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1. 「こっちです」 さり気なく、手を握られた。 つい、と引かれ、歩き出した。 「ユキトさん」 イルカの呼び掛けに振り返った青年の微笑みは、随分と落ち着いて見えたが、その耳は仄かに赤く染まっていた。 「すぐ、ですから」 そう言って、ユキトはイルカの手を強く握り直した。 近隣諸国では随一の賑わいと謳われる火の国の歓楽街は、間もなく日没を迎える時刻だった。 通りに沿って並ぶ街灯と、両脇に軒を連ねる店々の明かりが、行き交う人々で混雑し始めた大通りを昼と変わらぬ明るさで照らしていた。威勢の良い呼び込みが、通りのあちこちで上がっている。着飾った女達の艶めいた視線と、財布を膨らませた男達の胴間声、様々な欲を孕んだ熱気が、今夜も高揚と猥雑で街を賑やかに彩った。 イルカの手を引いて人波を縫うように進むユキトの肩は、イルカより少し下にあった。軽く癖がついた濃紺の髪を後ろに流し、露になった綺麗な額の下に、形の良い眉と切れ長の瞳が納まっている。聡明さを窺わせる端正な顔立ちは、20歳という年齢の割には大人びて見え、細身で均整のとれた体つきを銘仙の白い飛白で包んだ様は、すれ違う女性達が振り返って目で追う程際立って映った。 「あれは?」 大通りの突き当たりに建つ瓦葺の大きな屋敷を指差し、イルカは言った。 「陽華楼です」 ユキトは前を向いたまま答えた。イルカは、あれが、と視線を楼に向けた。 「火の国一番の遊郭ですね。噂にはよく聞きます。あそこの太夫は、そこらのお大尽では着物の裾を拝む事すら叶わないとか」 「・・・興味ありますか?」 ユキトの、どこか不貞腐れたような眼差しを受け止め、イルカは、いいえ、と小さく笑って首を振った。 大通りから細い路地を1本抜けると、足元が石畳に変わった。歩を進める度に大通りの喧騒が遠くなり、猥雑で賑やかだった歓楽街の風景が、庭付きの屋敷が建ち並ぶ閑静な並木通りへと変貌した。 人通りもぐっと少なくなった路地で、菖蒲の絵を写した提灯を下げた、男女二人とすれ違ったが、ユキトは繋いだイルカの手を離さなかった。 吹く夜風が、初夏の爽やかな気配を含んでイルカの黒髪を揺らした。 「印象が、違いますよね」 不意に聞こえたユキトの言葉の意味を捉えかね、イルカは首を傾げた。 「髪。いつもみたいに、項でゆるく結わえてるのも似合ってますけど。今日、髪を下ろしたイルカさんを初めて見た時は、ちょっと驚きました」 「どういう意味ですか?」 イルカの問いかけに、ユキトはにこりと笑みを返しただけだった。 通りの一角、丁寧に刈り込まれた生垣が囲む平屋の建物に、ユキトはイルカを導いた。その門構えは小振りながら重々しい格式を感じさせ、両脇に低い植木を配した飛び石を進んで、玄関を開くと、いらっしゃいませ、と女将らしき女性が三つ指をついて出迎えた。 清々しく磨き上げられた檜の廊下を、先導に従って進んだ。母屋を抜け、小さな池に架かった朱塗りの橋を越えて、二人は小さな離れへと案内された。庭を眺められるよう斜向かいに用意された席に腰を下ろすと、まるで薫るように心地の良い風が通った。 早速、涼しげな細工が施されたガラスのデカンタと小さなグラス、浅鉢に乗った先付が運ばれてきた。 「あの、ユキトさん」 上座に座らされ、居心地悪げに視線を彷徨わせたイルカに、ユキトは、どうぞ一献、と差し出した。 「家族で、懇意にさせて貰っている店なんです。堅苦しく考えないで下さい」 「でも・・・」 その時、廊下側の障子の向こうから、遠慮がちな声が掛かった。 「ようこそお越し下さいました。料理長のサガミでございます」 短く刈り込んだ頭と、頬に刻まれた皺が印象的な男が、腰を低くしたまま部屋に入ってきた。入り口付近で正座し、実直に頭を下げた。 「いつもお世話になっています」 ユキトも合わせて軽く会釈した。 「今日は、この人に、美味しいものを食べさせてあげたくて」 「ありがとうございます。腕によりをかけさせて頂きます」 料理長が下がったのを確認して、イルカは、申し訳ないですが、と低く言った。 「とても、俺のような一介の教師が食事をする場所ではないようです」 失礼します、と一礼して腰を浮かせると、 「待って下さい」 ユキトは、慌てた様子でイルカの腕を掴んだ。 「僕が、あなたにここの料理を食べて貰いたくて、連れてきたんですから」 「お気持ちは有難いんですが、あなたにこんな好意を頂く謂れはありません」 丁寧だが取り付く島のないイルカの言い様に、ユキトは頬を青褪めさせた。 「ごめんなさい」 切実な声でユキトは頭を下げた。 「イルカさんの喜ぶ顔が見たくて、自分勝手な事をしました。不愉快にさせるつもりはなかったんです。ごめんなさい」 立ち上がりかけた姿勢のまま、じっとユキトを見つめていたイルカは、自分の腕を掴んだままの彼の指に、そっと自分の手を重ねた。 「・・・謝らないで下さい。責めている訳ではありませんから」 柔らかい声に、ユキトは弾かれたように顔を上げた。さっと染まったその頬を覗き込むようにして、イルカは微笑んだ。 「俺も大人気無いですね。折角、ユキトさんが、俺の為に用意してくれたのに」 そんな事、とユキトは首を振った。イルカは、ユキトの手を包み込むように取って、グラスを握らせた。 「・・・甘えさせて、頂こうかな」 囁くように言うと、ユキトは、一度畳に落とした視線を、真っ直ぐイルカに向けた。 「僕は、イルカさんと一緒にいられたら、それだけでいいんです」 その言葉に、イルカはただ、小さな笑みを返した。 庭を渡る風が冷気を纏い始めた。 八寸が運ばれたのを機に、イルカは庭側の障子を閉め、そのまま渡り廊下の取っ付きにある厠に立った。 時刻は夜の8時を回っている。歯切れのよい三味線の音と張りのある女性の歌声が、別の座敷から漏れ聞こえてくる他は、庭にも廊下にも人の気配は無かった。 洗面台で手を洗い、顔を上げて、イルカは鏡の中の自分に視線を向けた。 二人で3合空けた。そろそろ、少し、酔うか。 次の店を断る理由になる程度には酔っ払い、尚且つ、宿まで送って行くという申し出を遠慮できる程度には醒めている。そうユキトの目に映るよう、高揚すら感じない酒量から徐々にコントロールしてゆく。 酒に弱いと思わせたほうがいい。後の事を考え合わせても。 そう、暗い気持ちで思った瞬間だった。 イルカの首の後ろを、殺気に似た気配が掠めた。体勢を整える間もなく、息が詰まる程の圧迫感が背中を押した。 「――――――」 思わず正面の壁に手をついた。振り返ることもできないまま、ぞっと総毛立った全身の感覚を研ぎ澄まし、イルカは背後の気配を探った。 その耳に、まるで風のそよぎのような声が聞こえた。 「首尾は、どうですか?」 言葉と同時に、背中の圧力は消えた。聞き知った声に、イルカは小さく息をついて体を起こした。 もし、彼が敵だったなら、恐らく先の瞬間に殺されていた。上忍と中忍の間に横たわる、如何ともし難い力の差を思い知らされたような気がして、イルカは奥歯を噛み締めた。 「・・・明日、屋敷に招待されました。夕方の6時に向かいます」 振り返らず、鏡の中の自分に向かって、口の中だけで呟いた。ユキトの、両目を弓なりに細めた嬉しそうな表情が脳裏を掠め、じく、と心臓が疼いた。 「さすが。子供を手懐けるのはお手のものですね」 小馬鹿にしたような口調が、イルカのざらついた心を擦った。ずっと抱えている鬱屈が口から零れそうになり、代わりにイルカは、鏡に映る自分の背後の薄闇を睨みつけた。 姿は見えない。だが、木の葉の誇る銀色の髪の上忍は、確かにそこに立っていた。 「・・・褒めてるんですけどね、一応」 溜息交じりの声は、呆れているようにも聞こえた。 「ま、年齢的には立派な大人なんですから、遠慮することないでしょ」 「・・・どういう意味ですか?」 気配が揺れた。笑われたのだと分かった。 「まさか今更、やらせるのが嫌だなんて、小娘みたいなこと言うつもり?」 「・・・っ」 堪らなくなって振り返った。が、背後の狭い空間は、仄かな灯りの下、殺伐と乾いた気配が微かに漂うばかりだった。 「取りあえず、あんたの働きに期待はしてますんで。イルカ先生」 空気が揺らめき、すうと消えた声に、イルカは唇を噛んだ。 畜生。 そう言葉にすることさえ悔しかった。だからあんたは甘いんですよ、と嘲笑う声が聞こえてくるようだった。 迷っているつもりなどない。ただ、できる限り、あの心根の真っ直ぐな優しい子を傷つけたくない。 だが、そう願うことすらあの男は、安易な甘さだと切って捨てるだろう。命のやり取りから遠く離れ、内勤のぬるま湯に慣れきったアカデミー教師が、平和ボケした頭で考えそうな事だと。 任務に私情は挟まない。上官の命令は絶対。呪文のように自分に言い聞かせないと、あの上忍に対して危うく手が出そうになる。無論、簡単に殴らせてなどくれないだろうが、そんな不安定な自分自身が、イルカは嫌で仕方が無かった。 久しぶりに与えられた里外任務が、あんな男とのツーマンセルだなんて。 今更ながらにイルカは、遠く木の葉の里にいる三代目を恨んだ。 |
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