4.

朝靄の中を、影が飛ぶ。

水の流れが絶えて久しい峡谷の、滑らかな岩壁を音も無く、忍達は走っていた。まだ朝日は昇らない。山際に漂う雲に、その気配が僅かに感じられるだけだ。

谷底から湧き上がる靄に、先陣を切るイルカの忍服が次第に湿っていった。背後には、暗部装束の男が3人、その後ろに、カカシとくノ一が続いている。イルカを除いた諜報班員は、先発した他の班への伝令に向かっていた。

走りながら、イルカは手を上げて後方に合図を送ると同時に、クナイを前方へ投げた。

クナイが飛んだ先で、き、と微かな音が上がり、次の瞬間、どう、と地面の岩盤が爆発した。続いて、頭蓋の大きさ程の石礫が、怒涛のように崖の上部から落下してきた。

積み上がった礫の山を、一団は足を緩めることなく越えた。この周辺の偵察は何度か行っていたが、敵の油断を誘うため、敢えてトラップは見逃してあった。

前回までの戦闘で、敵はその数を壊滅寸前まで減らしていた。

森の中で少人数に分断され、各個攻撃を受けた敵は、他の拠点を放棄した。そして、背後と側面を切り立った崖に守られた本拠地周辺に立て篭った。術避けの結界を張った天然の山城は、侵入路が正面しかなく、うかつに近づけば集中攻撃を受けることは必至だった。

そこでカカシは、敵の補給部隊を利用する作戦を取った。敵の目を山の東側に引き付け、その間に西側から攻撃を仕掛ける。白々と日の出を待つ空の下、森の向こうでは、木の葉の精鋭達が、カカシに与えられた命を果たしているはずだった。

ふと、イルカは目的地の方向に視線を投げた。視界の隅で、何かがちかりと瞬いた。

その光は、まだ日も昇らぬ時間帯にしては不自然な強さだった。イルカは足を緩めて、暗部の男に並んだ。

「進行方向1時の方角」

イルカの言葉に、猿の面が低く答えた。

「敵か?」

「分かりません。先に、様子を見て来ます」

そう告げて、イルカは列から抜けた。

歩を進める度、靄が薄くなってきた。

浅くなった谷の右側は、きつい傾斜が麓まで続いていた。岩盤の上の薄い土壌に、常緑樹が青々と生い茂っている。イルカは気配を消して樹上に飛び、光が見えた辺りに目を凝らした。

この地域特有の、斑模様が入った大きな岩が、木々の間に転がるように点在していた。砂と、土と、緑と、微かな水の匂いがイルカの鼻腔をくすぐった。

特に何も見当たらない。イルカは、木の根元から数メートル先にある岩の上に降りた。

その瞬間、きり、と糸が軋むような小さな音を聞いた。

しまった。

そう思った途端、足元で爆発音が炸裂した。

跳ぼうとした体が、空圧と衝撃に突き飛ばされた。目の前を砂が舞い、平衡感覚を回復する前に、背中から地面に叩きつけられた。

衝撃に息が詰まり、轟音による耳鳴りで聴覚が奪われた。粉々になった岩の破片が、イルカの上に次々に落下してきた。

殺到する気配に顔を上げると、今度は砂煙越しに、イルカをめがけて飛んでくる鋭い切っ先が見えた。イルカはそのまま体を回転させ、起き上がりざまにそのクナイを避けた。

悲鳴のような声が聞こえた、気がした。

腰を落としたイルカの視界が、ふいに翳った。それが忍服のベストだと認識すると同時に、頭と肩を包み込まれ、全身に、どん、どん、と衝撃が走った。

土を蹴る音と、空気を切る音、何かが地面に落ちる音が重なって耳に入った。

イルカは、自分が、誰かの胸に抱き込まれている事に気付いた。

「・・・怪我はない?」

くぐもった声が聞こえた。首を上げると、口布と、灰色の瞳と、銀の髪が目に入った。

「カカシさ・・・」

思わぬ近さに、イルカは目を見開いた。身じろぎした体を、更に強く抱き寄せられた。

口布を下げたカカシが、掠れた声で繰り返した。

「怪我は?」

「あ、ありません・・・」

イルカの返事に、カカシは、よかった、と囁くように言うと、そのまま瞼を閉じた。イルカの肩に回った腕が、いきなり重みを増した。

項垂れたその唇から、鮮血が一筋、つう、と流れ落ちた。

「カ・・・カシさん?」

恐怖の予感に、イルカは慌ててカカシの腕を解いた。力を失ったカカシの体が、ずるり、とイルカに圧し掛かってきた。

抱きとめたその背に、イルカは信じたくないものを見た。

医療班を、と叫ぶくノ一の声が、遠くに聞こえた。血止めを、と誰かがイルカの肩を引き、その傷では間に合わん、と誰かがその手を止めた。

イルカの心臓は、嫌な音をたてて軋み続けた。

「カカシさん」

カカシの背には、太い刀が2本、柄近くまで深々と突き刺さっていた。見る間に染み出し、ベストを汚してゆく血の量が、その傷の深さを物語った。

「カカシさん」

覗き込んだカカシの顔は、見る間に血の気を失っていった。イルカは、カカシの体を腕と肩で支え、震える声でカカシの名を幾度も呼んだ。

「カカシさん」

気の遠くなりそうな時間の流れの中、カカシの瞼が薄く開いた。色を失った唇が、小さく言葉を紡いだ。

「・・・ごめんね」

この1年、まるで無機物のようだったその灰色の瞳が、せわしない瞬きの中でイルカを捉えた。

「好きで・・・ごめんね」

そう言って、微かに、柔らかく、微笑んだ。

後頭部を殴られたような気がした。

イルカは気付いた。

カカシは、すべてを隠していた。

自分自身の感情をイルカに読み取られないよう、その灰色の瞳は、偽り、欺き、装っていた。

すべてはイルカの為に。

そんな目で見られるのは気持ち悪いと吐き捨てたイルカに、不快な思いをさせない為に。

急速に力を失ってゆくカカシの瞳には、堰を切ったように、様々な感情が揺らめいていた。

優しさ。切なさ。愛おしさ。悲しさ。肉体を苛む、苦しみと、痛み。

そして、イルカへと真っ直ぐに向けられた想い。

すべてを包み込もうとする穏やかな温かさは、あの夜と同じだった。

カカシの心は、出会った頃も、1年前も、今も、ずっと、何も変わっていなかった。

ただひたすら、イルカだけに、捧げられていた。

全身を裂かれるような痛みが、イルカを襲った。

 

 

 

カカシの体から、次第に生が失われていく。

力を失ったその肉体は、イルカの肩に、腕に、恐ろしいほどの重みを預けてくる。

イルカは、必死でカカシの名を呼び、傷口を押さえ、顔を寄せ、天に向かって助けてくれと祈った。

守ったつもりでいた。

そう思っていたからこそ、耐えられた。

なのに。

愛する男は、今、この腕の中で。

 

 

 

イルカの、血を吐く様な慟哭は、もう、声にさえならなかった。

 

 

 

暗い部屋の中心に、小さな炎が燃えていた。

綱手は立ったまま、床に置いたその灯りをじっと見つめていた。

時を越えたイルカが、現在へ戻ってくるための道標。三代目が取ったその方法は、綱手にとっては祈りのよすがでもあった。

どんな事があっても、必ずここへ帰って来い。綱手は闇に向かって、心の内で語りかけた。

イルカが文字通り姿を消してから、数十秒が経った。

待ちわびる綱手の眼前で、空間がぶれるように揺らめいた。消えた時とは逆、まるで小さな破片が次々と積み上がって行くように、そこにイルカの姿が現れた。

綱手は、安堵の溜息をついた。

「よかった・・・うみの」

だが、戻ってきたイルカは、俯いたまま身じろぎもしなかった。

部屋が暗いせいもあり、綱手にはその表情までは見えなかった。しかもイルカの体は、どこか霞がかかったようにぼやけたままだった。

「うみの?」

声を掛けた綱手の目の前で、イルカの体が、まるで布がほどけるように崩れ始めた。

イルカが再び時を越えようとしている事に、綱手は気付いた。

「駄目だ!!」

綱手の怒号に、イルカが僅かに顔を上げた。視線の定まらない虚ろな表情が、イルカの絶望を物語った。

綱手の背筋が凍った。自分の命などどうでもいい、と叫んだイルカの声が脳裏をよぎった。

「聞け、うみの!それ以上は、お前の体が保たん!」

イルカは自身のチャクラを使って時を越えている。その消費量を考えれば、連続発動は自殺行為に等しかった。

「戻ってこられなくなるぞ!」

その言葉に、イルカが微かに笑った気がした。

綱手は臍を噛んだ。イルカが行きたいと望んでいるのは、恐らく、逝ったカカシが待つ場所だ。

無論、許す訳にはいかない。

だが、伸ばした綱手の指の先で、イルカの体は、闇に溶けるように掻き消えた。

「・・・駄目だ・・・っ」

お前まで。

綱手の悲痛な叫びと共に、ふ、と灯りが消えた。

 

 

 

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