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6. 高い天井だ、と思った。 居住性より耐久性を優先して建てられたような建物の、中庭に面した廊下を奥へと進むと、板張りの廊下は、歩を進める度に微かに軋む音をたてた。 左側に連なる腰高窓の向こうでは、煙るような雨が音もなく降っている。どこで咲いているのか、沈丁花の清らかな香りが、湿度を含んだ空気を鮮やかに染めていた。 右手の塗り壁には、等間隔で木製のドアが並んでいた。それぞれに、部屋番号らしい小さなプレートが掛かっている。この建物に居住しているはずの人間の数を考えれば、感じ取れる気配がほんのわずかなのが、意外なようにも当然のようにも思えた。 自分が緊張しているのを感じて、俺は大きく息をついた。こういう施設特有の、清潔なくせにどこか停滞した、倦んだような気配が、心にひっそりと忍び込んでくるようだった。 廊下の突き当たりまで来て、先を歩いていた看護忍のくノ一が振り返った。 「こちらです」 奥のドアを指し示した。 「お帰りの際は、受付に一言仰って下さいね」 立ち去る彼女の背中が廊下の角に消えてから、ドアをノックしようと手を上げた俺は、ふと窓の外に視線を投げた。 丁度、この建物の敷地に入るためにくぐる、小さな白い門が見えた。 雨に濡れたそれは、木製の、単なる門にしか過ぎないのだが、もうこちら側にしか住まえない者と、まだあちら側で生きてゆく者とを、厳然と隔てているのだと思わせた。 火影様直轄の療養所。 街の中心から西へ遠く離れたここは、周囲を小高い丘と雑木林に囲まれ、他とは時間の流れさえ違っているような、穏やかな静寂の中にあった。 「久しぶり〜」 そう広くない室内、ドアの正面の、窓がある壁に沿うように置かれたベッドの上で、ムハクさんが笑った。 「・・・お久しぶりです」 俺は頭を下げて、ベッドの脇に歩み寄った。半身を起こしてベッドヘッドに凭れるようにしたムハクさんの、記憶の中と変わらぬ顔色と体つきに、知らず安堵の息が零れた。 「あ〜あ、ついに見つかっちゃった」 まるで、かくれんぼをする子供が、鬼に見つけられた時のような声音で言うから、張っていた気がするりと緩んでしまった。病の床にあっても、彼の奔放で幼さの残る性情は何も損なわれていないように思えた。 「おれがここにいるって、誰に聞いたの?」 俺は軽く聞こえるように言った。 「ある資料に、目を通す機会があったので」 ムハクさんはふ、と目を細めた。 「木の葉崩しに紛れた越権行為?そこまでして探してくれたの?嬉しいね」 その小憎らしい程無邪気な笑顔に、俺はついため息をついた。 「・・・酷いセクハラは受けるし、アカデミーのPTAから綱手様に、教師適性の意見書出されるし。あなたのお陰で、危うく失業するところでしたから。一言文句を言わないと気が済まなくて」 ムハクさんはにやりと笑みを深くした。 「それって、おれのせいなの?」 「違うんですか?」 「おれの仕業だって、証拠があるの?今のおれは、可哀想にベッドに縛り付けられて、庭の散歩も碌にできないんだよ」 空々しいしらばくれ方に、もうため息も出てこなかった。 「・・・もう、いいですよ。過ぎた事ことですし」 「やな言い方〜」 言葉の内容とは裏腹に、ムハクさんは心底楽しそうな口調で言った。 「いいじゃない。失業したらしたで、おれがちゃんと面倒見てあげるからさ」 「もし失業しても、病身の人間に縋るつもりは毛頭ありませんよ」 言い返してからふと思った。 「・・・まさか、本気でそれを狙ってた訳じゃないですよね?」 「だから、おれがやったって証拠はどこにあるのよ?」 やはり埒が明かない。そのにやにや笑いを睨みつけてから、俺は一度窓の外に視線を移した。雨に濡れる窓ガラスが、花壇と植え込みで設えた庭の風景を、ぼんやりと滲ませていた。 聞きたい事があった。 「・・・どうして、俺と会う気になったんですか?」 視線を戻すと、ムハクさんの見上げてくる眼差しとぶつかった。 「あの張り紙は、そういう意味だったんでしょう?少なくとも俺は、そうだと思って、ここに来たんです」 今度は彼も否定しなかった。 半年前のあの夜、吐血し、ぐったりとしたムハクさんを、俺は木の葉病院に運び込んだ。受付の看護忍に名前と症状を伝えると、すぐにムハクさんの主治医だという年配の医療忍が現れた。彼は、だから言わんこっちゃない、と苛立ったように呟き、俺には帰宅するよう指示して、一般の診察室ではない病院の奥へとムハクさんを運んで行った。 翌日、ムハクさんを訪ねて木の葉病院へ向かった俺は、その主治医から、任務に出るので暫く会えない、とのムハクさんの伝言を受け取った。あの体でそんなはずがない、と俺は主治医に食って掛かったが、上階級の者の行動に下級者が異論を挟む権利は無い、と厳とした態度で突っぱねられた。 受付で依頼指示書を確認したが、案の定そこにムハクさんの名は無かった。病んだ体に火影直下の命が下るとも思えない。だが、元暗部で特別上忍のムハクさんの情報は、機密レベル壱で厳重に保護され、俺の階級で手に入れることは不可能に近かった。 以来、ムハクさんは、俺の前からふつりと姿を消した。 彼の行方はおろか、生死さえ判然としない状況は、そうしたいと望む意思が働いているからだろうと推測できた。だが、それがムハクさん個人の希望なのか、里の意向なのかまでは、俺には判らなかった。 毎日のように通っていた彼の部屋は、荷物がいつの間にか片付けられ、玄関の鍵も取り替えられていた。不吉な予感に胸が塞がるような気がしたが、死亡者のリストに彼の名が載る事はなかった。 日々は過ぎても、ムハクさんの存在は、刺さった棘のように俺の心に留まり続けていた。 もう一度だけでも、会いたいと思っていた。 だが、彼が意図的に俺の前から姿を消したのなら、行方を探す行為すら、俺の傲慢のように思えた。木の葉崩しによる混乱の中で、偶然、この療養所の極秘データの中に彼の名を見つけても、俺はすぐにここを訪れる事ができなかった。 もしかしたら、俺はただ、怖かっただけかもしれない。 彼に会うことは、自分の狡さと向き合うことだった。 「・・・おれに会えなくて、寂しかった?」 相変わらず臆面無く、ムハクさんが言った。俺は思わず苦笑した。 「ま、アンタにだけは、あれ以上格好悪いとこ見せたくなかったんだよね」 そう呟いて、ムハクさんは、ふいと窓の外に視線を移した。 「もうすぐ、おれはここを出る」 たた、と雨垂れが窓ガラスを叩いた。 「遠い所へ行く事になる。・・・暫くアンタに会えなくなる。だから、今のうちにって思ってね」 淡々と言うその横顔に、胸を突かれる気持ちがした。この療養所は、怪我や病で忍としての死を迎えた者が、生の終わりを待つ為の施設だった。一度ここに居を移した者が、自分の足で立ってここを出て行く事は本当に稀だと聞いていた。 「・・・体は?」 ムハクさんは、に、と笑みを浮かべた。 「おれ、アンタのそう言う顔大好き。アンタに心配して貰うの、すごく好き」 そうやって、はぐらかすような答えをする理由を思うと、胸に重石が乗せられたような気がした。 俺の表情を見たムハクさんは、死にやしないよ、と笑った。 「おれは、忍としてしか生きていたくない」 その声は静かだった。 「今まで、数え切れない命を奪って、数え切れない絆を切ってきた。おれが断ち切った絆が、おれが殺した命を探しながら、まるで溶けるように消えていくのを嫌というほど見てきた。任務という名でおれが犯した業は、今更償いようが無いほど深い」 彼にしか見えない哀しみ。彼にしか聞こえない怨嗟。忍として抜きん出た者が背負う苦しみは、きっと、カカシさんも同じものを知っていると思った。 「・・・でも、おれには、これしか生きてゆく道がない。おれはこうでしか在り得ない。だから、ただ生き長らえる為に里で治療を受けるより、命果てる最後の瞬間まで戦場に立っていたい。ずっと、そう思ってた」 性とも宿命とも言えるその願いは、純粋すぎて悲しかった。 「でも、今は、1分1秒でも、長く生きたいって思ってる。だから、こんな所で寝転がってる・・・アンタのせいだよ」 「・・・俺?」 ムハクさんは、濁りのない笑顔を浮かべて俺を見つめた。 「里中の人間が忌み嫌うあのガキを、全力で守ったその強さで、アンタに思って貰いたくなったんだ。一日の終わりに、アンタと二人で並んで家に帰って、アンタの作った飯を喰って、くだらない話をする。そういう風に生きていってもいいよって、他の誰に許されなくてもいい、アンタに、許して貰いたくなったんだ」 胸の痛みが堪らなくて、俺は両手を握り締めた。 「どうして、俺なんですか?・・・俺は」 「人を好きになるのに、理由なんてないでしょ?」 途方に暮れたような気持ちがした。俺は足元の床を見つめた。 「俺には・・・分りません」 俺は、彼に何ができると思っていたのだろう。 彼が求める形で応える事ができないのに、彼の何を受け止めたつもりでいたのだろう。その傲慢さが、どれ程彼を傷つけていたのか知りもせず、知ろうともしていなかった。 ずっと後悔していた。彼に、謝りたかった。 「ムハクさん、俺は、あなたに・・・」 「言わないで」 俺の言葉を遮って、ムハクさんは、切なくなる程穏やかな声で言った。 「おれは謝罪なんていらない。嘘もいらない。欲しいのはアンタの心だけ」 叫び出しそうな気持ちが湧いた。罪悪感を感じる事さえ、傲慢だと思うけれど。 「・・・俺はあなたに、何もしていない。してあげられない」 「側にいてくれたでしょ?」 でも、それは。 「何でもいいよ。少なくとも、おれといる時のアンタは、おれの事を考えてくれてた。おれには、分るから」 俺を宥めるように、ムハクさんは言った。 「おれは死なない。そして、諦めない。どこにいようと、どうあろうと、おれはアンタを想ってる。おれの赤い糸は、確かに、アンタに繋がってるんだから」 彼の眼は、まっすぐ俺の胸を見つめていた。 その瞳に映しているものを、俺は生涯見る事ができない。だが彼が、俺の為に紡いだ言葉の糸は、俺の心に絡みついて、きっと一生消えずに残るはずだ。 その繋がりを、一体どんな名前で呼べばよいのだろう。 「ねぇ。カカシより先に、おれがアンタと出会ってたら、アンタ、おれの事好きになってくれてた?」 分からない。だが、そんな仮定に意味がないことは、お互いに知っていた。 「おれにしときなよ」 もう一度、ムハクさんは言った。俺は、首を横に振った。 「・・・ま、それでこそアンタだね」 どこか嬉しそうな様子で、ムハクさんは肩を竦めた。 まるで止まっていた時間が動き出したかのように、窓の向こうで降る雨音が、忍び込むように耳に戻ってきた。 ムハクさんは居住まいを正すように座り直し、俺に右手を差し出した。意図が分からず首を傾げると、握手、と微笑まれた。 少し意外に思いながらその手を握った途端、強く引っ張られ、俺はムハクさんの体の上に倒れ込みそうになった。肩をぐいと押さえ込まれ、あろう事か、耳にぱくりと噛みつかれた。 「ぎゃっ」 飛び退って耳を押さえた俺の顔を見て、ムハクさんはげらげらと声を上げて笑った。 「なーに、その色気ない反応」 「色気って・・・」 睨みつけると、減るもんじゃなしいいじゃない、と平然とのたまった。畜生。油断した。 「ま、餞別代りにね〜」 そう言って、ちらりと窓の外に視線を投げたムハクさんは、過保護な事で、と小さく舌打ちした。 「はい?」 「もう帰りな」 「え・・・あ、はい」 唐突な言葉に、戸惑いながらも俺は頷いた。 「おれもまだ本調子じゃないからね〜。今本気でやりあったら、流石に死んじゃうよ」 じゃあね、と手を振る様子は、まるで、また明日も会えるかのように屈託がなかった。 「ま、カカシに愛想が尽きたらいつでもおいで」 ずっと待ってる。 永遠をさらりと誓う彼の笑顔が、俺の心に染みるように残った。 建物から庭に出て、門に近づくにつれ、沈丁花の香りが増すような気がした。 周囲を見回すが、その白い花弁はどこにも見当たらない。何となく残念な気持ちになりながら、俺は門をくぐった。 門の両脇から、敷地を囲むように低い生垣が始まっている。その前に黒い傘が蹲っているのを見つけ、俺は思わずため息をついた。 「一人で行きますって、俺言いませんでしたっけ」 言いました、と黒い傘を差したカカシさんは、しゃがみこんでいた姿勢から立ち上がった。 「でも、いくら恋人のお願いでも、聞ける事と聞けない事がありますから」 心配だったのだろうと理解はできたが、意思を軽んじられたようでやはり気に食わない。俺は黙って歩き出した。 「オレのどこがいいの」 背中に掛けられた低い声に、振り返った。 「え?」 「オレもムハクも、碌でもない所は大差ないよ。何で、オレなの?」 傘の影になっていても、カカシさんが刺すような眼差しで俺を見ているのが分かった。 常識や経験やその他諸々を飛び越えて、たった一瞬で恋に落ちた相手。額宛と口布に隠れた端整な外見も、温和で寂しがり屋な内面も、全部後から知った事だ。 「さぁ?」 俺は彼の前に引き返した。 「人を好きになるのに理由なんてないでしょう?」 受け売りのようで癪だが、これ以外に言い様がなかった。 「あなただ、って思ってしまったんですから、仕方ないですよ」 「・・・仕方ない、ですか?」 傷ついたような口調で、カカシさんは呟いた。 「はい。仕方ないんです」 俺は、自分の傘を畳んで、カカシさんの間近に寄った。 「あなたを好きだと言う気持ちは、もう、俺の意思ではどうしようもないんです」 もし、運命の赤い糸なるものがあるとして、互いの糸が別の誰かと繋がっていたとしても、俺の心は、カカシさんとしか結ばれたくないと願っている。 だったらそれが、俺にとっての運命だ。 ほんの少しだけ上にあるその右目を覗き込むようにすると、カカシさんは驚いたように二、三度瞬きをして、それから、ついと横を向いた。 「どうして、今、そういう事言うんですか」 がりがりと首の後ろを掻く仕草は、照れているときの癖だ。これも、最近知った。俺はつい笑ってしまった。 「あなたが聞いたんでしょう?」 「そうですけど」 不埒な気分になるじゃないですか、と耳元で囁かれ、腰に回された腕に抱き寄せられた。 「・・・これから任務じゃないんですか?」 外で抱き合う趣味はない。身を捩れば、じゃあ、今はこれで我慢、と唇についばむように口付けられた。 気がつけば雨が上がっていた。 俺は、カカシさんの手から傘を受け取って畳んだ。 「任務、お気をつけて」 「はい」 「お戻りを、お待ちしています」 「帰ったら、さっき喜ばせてくれたお礼を、一晩かけてさせて頂きますから」 小さく印を切ったカカシさんは、とんでもない言葉と右目の微笑みを残して、文字通り俺の前から姿を消した。 失敗したのかもしれない。俺は呆然と思った。平素は穏やかで優しい男の癖に、閨の中では随分と意地が悪くなると、昨夜も散々思い知らされたはずなのに。 ため息をついて、俺は、ポケットから懐中時計を取り出した。 昼の1時から夜の9時まで、受付のシフトが入っている。今日も、きっと、目が回る程忙しくなるはずだ。 見上げると、雲間から、青い空が覗いていた。 日差しの差し込むその方角へ向かって、俺は、歩き出した。 完(05.09.06〜06.03.25) |
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