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6. 「危なっかしいよ、あんた」 先刻、イルカの喉に刃を当てたその指で、カカシは、イルカの瞳からそっと涙を掬った。 「あんな無防備に。危うく、殺しちゃうところだったじゃない」 他里の間諜かと疑い、尖っていた声は、今は素直な労りを滲ませていた。咎めるというより言い聞かせるように、カカシはイルカの顔を覗き込んだ。 「・・・あなたになら」 カカシの指が、頬からほつれた髪へと流れるのを感じながら、イルカは言った。 「あなたになら、本望なんです。カカシさん」 イルカの言葉に、カカシは動きを止めた。眼差しに暗い痛みのような色を滲ませ、イルカをじっと見返した。 「どうして、あんたはそんな事言うの?」 「・・・・・・」 「オレはあんたを知らない。木の葉の人間なのかどうかも分からない。本当は・・・こんな風に近寄るべき相手じゃないなのかもしれない・・・でも・・・」 あんたの事が気になって仕方がない。 どうして、と投げかけられた問いに、イルカは答えることが出来なかった。カカシの声は、忍としての己と、自分自身の心の動きの間で戸惑っているようだった。 「それとも・・・死にたいの?」 言葉は、怯えたように聞こえた。 「あんたも・・・大事な誰かを亡くしたの?だから、死にたいの?」 震えを押し殺した声に、イルカは漸く思い至った。カカシも今夜、かけがえの無い師を失ったのだ。 「・・・ごめんなさい」 イルカは、カカシの髪に触れていた手を離し、きつく握り締めた。 何をやっているのか。深い自責の念が胸を塞いだ。 こんな子供に、しかも心に深い傷を負ったばかりの相手に縋りついて。剥き出しの恋情をぶつけて混乱させて。 本来なら、決して出会ってはいけない相手だった。イルカの感情に任せた言葉や行為は、幼いカカシを困惑させ、予測のつかない影響を与えかねない。 顔を上げ、イルカはカカシに謝罪した。 「本当に、ごめんなさい」 彼は、イルカが求めている男ではないのだ。 「あんたは謝ってばっかりだ」 カカシは苛立ったように答えた。 「その癖、肝心な事は何も教えてくれない・・・ほんと、ムカつく」 カカシのどこか拗ねた様な口調に、イルカの強張った心が、僅かにほぐれた。 10代のカカシが、こうして目前に生きている。 だが、イルカが心を捧げたはたけカカシという男は、永遠に失われた。その残酷な現実には、何も変わりがない。 ただ、出会えてよかったのだと思えることだけが救いだった。 「・・・死にたい訳では、ないんです」 イルカは、カカシの顔を見上げて言った。 「ただ、俺にとっては・・・あの人のいない世界には、もう意味がない」 カカシの目が僅かに細くなった。疲労に声を掠らせながら、イルカは言葉を続けた。 「・・・あの人は、俺を守る為に命を落としたんです。俺は・・・後悔しきれない程後悔して、自分が憎くて堪らなくて」 心臓を抉られるような胸の痛みに、イルカは堪らず瞼を閉じた。 「・・・あの人の命と引き換えのものなんて、俺は、何も欲しくなかった」 びり、とイルカを抱きとめるカカシの腕に力が入った。イルカは眼を開けた。 「大切な人を、命を懸けて守ろうとするのは、間違いなの?」 イルカを真っ直ぐに捕らえる眼差しは、刺す様に容赦がなかった。 「先生は、四代目火影として里の為に死んだ。それは・・・悲しい事じゃない。誇りだ。でもあんたは、里を守って死んだ先生を、間違ってたって言うの?」 まるで自分の心に刻み付けるような口調と、張り詰めた硬い表情が、イルカの胸を突いた。 「いいえ」 イルカは首を横に振った。 ただ、カカシに、知っていて欲しかった。 あなたがいるから、この世界に色があり、喜びがあり、幸せがある。 あなたがいるから、この世界に価値がある。 そういう相手だから、運命だと思った。 だからこそ。 「命と引き換えに守るのではなく、守るために生き抜く事を」 イルカは、精一杯の微笑みを浮かべてカカシを見つめた。 「庇われたいんじゃない。守られたいんじゃない。ただ、共にいたいだけなんです。・・・あなたが大人になって・・・大切な人ができた時に・・・それを、少しでも思い出して貰えたら」 「あんたの言ってる事は、綺麗事だ」 硬い表情のまま、吐き捨てるようにカカシは言った。 「他に、方法がない時だってある・・・今夜みたいに」 カカシは、睨みつけるように空を見上げた。数刻前まで、巨大な獣と多くの忍達の叫びが木霊していただろう夜空には、今はただ、月が静かに浮かんでいた。 「あんたは、そいつと一緒に死にたかったって言うの?そいつが自分の命と引き換えに守ったものを、いらないからって投げ捨てようとするの?」 「そうじゃ、なくて・・・」 もどかしい思いで言葉を続けようとしたイルカは、思わず咳き込んだ。 寒い。血の気がどんどん下がっていく感覚に、イルカは身震いした。体力が限界を迎えたことを感じた。 震えるイルカの額に手を当てたカカシは、微かに眉を寄せ、印を組み始めた。 「カカシさん・・・」 「じっとしてて」 イルカの視線に答えるように、カカシは小さく微笑もうとした。 「大丈夫。オレのうちへ連れて行くから。オレ以外誰もいない。だから心配しなくていい」 駄目だ。イルカは何とか首を振った。 「行き・・・たくないんです」 これ以上、誰かと接触する危険を犯す訳にはいかない。 「どうして?」 癇症な口調で言い、カカシはイルカを睨んだ。 「・・・死にたいって言うの?」 その視線は、すぐに伏せるように逸らされた。 「やっぱり、そいつの所へ行きたいって言うの?」 オレが、とカカシは口の中で呟き、言葉を飲み込むように唇を閉じた。そしてそのまま、無言で再び印を結び始めた。 「止めて、くださ」 声を振り絞って言いかけた瞬間だった。 疲労感とは別の、ぐ、と押しつぶされるような圧迫を、イルカは全身に感じた。 次に、内臓が後ろへ強く引っ張られるような感覚が襲ってきた。高所へ突き上げられるようなその体感は、確かに、時空の流れに乗る時に感じるものだった。 イルカは戸惑った。睡眠中に過去へ飛んだ幼い頃は別として、自分が意図せずに時を越えるのは初めての経験だった。 まるで異物を押し出すように、空間そのものがイルカに向かってぐんぐん幅を狭めてくるような気がした。 帰らなくてはならないのか。 次第に強くなる違和感に震えながら、イルカは、カカシの白い顔を見つめた。 カカシのいない世界へ、戻らなくてはならないのか。 そして、どこか晴れ晴れとした気持ちで思った。 もたないかもしれない。 連続で時を越えたイルカは、体内のチャクラを使い果たしていた。自分の腕さえ支えきれない現状では、元の時代へ戻るだけの体力があるとは到底思えなかった。 もたないならそれまでだ。イルカは薄く微笑んだ。 最後の時を、カカシの腕の中で過ごした。 だったら、もう、それだけでいい。 イルカの異変に気付いたカカシの両目が、驚きに大きく見開かれた。その表情が霞むようにぼやけ、月光を弾く銀色の髪が、残像のようにイルカの瞳の裏で瞬いた。 「待って」 切ない声が、耳に響いた。 「・・・どうか、元気で」 囁いた声は、果たして彼に届いたのかどうか。 イルカの意識は、そのまま吸い込まれるように暗く途切れた。 出会いは4月。 受付で受け取った報告書に、イルカははたけカカシの名を見つけた。 顔を上げ、その報告書を差し出した男を見た。額宛を斜めに巻いて左目を隠し、口布で顔の下半分を覆い、背中を丸めるようにして立つ男の様子は、里の誉れとして噂に聞く写輪眼のカカシのイメージとは遠くかけ離れていた。 正直、かなり胡散臭い。浮かんできた言葉を、イルカは礼儀でもって飲み込んだ。 本当は、子供達を、ナルトを頼むと一言伝えたかった。 既にイルカの手を離れ、カカシの部下となっている以上、僭越だと謗られる可能性は高かった。だが、誰にも負けぬ強い思いで忍への道を歩き始めたナルトを、偏見に濁らない目で育て導いて貰いたい、そう願わずにはいられなかった。 ナルト達の上忍師になるまで、1名の合格も出したことのなかった難関の下忍選抜試験官は、どこか呆然とした様子で、イルカを見下ろしていた。 「任務、お疲れ様です」 イルカが声を掛けると、我に返ったように、その右目が二、三度瞬いた。 「・・・つかぬ事を伺いますが」 報告書のチェック項目にペンを走らせ、確かに受け付けました、と自分のサインを入れたイルカに、カカシは話し掛けた。 「あなたに、お兄さんはいらっしゃいませんか?」 イルカはいいえ、と首を振った。 「俺・・・私は一人っ子です」 そうですか、と小さく言ったきり、カカシはそのまま考え込むように黙り込んだ。 イルカの前を無言で塞いだまま、なかなか動こうとしないカカシに、イルカは次第に焦り始めた。気がつかないうちに、何か粗相をしただろうか。 奥のソファーに陣取っていたアスマが、見兼ねて助け舟を出した。 「何だカカシ、よりによって受付でナンパか?」 がくり、とイルカは肩を落とした。出た舟がそれでは沈んでしまう。 煩いよ外野、と呟いたカカシは、がりがりと首の後ろを掻きながら、受付担当者の名を書いた壁のプレートへと視線を走らせた。 その右目が、僅かに見開かれた。戻ってきた視線が、まじまじとイルカを見つめた。 「あなたが、イルカ先生ですか」 どこか嬉しげな声で名を呼ばれ、イルカは戸惑いながらも、声を掛けるきっかけだと立ち上がった。 「ナルトの一番好きなものは、あなたにご馳走してもらう一楽のラーメンだそうですね」 そう言って、カカシはにこりと右目を細めた。 額宛と口布に隠れた表情が実際はどうなのか、はっきりとは分からなかった。 だが、イルカを見返す穏やかな色合いの眼差しと、ナルトの名を呼ぶその声音に、イルカの胸に安堵の思いが広がった。 この人なら、大丈夫だ。 ナルトの笑顔が脳裏をよぎり、イルカは深く頭を下げた。 「あいつらの事、どうかよろしくお願いします」 「はい。こちらこそ」 どこかとぼけたような返答に、イルカは肩から力が抜けたような気がした。 気がつくと、周囲が手を止めて事の成り行きを見守っていた。イルカは苦笑した。元暗部で、他国のビンゴブックに最高ランクで記載される写輪眼のカカシは、良い意味でも悪い意味でも、噂ばかりが先走っている感がある。内勤の中には、イルカ同様、最近まで外地での任務が殆どだったカカシの姿を、今日初めて見た者もいるはずだ。 「じゃあ、また。イルカ先生」 周りの注目など意に介した様子もなく、小さく頭を下げて、カカシはイルカに背を向けた。 2、3歩行きかけて、ふと顔だけイルカに戻し、 「私、じゃなくていいですから」 そのまま歩き出したその耳がやけに赤かった事を、イルカはずっと後になるまで鮮明に覚えていた。 「初恋だったんです」 出会ってからすぐに、カカシはイルカを夕餉に誘うようになった。 名高い上忍からの申し出に、当初イルカは随分困惑し、恐縮もした。だが、幾度か二人で酒を酌み交わすうちに、カカシが温厚な性格の、ごくごく普通の男で、余計な気遣いも遠慮も無用な相手だと自然に知ることとなった。 その日も、夕方の受付に現れたカカシと一緒に、行きつけの居酒屋に腰を落ち着けた。 「初恋、ですか?」 華やかな女性遍歴が人の噂に上るこの男に、その純情な響きは何となく似つかわしくなくて、イルカは、解しかけていた焼き魚からカカシへと目をやった。 カカシも流石に、食事をする時は口布を外していた。最初に見た時にはしばし見惚れてしまった程の男前は、例え1升空けたとしても殆ど変わらない白い頬を、ほんの僅かにだが上気させた。 「12年前の、九尾の厄災の夜に出会った人なんです。一緒にいられたのは、本当に短い時間だったんですが」 カカシは、手に持った猪口をすい、と空けた。 「・・・実は、知ってる人が物凄くよく似てて。その人に初めて会った時は、心臓が止まるかと思いました」 年齢が違うので本人ではないんです、とカカシはイルカの疑問に先回りするように言った。カカシの猪口に酒を注ぎながら、姉妹という訳じゃないんですか、とイルカが問うと、カカシは小さく笑って答えた。 「聞いてみたんですが、その人は一人っ子なんだそうです」 その、温かいものを含んだ優しい口調で、イルカは察した。 「カカシさんは、その人の事が、好きなんですね」 カカシは、一瞬息を詰めたような表情を浮かべ、それからがりがりと首の後ろを掻いた。それが、照れたり困ったりした時のカカシの癖だと、イルカは随分早いうちから気付いていた。 参ったな、と呟き、視線を伏せたカカシの顔を、イルカは覗き込んだ。 「その人の事が好きだけれど、カカシさんはまだ、その初恋の人が忘れられないと?」 酔いも手伝ったとはいえ、少々意地悪な質問だとは思った。だが、弱りきった様子で眉を寄せ、意外な程戸惑うカカシの様子は、イルカの眼に随分と好ましく映った。 自身の感情を制御し、表に現さない術に長けたカカシが見せる素の表情。イルカは、自分の胸が微かに疼いたように感じた。 「・・・多分、悔しかったっていうのが大きいんですよ」 やがてカカシは顔を上げ、ぽつりと言った。 「悔しかった、ですか?」 「その・・・初恋の人には、他に好きな人がいたんです」 カカシの声は何故か誇らし気だった。 「それこそ、自分の命を掛けて想う相手がいた。そして多分、オレはその相手に似ていた。だから、あの人は・・・」 ふと言葉を切ったカカシは、どこか遠い所を見るような目をした。 「・・・泣きながら縋ってくるあの人を腕に抱きながら、オレは結局何もできなかった。子供で、無力で、想う相手の代わりにもなれなかった自分が、心底悔しくて堪らなかったんです」 そう言って、カカシは眩しげに目を細めてイルカを見た。 「そういう意味で、オレは12年前に出会ったあの人の事を、生涯忘れることができないのかもしれません」 まるで、宝物の名を呼ぶような声で、カカシは言った。 少年のカカシに、恋という感情を教えた人。 カカシの心の一部を、永遠に奪っていってしまった人。 ぎり、と胸を締め付けたものが、嫉妬によく似ている気がして、イルカは自分自身に驚いた。これではまるで、カカシの何もかもを独占したがっているようではないか。 「・・・じゃあ、今、好きだと思っている人は?」 自分の心に生まれたものを振り払いたくて、イルカは再び意地の悪い質問を口にした。 「初恋の人の、身代わりですか?」 「まさか。違います」 カカシは、イルカが面食らう程きっぱりと否定した。 「確かに、初めて好きになった人に瓜二つだった事が、その人に興味を持ったきっかけではあります。それに、その人を好きになった理由も、自分でも正直よく分からない」 「・・・・・・」 「ただ、はっきりしているのは、例え姿がどうであっても、どんな出会い方をしたとしても、きっとオレは、恋におちていた」 カカシは、沁みとおるような笑顔をイルカに見せた。 「ずっと一緒にいたい。その為に生きていたい。そう思える相手なんです」 |
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