5.

浮遊と、落下。

時を越える時の感覚は、まるで、圧倒的な力に全身を空中高くに突き上げられ、そこから地面に向かって叩き落とされるような衝撃に似ている。

その圧倒的な力のベクトルに、イルカの思考は動きを止める。上下も左右も前後も無い。ただ、空虚な暗闇の中を延々と、潮を彷徨う漂流物のように翻弄され、運ばれてゆく。

時折、丸い窓のような光がイルカの横を通り過ぎる。イルカの記憶の中にある様々な風景が、その窓の向こうに垣間見える。ただ、すれ違う速度があまりに速すぎて、その風景は面影しか残らない。

それは、始まりも終わりも無いような、永遠のような一瞬のような感覚だった。

・・・熱い。

唐突にそう感じて、イルカはふと眼を開けた。

顔に当たる土が、まるで炎が這って行ったかのように異様な熱を持っている。自分が硬い地面に伏すように横たわっている事に、イルカは気が付いた。

起き上がろうと動かした手足が、鉛のように重かった。体力そのものを奪われたような疲労感は、前回時を越えた時の比ではなかった。それでも何とか上半身を起こしたイルカの服から、水気を失った土が粉となって零れ落ちた。結っていた髪は、いつの間にか解けていた。

暗い。夜だった。

眼前に、薙ぎ倒され、根まで引き抜かれた木々が、幾本も黒い影となって倒れていた。場所は森の中のようだったが、イルカのいる周辺は、倒れた木々のせいで不自然に開けていた。

風はそよとも吹かず、木と土と、血と肉が焼け焦げた匂いが、辺りに充満していた。人の気配も獣の存在も全く感じられない。不気味なまでの静けさがイルカの耳を突いた。

視線を上げたイルカの目に、雲の無い夜空に浮かぶ月が映った。

この風景を知っている。イルカはふいに気付いた。

九尾が、里を襲った夜だ。

巨大な獣の吐く息が、火炎となって地を舐め、九本の尾が、樹木を薙ぎ倒し、人を羽虫のように打ち倒した。その禍々しく圧倒的な力と、怯むことなく立ち向かっていった木の葉の忍達の、長い戦いの残骸が、眼前に広がっていた。

里が、多くの忍と、四代目火影を失った夜。

イルカが、両親と、住んでいた家と、幸せしかなかった子供時代を失った夜。

どうしてこんな所に。イルカは呆然とした。

時を越える己の能力の原理を、イルカは把握していない。ただ、行きたいと願う記憶の中の風景を、心に強く思い浮かべるだけだ。だが、この時刻のこの場所は、イルカの記憶の中になかった。

13年前の今夜、イルカは、耳を裂く咆哮が響き渡る中、巨大な尾獣に挑む両親の姿を探して、戦線近くまで彷徨い出た。だが、父母を見つける前に他の忍に発見され、引き離されるように里へ連れ戻された。

丁度今頃は、里の奥にある避難所で、他の子供達と一緒に朝を待っている頃だ。

記憶にない時刻と場所に運ばれてきた理由。時を渡る寸前に願った事が、イルカの心に甦った。

カカシ。

その名を思えば、端正な面影が脳裏を掠め、低い囁き声が耳の奥に満ちた。

また、失ってしまった。胸が、破裂しそうに痛んだ。

カカシの葬儀の夜、綱手の解印の後すぐに、イルカはその場で過去に飛んだ。カカシに想いを告白される前夜、アパートの自室で眠る自分宛に手紙を残した。カカシを拒み、関係を断ち切る事がどれ程辛い事か、他ならぬ自分自身だからこそ分かっていたが、過去への干渉を最小限に抑えた上でカカシを救う方法は、他に無いように思えた。

手紙を部屋のテーブルの上に置いて、イルカは綱手が待つ部屋へ戻った。時を越え、暗闇の中に不安気な表情の綱手の姿が現れてくるにつれて、イルカの記憶に、新しい1年が書き加わっていった。

カカシの想いを拒んだ月の夜。丸まったカカシの背中。イルカを映さない灰色の眼に、傷つき、苦しみ、諦めた日々。そしてイルカは、再び、カカシを失ってしまった現実を知った。

自分の心から血が噴出すような錯覚に、イルカは堪らず胸を押さえた。

イルカの願いは、カカシの深い想いに裏切られてしまった。例えイルカがどうであろうと、イルカを想い、慈しもうとするカカシの心を、変えることができなかった。

憎んで欲しかったのに。怨んで欲しかったのに。生きていてくれるなら、他には何もいらなかったのに。

どれほど後悔しても、絶望しても、足りない。

嫌だ。

再び目を閉じたイルカは、顔を伏せて地に横たわった。

もう、何も考えたくない。何も感じたくない。

全部を忘れたい。

眠りたい。このまま、カカシの元へいきたい。

狂う事もできない心は、ただ、ただ、楽にしてくれる道を渇望した。

 

 

 

「死にたいの?」

どれほど時間が経ったのか、不意に、声が降ってきた。イルカの耳に、微かに土を踏む音が聞こえ、誰かが側にしゃがみこんだ気配がした。

「だったら、どこか別の場所にしてくれない?」

溜息交じりのその声は、少年のもののように聞こえた。

「見捨てるみたいで、寝覚め悪いから」

ふてぶてしいその言い様を、どこかで聞いた事がある気がした。

イルカは、重い瞼を開いた。星のない夜空に浮かび上がるような白い面が、じっとイルカを見下ろしていた。

驚きに息を詰めて、イルカはその姿を見つめた。

精悍だが細身の体を包む暗部の装束は、夜目にも血塗れていることが分かった。そして、月光を溶かしたような銀色の髪が、狐を模した面を縁取っていた。

イルカは息を呑んだ。まさか、という思いが、言葉になって零れ落ちた。

「・・・カ、カシさん?」

次の瞬間、眼前で光が瞬いた。

「あんた、誰?」

ひやり、と耳の後ろに冷気が走った。

「見ない顔だね」

首筋に、短刀が当てられたのだと気がついた。

「木の葉の忍服だけど、混乱に乗じて紛れ込んだどっかの里の間諜じゃないとは、言い切れないよね」

面越しにくぐもって聞こえるその声は、耳に鮮やかに残っている男の声よりも僅かに高く、突き放すような冷淡さが含まれていた。

けれど、間違うはずがなかった。

「・・・カカシさん」

イルカの両目から、涙が溢れた。

涙はとどまる事を知らず、頬から零れ、髪を濡らして、乾いた地面に染み込んだ。肌に当たる刃に構わず、イルカは狐面に向かって手を伸ばした。

面の向こうで、ぎょっとしたらしい気配がした。

「カカシさん、ですよね・・・」

狐面は、怯えたように身を引いた。差し出したイルカの手は空を掴み、地面に落ちた。

「・・・あんた、誰?」

二度目の問い掛けは不安気に擦れていた。

「どうして、オレの名を、そんな風に呼ぶの?」

答えられる訳がなかった。イルカは黙って体を返し、地に肘をついて起き上がろうとした。だが、極限まで落ちた体力は、自分の体重さえ支えることができず、そのまま肩から崩れ落ちた。

それでも体を起こそうと、イルカはもがいた。早く捕まえなければ、また、失ってしまう。

「・・・何やってんの」

腕に力を込められないまま、荒い息をつくイルカの肩に、手がかかった。そして、少年とは思えない程の強い力で、イルカは抱き起こされた。

「チャクラが殆ど残ってないじゃない。無理したら、ほんとに死ぬよ」

防具に覆われた胸に、イルカは頭をもたせかけさせられた。

「このまま、術で、里に運ぶから。例えあんたが敵でも、今の状態じゃ何にもできないだろうし」

イルカは、嫌だ、と首を横に振った。

「どうか・・・このまま・・・」

「何、言って」

「側に、いて・・・あなたを・・・失いたくない」

イルカの言葉に、戸惑うように面が震えた

「・・・顔を、見せて・・・カカシさん・・・」

涙で滲む視界の中、イルカは必死に言い募った。

「・・・・・・」

「お願い・・・します。カカシさん・・・」

暫くの躊躇の後、鉤爪の指が、面の紐を解いた。

イルカの口から、愛しさの溜息がこぼれた。

面の向こうから現れたカカシは、幼さの残る端正な顔立ちに、大人びた憂いを浮かべていた。眼差しは不安気にイルカを見つめ、引き結ばれた唇は、何かを堪えているようだった。

まだ、13歳か、14歳。閉じた左目の上に走る傷は、まだ、肉の色をしていた。その睫も美しい銀色だと思い、イルカは微笑んだ。涙が、また、溢れた。

「・・・髪に、触ってもいいですか?」

カカシは気難しい表情を浮かべたが、それでも黙って頷いた。立てた膝と肩でイルカの体を支え、イルカの手をそっと握って、自分の頭に触れさせた。

その銀の糸は、見た目よりはるかに柔らかく、イルカの指にさらさらと優しく絡まった。イルカは、何度も何度も、その髪を梳った。

「・・・ねぇ」

大人しくされるがままになっていたカカシが、言った。

「髪位、後で幾らでも触らせてやるから。だから、いい加減、泣くのを止めて」

「・・・ごめんなさい」

「謝って欲しい訳じゃないよ」

途方に暮れたような声で言って、カカシは爪のついた手袋を外し、イルカの背に腕を回した。その遠慮がちな、どこかたどたどしい仕草に、イルカの胸は再び熱くなった。

初めて、カカシと抱き合った夜も、カカシはそうだった。

色事の経験は、イルカとは比べ物にならない程足っているだろうに、イルカを胸に抱き寄せたカカシは、困った、という風に眉を寄せ、みっともない事になりそうな気がします、と呟いた。その指が微かに震えていた事を、イルカは、その夜の蜜のような記憶と共にはっきりと覚えている。

ずっと、大切にされていた。

カカシを受け入れ、まるで番の鳥のように身を寄せ合っていた1年も。

カカシを拒み、心を偽り、互いが存在しないかのように振舞ってきた1年も。

カカシは常に、イルカを想い、守り、慈しんでくれた。そんな男を失って、この先、どうやって生きていけばよいのだろう。

どうやれば、生きていけるというのだろう。

ねぇ、と白く細い指が、イルカの頬に伝う、涙の後をなぞった。

「・・・何があんたを、そんなに泣かせるの?」

幼いカカシが、イルカの耳にそっと囁いた。

 

 

 

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