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終章 「運が良かった、と言うべきなんだよ」 綱手は、傍らに立つシズネに言った。 「確信はなかった。時間もなかった。だから、一か八か、賭けてみるしかなかったんだ」 二人は木の葉病院の一室にいた。 辺りはしんと静まり返っていたが、足音をたてぬまま廊下を行きかう看護忍の気配が、綱手の耳に微かに伝わってきた。 忙しない沈黙。それは、一般病棟とは階を隔てたこのフロアが、様々な意味で特に目の離せない患者が多く収容されているせいでもあった。 綱手の前のベッドには、白いシーツに埋もれるように、イルカが昏々と眠っていた。 「口寄せの術の、応用ですか」 答えを確かめるようなシズネの問いに、綱手は頷いた。 「四代目の死後、再び火影に就任した三代目は、時空を操る四代目の術を研究していた。火影の書庫に資料が残っていたのをお前も見ただろう」 「はい。膨大な量でした」 「元々四代目の術は、彼クラスの技能とチャクラを以って初めて扱う事ができる高度なものだ。三代目は、その原理を解析して、瞬身や口寄せのように一般的な術として汎用できないか模索していたんだ」 我が師ながら恐ろしい人だよ、と綱手は、昼下がりの日差しが満ちる窓の向こうへ目をやった。 「私は、うみのの封印を解くと同時に、三代目の研究を元に組み立てた口寄せの契約の印を、あいつの項に施した。・・・不安だったよ。時空を越えてうみのを呼び寄せることが本当にできるのか、正直言って自信が無かった。自分を卑下するつもりはないが、三代目の研究成果を、しかもまだ仮説の段階のものを引き継ぐのは、今の私ではまだまだ力不足だからね」 わが子同然の里の忍を、己の未熟で危険に晒したのではないかという苦悩が、綱手の眉間の皺を深くした。 「・・・でも、うみのさんは、帰ってきました」 シズネは、綱手の横顔に向けて微笑んだ。 「結果オーライ。それで、もう、いいじゃないですか、五代目」 慎重に、確実に、常に万全を期す事を心掛ける医療忍の中でも、特に責任感が強く堅実な性格のシズネが、敢えてそういう言い方をした。その気遣いと配慮に、一瞬目を見開いた綱手は、生意気だねぇ、と小さく笑った。 背後のドアが小さくノックされ、音もなく開いた。 「何だい?」 医療忍装束の若いくノ一が、室に入らないまま言った。 「五代目。118号の患者さんが目を覚ましました」 「分かった」 頷いた綱手は、ベッドで眠るイルカに視線を落とした。 カカシを失った絶望の中で、イルカが二度の時越えを行ったのは5日前の事だった。 イルカが再び眼前から消えた直後、綱手は床に巻物を広げ、イルカの項に施した契約印を頼りに彼を口寄せした。チャクラの残量を考えれば、イルカが自力で戻ってくるのは不可能に近かった。 お前まで失いたくない。焦燥の中で待つ時間は、綱手にとって恐ろしい程長いものだった。 そして、煙と共にイルカが綱手の元に現れた時、彼は既に意識を失い、肉体はこれ以上ない程衰弱しきっていた。術の成功を喜ぶより先に、綱手はイルカの命を繋ぎとめる治療へと取り掛かった。 今、ベッドで眠るイルカは、蝋のようだったその顔色に薄く血の気を取り戻していた。 浅かった呼吸も途切れそうだった脈も、普通に眠っている時と同じ程度に安定した。肉体に目立った外傷は無く、チャクラの量も順調に回復しつつあった。 そろそろ目覚めてもいい頃だと、綱手は診断を下していた。 「早く起きろ、うみの」 イルカの頬を、綱手はまるで母親のように優しく撫でた。 「現実は、辛い。だが、その苦しみを乗り越える強さがあるから、その強さを信じる誰かがいるから、人は幸せになれるんだ」 お前がナルトに教えた事だろう、と綱手は柔らかく微笑んだ。 「お前を待っている人間が大勢いる。早くそれを思い出して・・・ここへ戻って来い」 「お疲れ様」 振り返ると、燃え立つように赤い髪を垂らしたくノ一が、その美しい顔を夕日に輝かせながら立っていた。 「お疲れ様です」 イルカは軽く頭を下げ、後ろへ下がって場を譲った。 演習場近くの森の袂、里の方角を向いて立つ慰霊碑は、残照を浴びて、長い影を二人の足元へ伸ばしていた。 橙色の空を、鳴きながら群れ成して飛んでいるのは、ねぐらへ帰るカラス達だ。 里は今日も、平穏に夜を迎えようとしていた。 慰霊碑の前に腰を屈めたくノ一は、まるで話し掛けるように顔を寄せ、刻まれた名に指を這わせた。赤く長い髪が肩から零れ、その表情を隠した。 その細い背中にもう一度会釈し、イルカはその場を後にした。二人はこの場所で何度も顔を合わせていたが、くノ一もイルカも、挨拶以外の言葉を交わす事が無かった。 みるみる暮色を増す路を、里の中心に向かってイルカは歩いた。 木の葉病院で目覚めてから2週間。 渋い顔をする綱手を説き伏せて、イルカは十日前から受付の業務に復帰していた。体はまだ本調子に程遠かったが、里の事情を考えれば、立って動けるのにベッドでのうのうと寝て過ごす訳にはいかなかった。 イルカ自身はアカデミーへの復帰も望んだが、綱手は言下に一蹴した。 「ちゃんと寝て、しっかり栄養を摂って、この薬を必ず飲む。そうやってきちんと体を治したら、アカデミーでもどこでもこき使ってやるから」 アカデミーでの仕事が、周囲が思っている以上に激務である事と、イルカの性格上、子供達を何より優先して、自分の体調を疎かにする恐れがある事を見越しての判断だった。 里の商店街に入ったイルカは、夕餉の食材を買い求め、ビニール袋を下げたまま、脇の細い路地に入った。路地は迷路のようだったが、イルカは迷いなく進み、区画の角に立つ上忍用の宿舎の前に辿り着いた。 建物の前で足を止め、イルカはカーテンの引かれた3階の一室を見上げた。その窓は、灯り始めた街の明かりを薄く反射していたが、人影を映す気配は無かった。 イルカは小さくため息をついて視線を戻し、再び歩き出した。 退院後毎日続いていた病院通いも、もうすぐ終わる。 俯き加減に歩きながら、イルカは、無意識にこめかみを揉んだ。疲れが溜まりやすく、取れにくい。無理をするな、という綱手の声が脳裏をよぎり、イルカは小さく溜息をついた。 イルカの体調を慮って、昼間の勤務のみでシフトを組んでくれた同僚達は、今のイルカの何倍も働いている。彼らにこれ以上負担を強いる訳にはいかないと、気ばかりが焦っていた。 イルカが自宅のアパートに戻った頃には、辺りはすっかり夜を迎えていた。 外付けの階段を2階へと上ったイルカは、玄関ドアの横にある自室の窓へ目をやり、思わず息を飲んだ。 部屋の明かりが点いている。 慌てて玄関に駆け寄り、ドアを開けた。 「お帰りなさい」 狭い部屋、見慣れた台所の向こう、居間のちゃぶ台の脇に胡坐をかいて、カカシが笑っていた。 木の葉病院で目覚めた時、イルカはまだ、自分が12年前の過去にいるのだと思った。 まず目に入ったのは白い天井、白い壁。そして、脇の椅子に腰掛けたまま、自分が横たわるベッドにもたれるように、銀色の髪が突っ伏しているのを見つけた。 「・・・カカシ、さん?」 自分の声が恐ろしく掠れている事に驚きつつ、その肩が規則正しく上下しているのを見て、眠っているのだと得心した。 きっと彼が、病院まで運んでくれたのだ。 九尾との戦いで疲労し、師を失った悲しみを胸に抱えたまま、縋りつくイルカを気遣ってくれた少年。その優しさに甘えるのは許される事では無かったが、再び逢えて嬉しいと思う気持ちは抑えられなかった。 その柔らかい髪にもう一度触れたくて、イルカは左手を動かした。 瞬間、弾かれるように銀色の髪が揺れて、顔が上がった。 やつれた頬、白い肌は青く見えるほど色が無かった。イルカを捉えたその双眸が、みるみる大きく見開かれ、色の薄い唇が、戦慄くように震えた。 「イルカ・・・先生・・・」 ほろほろと、その瞳から涙が溢れ零れるのを、イルカは呆然と見ていた。 自分の名前が、その唇から紡がれた事が信じられなかった。 「カカシさん・・・?」 よく見れば、子供らしい丸さが削ぎ落とされた端正な顔立ちも、肩から腕にかけての筋肉の流れも、鍛え上げられた体の厚みも、少年のものとは全く違う。 それは確かに、イルカが命を掛けて焦がれ求めた男の姿だった。 どうして、という問いは、全身を突き上げる激情に飲み込まれた。 ただ、愛しくて。 ただ、触れたくて。 溢れる想いは声にさえできず、涙を拭う事も忘れた。震えながら起き上がり、まだ重く言う事を聞かない腕を、イルカは必死で伸ばした。 もう、離れたくない。 カカシは、イルカのすべてを自分の内に納めようとするかのように、その体をきつく、強く抱き締めた。 「人の生死を分けるものが何か、お前は分かるかい?」 綱手は、イルカに問い掛けた。 「たった一歩。僅か1ミリ。ほんの1秒。それだけの違いで、ある者は死に、ある者は生き残る。その残酷な線引きを、お前も経験として知っているだろう」 イルカは頷いた。戦忍だった過去、自分も、その生死の境界線上を幾度も彷徨い、手の中から零れていきそうな自分の命をかき集めるように戦場を生き残ってきた。 「生き残る者と、死にゆく者。両者の差は、一体どこにあると思う?」 暫く考えた後、イルカは答えた。 「・・・自分自身にあると、思いたいです」 イルカの言葉と眼差しを受け止めて、綱手は満足気に笑った。 早朝。二人きりの病室で、ベッドに体を起こしたイルカと綱手は向かい合っていた。 「未来は、人の選択の数だけある、と私は思うんだよ」 イルカを母親のように優しい目で見つめ、綱手は静かに言った。 「人の生き死にの理由なんざ、本当の所は誰にも分からないさ。でも、すべてを運命だと諦めるか、神様の気まぐれだと嘆くか、それとも、自分の選んだ結果だと受け入れるか。受け止める心一つで、そこには大きな違いが生まれると思うんだ」 シーツの上に乗せたイルカの手の上に、一筋、柔らかな光が差し込んだ。 窓の外、雲を白々と染めて、目覚めたばかりの太陽がその姿を見せた。 長い夜が、明けた。 「お前と私がやった事は、到底許される事じゃない」 里を照らし始めた朝日に目を細めて、綱手は言った。 「自然の摂理を曲げて、時の流れと、人一人の命を、己の欲の為に弄んだも同然だからね。将来、どんな弊害が起きるとも限らない」 「罪は、俺にあります」 己の封印を解くと決めた時に、すべてを背負う覚悟は決めていた。そう迷いなく言い切るイルカの決意と想いの一途さを眩しく思いながら、綱手は、でも、と言葉を続けた。 「きっと何度やり直しても、私は、お前達が、幸せに笑う未来を選択したいと思うんだ」 私は、木の葉の火影だからね。 そう言って、綱手は晴れやかな笑顔を見せた。 イルカを庇って負った背中の傷によって、死線を彷徨っていたカカシが、木の葉病院の一室で目を覚ましたのは、イルカが目覚める数日前だった。 意識を取り戻したカカシは、己の傷の痛みにも綱手の忠告にも構わず、眠るイルカの側から離れようとしなかった。 「・・・死にたくないって思ったんです」 腕の中のイルカに、カカシは言った。 「あなたを残してなんて死にたくなかった。命と引き換えに守るのではなく、あなたを守るために生き抜きたい。そう、思ったんです」 その思いに、どれほどの力があったのかは分からない。 ただ、カカシが背に受けた傷は、ほんの僅かだが、急所を外れていた。 カカシが倒れた事により、任務の全権を任された赤い髪のくノ一は、的確な指示で部隊を指揮し、無事、敵の本拠地を制圧することに成功していた。 その美しいくノ一が、数年前に亡くなった恋人をずっと想い続けている事を、イルカだけが知っていた。 「・・・カカシさんっ」 靴を脱ぐのももどかしく、イルカは部屋に上がり、カカシの前に膝をついた。 「何やってるんですか!退院は明後日でしょう?」 声を荒げるイルカを見上げ、カカシはにこりと笑った。 「待ちきれなくって、来ちゃいました」 「来ちゃいましたって・・・」 あっけらかんとした返答に、イルカはそのままがくりと畳へ座り込んだ。抜糸したばかりの背中の傷は、まだ安静を必要としているはずなのに。 「一応、綱手様には許可を貰ってますから」 「・・・どうせ事後承諾でしょう?」 宥めるような言葉に、じろりと睨み上げると、カカシは小さく肩をすくめた。 「本当に・・・あなたって人は」 溜息をついたイルカに、カカシは不満気に眉を上げた。 「イルカ先生が悪いんですよ。さっさと退院しちゃうから」 今度はイルカが眉を寄せた。 「どういう意味ですか?」 「入院中は任務も仕事も無いでしょ?病室を一緒にして貰って、日がな一日いちゃいちゃしてようと思ってたのに」 「―――この」 馬鹿、と怒鳴りかけたのを、冗談ですよ、と笑ってかわし、カカシは、イルカの腰にその長い腕を回した。 ぐいと強く引き寄せられ、イルカは倒れ込むように、カカシの胸に抱き込まれた。傷に触ると身をよじったが、甘い拘束は更に強まった。 「1分でも1秒でも早く、あなたに逢いたかったんです」 低く響く声が首筋を撫で、それだけで、疼くような痺れがイルカの背を駆け上った。 自分がどれだけカカシを求めていたか、イルカは改めて思い知った。 「・・・毎日、見舞いに行ってたでしょう?」 疼きに急かされるように、カカシの背に腕を回し、間近で瞬く濃灰の瞳を覗き込むと、 「こういう風には、逢ってくれなかったでしょ?ベッドの下で手を繋ぐだけなんて、生殺しもいいとこです」 蕩けるような非難の言葉と共に、カカシはイルカの唇を塞いだ。 ・・・温かい。 抱き合い、触れ合った部分から、カカシの体温がイルカに伝わってくる。 そしてイルカの体温も、カカシの体を、その想いの深さで包み、温めている。 それは、何物にも代える事のできない幸福。 生きている。カカシが生きて、ここにいる。 閉じたイルカの瞳から、一筋、涙が零れた。それが、悲しみではなく喜びの為である事が、堪らなく嬉しかった。 近いうちに、カカシにきちんと話をしよう。イルカは思った。 自分の能力の事。カカシを失った絶望の中で、自分が望み、行った事。その為に、変わってしまった過去と、現在の事。 勘の良いカカシは、イルカと綱手の様子から察するものがあるようだった。だが、自分からは何も言わず、イルカが自ら口を開くのをじっと待っていた。 その信頼を嬉しいとも、重い責を負わせてしまうかもしれない事を申し訳ないとも思う。 過去からの流れが変わったことで、きっと未来も姿を変える。イルカの行動が、この先どんな結末をもたらすか、それは誰にも分からない。 だが、どんな未来が待っていようとも、後悔する事は決してない。 今、目の前で笑うカカシの為に。 そして、彼を想う自分の為に。 イルカが取り戻し、カカシが選び取った未来は、これ以上ない確かさで以って、二人の前に続いていた。 完(05.12.03〜06.07.01) 40000万打キリリク、以上で完結です。 甲斐様、本当に、大変長らくお待たせしました(涙)。 こんな拙い作品ですが、どうぞ収めて下さいませ。 頂いたリクは、 死にネタっぽい始まり方や、仔カカなど、初挑戦ながら、楽しんで書かせて頂きました! 甲斐様、素敵なリクエスト、ありがとうございましたv |
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