空けずイルカの部屋を訪ねてくるようになった。

イルカの作った食事を向かい合って取り、風呂を使い、寝床を分け合う。交わす会話は出会ってすぐの頃のような居心地の良いもので、穏やかな時間がゆっくりと流れてゆく。

そして、こうして陥落させられる夜もあれば、ただ一緒に眠るだけの時もある。

ただ肉体だけの繋がりにしては、カカシはイルカの日常に深く入り込んできていた。

こういう関係を何と呼べばいいのか。イルカの中で、戸惑いだけが大きくなってゆく。

俯いたまま、わずかにカカシの方に体を向けただけのイルカに、カカシは苦笑したようだった。両膝の上で握っていたイルカの手を取り、ぐいと引き寄せる。崩れるような姿勢のまま、イルカは背中から両腕ごとカカシの胸に抱込まれた。

イルカの露わな耳と首筋に、唇が落ちた。舌と歯で、皮膚とその下の骨を柔らかく食んでゆく。カカシが触れる度、イルカは息を呑んで小さく体を震わせた。

イルカの熱を掬い上げる為の、前戯ともいえない戯れ。身じろぎさえままならないきつい抱擁に、イルカは体内で湧き上がる疼きを逃がそうと、無意識に踵で畳を蹴った。

その不埒な唇がイルカの顔に降りてきた。髪の生え際から、瞼、頬、唇の端へと淡い水音でイルカを犯し、最後に薄く開いたイルカの口腔へ深く侵入した。

歯列をなぞられ、舌を絡め取られ、イルカの口元から、飲み込む間さえ与えられない唾液が伝い落ちた。

ようやくカカシの腕から開放された時には、イルカは己の体温に火傷しそうな程高められていた。

「あの・・・風呂に」

なけなしの抵抗を、後で一緒に入りましょう、と一蹴され、イルカは抱き上げられるように寝室へと連れて行かれた。

初めての時の手荒さが嘘のように、カカシは優しかった。

イルカが快楽を手放さないよう濃密な愛撫を施し、己の欲をイルカに埋める時も、羞恥に震えるイルカの体を開き、指と舌で時間をかけて丁寧に解した。

大切にされていると錯覚してしまいそうなその細やかさに、イルカは絶望した。

イルカの前で泣いたあの女の気持ちが今なら分かる。

他の人にも、そんな顔を見せるのか。他の女も、こんな風に抱くのか。

苦しい。独占欲が身を焦がした。

他の誰にも渡したくないのに。その望みそのものが、カカシを己から遠ざける。

カカシを失いたくないのなら、決して本当の心を知られてはならない。

そしてイルカは、今日も言葉を飲み込んだまま、ただ身体の歓喜に溺れた。

零れる涙だけが、イルカがカカシに伝えられるすべてだった。

 

 

 

風邪をひいたのかもしれない。

イルカは洗面台の鏡を見ながら思った。青白い顔の自分が、生気の無い目で見返してくる。

最近食欲が湧かない。腹に水分しかいれていないのに、嘔吐感が胸にわだかまっている。兵糧丸で体力は賄ってはいるが、体調を戻すには足りない。

明日、休み貰っておいてよかった。

受付所の混雑が、ここまで伝わってくる。受付の業務は後2時間、吐き気も我慢できない程ではない。イルカはもう一度顔を洗って業務に戻った。

今日は、カカシの里外任務の帰還予定日だった。Bランクの、危険は低いが手間がかかる任務で3日間。夜には戻るはずだった。

カカシを想うと、胸の奥がさらに焼けるような気がした。

会いたい。けれど。

不安だった。何の約束もない。言葉もない。この不安定な関係は、カカシの気紛れ一つで簡単に崩れていってしまう。任務から帰ってきたカカシが、またイルカの部屋を訪れる保障などどこにもない。まして、カカシの行為に翻弄されるだけのイルカに、カカシを肉体的に満足させている自信などこれっぽっちもなかった。

繋ぎとめるものは何も無い。その頼りなさと、これほどまでに振り回される己の愚かさがイルカを苛んだ。

一日の繁忙時を過ぎ、窓の外に夜の気配が深まってきた頃、カカシは受付所に現れた。

「お疲れ様です、はたけ上忍」

その無事な様子に安堵のため息をつき、イルカは笑顔を見せた。

「ただいま、イルカ先生」

報告書を差し出したカカシは、どうしたの?と首を傾げた。

「何か、顔色悪いみたいだけど」

労りに胸が温かくなるのを感じながら、イルカは鼻の傷を掻いた。

「ちょっと体調が良くなくて。風邪ひいたのかもしれません」

カカシはイルカをじっと見つめながら、右手の手甲を外した。イルカの額宛を無造作にずらし、ひんやりとしたその白い手を、額にそっと当てた。

「あ、のっ」

人目を憚らないその行為と、覗き込んでくるカカシの瞳に、イルカの頬が熱くなった。

「ね、熱はないと思うんですけど」

焦りながら頭を後ろへ引いたイルカに、カカシが低く言った。

「風邪だって、本気で思ってるの?」

「え」

カカシは、口布越しにも分かる程盛大に溜め息をついた。

「・・・これも強情って言うのかねぇ」

そして、イルカの隣に座る職員に、

「この人、体調悪いみたいだから、早退ね」

勝手に承諾を取り付けた。

「カカシさんっ?」

人前では決して口にしない呼び名が零れた。慌てるイルカの眼前に、カカシの掌が迫ってきた。

「・・・全く、あなたには降参ですよ、イルカ先生」

その呆れたような声を聞いた瞬間、目を塞がれ、イルカの視界と意識が暗転した。

 

 

 

目を開くと、見知らぬ天井があった。

薄暗い部屋。イルカは、数度瞬いて意識を覚醒させた。体を包む布団の感触も、枕元のテーブルにも、壁の本棚にも、全く覚えが無かった。

「気がついた?」

首をめぐらせると、ベッドの脇にカカシが立っていた。

「・・・こ、こは」

「オレの部屋です」

イルカは慌てて体を起こそうとした。自分がどうしてここで眠っていたのか全く思い出せなかった。

「もう少し横になってなさい。ちょっと、術を使ったんで」

イルカの肩を抑えるようにして布団に戻したカカシは、そのままベッドの枕元に腰を下ろした。常夜灯が生んだカカシの影が、イルカの上に落ちた。

「気分は?」

イルカの額に手を当てて聞いた。

「・・・大丈夫、です」

ずっと続いていた嘔吐感はおさまっていた。

「オレがいない間、食べてなかったでしょ?」

淡々とした、事実の確認、といった口調につられ、イルカは頷いた。その瞬間、ぱん、と頬を叩かれた。

「あんたね、いい加減にしなさいよ」

カカシの手に力は篭っておらず、頬の痛みはすぐに消えた。だが、叩かれた事実と、カカシのきつい眼差しがイルカの心を突き刺した。どうしよう。怒らせた。しかも、どうしてカカシが怒っているのか、見当がつかなかった。

「言いなさい」

地を這うような声で、カカシは言った。

「ちゃんと、思ってる事オレに言いなさい」

イルカは必死に思考を巡らせた。

「ど・・・どうして・・・怒ってるんですか?」

「あなたが、怒らせるような事をするからですよ」

取り付く島が無い。イルカは唇を噛んだ。

ほんと参った、とカカシは再びため息をついた。イルカの頬を叩いた手が、今度は髪を掬うように撫でた。

「・・・オレが、悪いんでしょうねぇ、やっぱり」

呟くようにカカシは言った。

「・・・カカシさん?」

「あなたみたいな人は、きちんと手順を踏まないと駄目だと思ったんです」

イルカの訝しげな視線を、カカシは穏やかな眼差しで受け止めた。

「男同士だとか、階級差だとか、そんなどうでもいい事に拘りそうだったから。友人として親しくなって、めちゃくちゃに甘やかせて、オレがいなくちゃ駄目な位にしてから、恋人としての付き合いを申し込もうと思ってたんです」

カカシの言葉にイルカの思考が止まった。都合の良い聞き違いではないだろうか。

それなのに、とカカシは続けた。

「あなたは、からかってるだとか何だとか、よく分からない事でオレを拒もうとして。オレも、好いた相手にそんな理由で拒否されて、はいそうですか、って引き下がれる程出来た人間じゃないんで」

カカシの唇が、そっとイルカの瞼に降りてきた。

「頭に血が上って、実力行使を」

あの夜はごめんなさい、とカカシは囁いた。

「カ、カシさん」

「何?」

呼吸が触れ合う距離から見つめてくる瞳に、イルカは堪らず目を伏せた。まだ、信じられない。現実感がない。

「そのまま恋人の座に収まったつもりでいたんですが」

カカシの甘い声が耳に吹き込まれた。

「今度はあなたは泣くばっかりで、本当の事を何にも言ってくれない」

イルカは慌ててカカシを見上げた。カカシは困ったように眉を寄せて笑った。

「あなたは、本当に面倒臭い」

「カカシさん、俺は・・・」

想いを知られてれはいけないと、ずっと思っていた。

「あなたの事、大切にしてるつもりだったんですけど、伝わってませんでしたか?」

「・・・誰にでも、ああなのかと思ってました」

カカシは小さく噴出した。

「オレを、どんな博愛主義者だと思ってるんですか」

「でも・・・あなたは誰にでも優しくて・・・」

イルカは小さく呟いた。

「優しいくせに、誰のものにもならないと・・・」

優しいの意味が正反対に違うんですけどね、とカカシは言った。

「最初にちゃんと言えばよかったんですが。オレも、あなたに大概振り回されて、ちょっと意地になってたんです。情の深いあなたが、自分から落ちてくるように仕向ける自信もありましたし。でもまさか、あなたがここまで強情で、無茶な人だとは思いませんでした」

カカシはイルカの額に口付けてから体を起こした。

「オレに言いたい事があるんでしょ?イルカ先生」

イルカも上半身を起こして、カカシと向き合った。

「ずっと我慢して飲み込んで、ストレスで体が悲鳴を上げてるのをねじ伏せて。それを風邪ひいただなんてオレを怒らせて。それ位、言いたくて仕方ない事があるんでしょ?」

並ぶ高さにあるカカシの眼差しの意味が、自分と同じだという事を、イルカは震えるような喜びの中で知った。

「あなたの過去も、今も未来も、オレが全部面倒見るから。これからのオレには、あなただけだから」

そのカカシの言葉が。

「一生、オレだけのものになってなさい」

どれほどの幸福をもたらすか。

ずっと、胸の奥に隠していた想いが、堰を切ったように溢れ出した。

「好き・・・です、カカシさん」

「知ってましたよ」

両手で頬を包み込まれた。

「好き・・・カカシさんが、好き・・・」

「やっと、言ってくれた」

微笑むカカシが揺れた。伝えたい言葉が、涙に形を変えて、イルカの瞳を濡らした。

「あなたは、すぐに泣く」

カカシはいとおしげに言い、その涙に口付けた。

「カカシさんの、せいですよ」

イルカは笑った。

「どうして泣くの?」

カカシの囁きに、イルカは答えた。

「嬉しいから」

あなたに求められて、あなたに応えられて、嬉しいから。

あなたが好きだから。

だから俺は、この甘い甘い涙を流すのです。

 

 

 

完(05.07.28〜05.12.12)

 

 

 

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