3.

この一年。

どれだけ忘れたいと願っても、その夜の記憶は、イルカの心にまるで水底の泥のように澱み続けていた。

その汚泥は、折に触れては湧き上がってイルカを苛んだ。他に選ぶ道は無いと知っていながら、違う手立てがあったのではと思わずにいられない、詮の無い痛恨と後悔に似た苦しみは、いつまで経っても癒える気配がなかった。

それは、月が間もなく満ちる夜だった。

夕暮れの受付に現れたカカシは、いつものように丁寧な言葉でイルカを誘い出し、二人はいつもの居酒屋で、夕餉の杯を交わした。

いつになく会話が途切れがちだったのは、イルカが余りにカカシを見つめるからで、カカシは何度か、照れたように首の後ろをがりがりと掻きながら、

「オレの顔に何かついてますか?」

とイルカに問うた。

その度にイルカは笑って、首を横に振った。ただ、これから永遠に失うものを、記憶に焼き付けたかっただけだった。

夜も更け、店を後にした二人は、里の中心街から東へ向かって歩き出した。住宅街を抜ける夜道はもう人影がなく、空に浮かぶ白い月と、湿度を含んだ風と、遠くで鳴く蛙の声が二人を包み込んでいた。

隣を歩くカカシの足取りは、いつにも増してゆっくりしたものだった。そして、いつにも増して心地良く、穏やかな沈黙がイルカの心に沁みた。

「イルカ先生」

角を曲がればイルカのアパートという路地まで来た時、カカシが、イルカを呼んだ。

「いきなりこんな事を言って、驚くかもしれませんけど」

屋外では外した事の無かった額宛と口布を取り去ったカカシは、小さく息をついてから、その言葉を口にした。

「あなたが好きなんです。初めて会った時から、ずっと」

友情ではなく、と呟いたカカシの眼差しを、イルカは逸らすことなく受け止めた。その灰と紅の色違いの瞳を、眉の上から頬までを貫く傷跡を、高い鼻梁を、今何よりも嬉しい言葉を紡いでくれた唇を、視線で確かめるようにじっと見つめた。

そして、淡い月光を弾いて輝く美しい銀色の髪に、一度でいいから触れてみたかった、と思った。

どうか、とイルカは自分に祈った。挫けず、うまくやり遂げる事ができますように。

「・・・それは、俺を抱きたいとか、そういう意味でですか?」

イルカの直接的な言葉に、カカシは僅かに頬を震わせ、それから、はい、と頷いた。

「本気ですか?勘弁してくださいよ」

イルカは、眉を嫌悪の形に寄せ、唇を冷笑に見えるよう歪めた。吐き捨てた言葉が、カカシの目を僅かに見開かせた。

「カカシさんの事、嫌いじゃないですけど、俺、そういう趣味ないですから」

「・・・・・・」

「ずっと、そんな目で俺の事見てたんですか?・・・正直言って、気持ち悪い」

カカシは、しばらく身じろぎもせずにイルカを見つめた。それから微かに眉を寄せ、翳った視線を足元へと落とした。のろのろとした動作で口布を戻し、額宛を巻いて左目を隠した。

再びイルカを見たその灰色の瞳は、まるでガラス玉のように何の感情も浮かべていなかった。

「・・・嫌な思いさせて、ごめんなさい」

ひやりとする程静かな声でそう言って、カカシはイルカに背を向けた。

その背中が闇の中に溶けるように消えるのを、イルカは、今にも崩れ落ちそうになる足を必死で堪えながら見送った。

これで、カカシは救われる。安堵と、それを上回る激情が、心臓を突き上げて喉元まで競り上がった。

この世界の誰よりも何よりも、自分自身よりも大切な男。

己の残酷な仕打ちに、カカシが怨みの気持ちを持っても構わない。新しい想い人を見つけたカカシに、忘れ去られる存在でもいい。イルカが、生涯カカシを想い、カカシのこれから先の人生を、喜びを、幸せを、彼の生そのものを祝福し続けていくことに何の変わりもない。

好きです。

言葉に出来ない想いを捧げるように、イルカは震える体で天に浮かぶ月を仰いだ。

あなたが、好きです。だから。

どれほど苦しかろうと、カカシの想いを抉り、辱めた己の言葉を思えば、嘆くことは許されないと思った。

初めて出会った時からずっと、イルカの隣で笑っていたカカシは、その夜、冴え冴えと天空に輝く月のように、イルカには手の届かない存在になった。

 

 

 

「うみの中忍」

割り当てられたテントの入り口に手をかけた時、イルカは背後から声を掛けられた。振り返ると、燃え立つように赤い髪を垂らしたくノ一が、月光を背負うように立っていた。

「今から、部隊長のテントで作戦会議よ」

イルカの返事を待たず、くノ一は、奥のテントへ向かって歩き出した。特別上忍である彼女は、部下に対していつも必要最低限の事しか口にしない。イルカは、首に落としていた額宛を巻き直し、彼女の後に続いた。

ほう、と遠くで梟が鳴いた。

人の侵入を拒む深い森の袂、地面を抉るように走る小さな谷を見下ろすように、木の葉の忍戦部隊は宿営地を構えていた。明日の出撃に備え、見回り班と別働班を残して、部隊は各班に割り当てられたテントの中で、連戦で疲労した体を休め、夜明けを待っている。

森を越えてきた夜風が、初夏の湿度と、夜行性の獣の気配を運んで、円を描いて並ぶテントをゆるくはためかせた。

イルカにとっては、数年ぶりの里外任務だった。

10代の頃に半年近く、イルカはこの地域に戦忍として派遣されていた。その地理に関する知識と、過去にこなした任務の内容、戦歴によって、彼は中忍としては異例ながら、諜報班の長を任されていた。

部隊の目的地である山岳地帯は、森を越えた奥に、急峻な岩肌を見せて聳え立っていた。北の方角を見上げれば、闇の中に、山々の影がぼんやりと浮かびあがっているのが分かる。そして、同じ西の空には、満月を間もなく迎える月が、薄い雲をその肌に纏いながら煌々と浮かんでいた。

その淡い月光の中、くノ一の細い背中が、イルカの数歩先を歩いていた。

灰色に染まった世界の中でも、彼女の髪は目を奪うほど赤かった。そして、髪の色そのものの様に苛烈な技で、豹のように美しい彼女は、自身の上官である部隊長を守っていた。

部隊長付のくノ一は、その任に部隊長の伽も含まれる。

イルカの心は、この任務に就いてからもう幾度と無く繰り返した、薄暗い鬱屈に再び囚われた。

部隊長である銀色の髪の上忍は、彼女を抱いただろうか。

その長くしなやかな指で、薄く形の良い唇で、彼女の肌に触れただろうか。

戦場の昂ぶりそのままの猛りで貫かれた彼女は、どんな思いを以って、その欲望を受け入れるのだろうか。

胸に黒い嫉妬がわだかまり、イルカは息を吐いた。そして、いつものように、無理矢理その感情をねじ伏せた。

麻痺する事の無い情動は、そうやって押し潰される度、いつも軋んで悲鳴を上げた。だが、その内側の葛藤が、表に現れる事は決してなかった。

部隊長のテントは、他のテントの輪から離れて設えられていた。

くノ一に続いて中に入ったイルカは、視線を下げたまま、居並ぶ班長の列の最後についた。

仄かな蝋燭の灯りの元、人の輪の中心に、この部隊の長であるはたけカカシの銀色の髪があった。腕組みをしたまま、テーブルに広げられた地図を見下ろす姿は、戦場の緊迫よりも、場違いな程の落ち着きを感じさせた。ベストは脱いでいたが、その額宛と口布は、人前で外されることは無かった。

「諜報班、報告を」

くノ一の声を合図に、イルカは歩を進め、地図の袂に立った。場の視線が、イルカの指が指す地図の一点一点に集中した。

「物資の補給路として選ばれる可能性が高いのは、このルートです。敵の防衛ラインがこの地点まで下がっている事と、他のルートでは、戦線に部隊の脇腹を晒してしまう事になりますから」

「敢えて補給部隊を見逃したんだ。こっちの思惑通り動いてくれなきゃ困るぜ」

イルカの隣に立つ、左耳の無い男が呟いた。傷はまだ生々しいが、化膿止めを塗っただけで平然としている。イルカは小さく頷いて、地図に指を走らせた。

「補給部隊の援護の為でしょう、拠点西側の防御が手薄になってます。森を抜けて谷に沿って北上すれば、敵の本拠へ接近することが可能です。無論、敵の真っ只中に飛び出す形になりますが」

「ここまで押し込んだんなら、一気に決着をつけてえな」

赤銅色の肌をした青年が声を上げた。頷きと沈黙が、指揮官の命を待った。

「明日、総攻撃をかける」

蝋燭の炎が揺らめくと同時に、腕組みを説いたカカシは、人差し指の関節で、こん、と地図上の敵の本拠地を叩いた。

「1班と2班は、東から北上する補給部隊を叩いて。6班と8班は、陽動の意味も込めて正面から突破。別働の5班には、トラップの除去と、医療班の支援の伝令を出す」

それから7班、とカカシはイルカを見た。

「オレと0班は西側から谷を遡って、敵の本拠地に直接仕掛ける。7班には、その援護を」

「承知しました」

視線が交わり、離れた。先に逸らしたのはカカシだった。だが、その仕草にそれ以上の意味が無いことを、イルカは十分に承知していた。

イルカがカカシを拒んだ夜から、二人の接点は受付での報告書のやり取りだけになった。誰もが口にする形式的な挨拶以外、互いを労って掛ける言葉も掛けられる言葉も無くなった。

そして、カカシがイルカを見る瞳から、感情という名の色が消えた。

憎しみも、怒りも、悲しみもなかった。ただ、灰色の瞳がイルカの姿を写し、数秒後には何も見なかったかのように消し去られた。その無関心な眼差しは、カカシにとってのイルカが、もう受付の風景の一部にしか過ぎないのだと冷酷に告げていた。

無視という残酷。怨まれた方がよほどましだと、イルカは、凍えるような気持ちで何度も思った。

蝋燭の炎が消された。

それぞれの班長に個別の指示を下したカカシは、解散、と短く告げた。

班長達が次々にテントから出て行く中、赤い髪のくノ一がカカシの肩に手を置いて、その耳元に何か囁いた。イルカは、目を伏せ、そのまま背を向けた。

カカシに触れ、カカシに触れられるのはどれ程の喜びだろう。

カカシに愛されるとはどれ程の幸せだろう。

捨てるしかなかった未来を思い、イルカは小さく自嘲した。今更後悔はしていない。ただ、失ってしまったものが余りに愛しくて、自分自身がどうしようもなく悲しいだけだった。

テントから出ると、濃い影色の木々の向こうに、白い月が浮かんでいた。

もしかしたら、この任務で自分は死ぬのかもしれない。

予感は確信に近い形をして、イルカの心を暗く占めていた。

無論、簡単に死ぬつもりなど無い。そこへ逃げるつもりも無い。だが、もし、この命をカカシの為に捧げられるなら、この一年の、血を吐くような苦しみはすべて昇華され、報われるのだと思った。

未来の自分から手紙を受け取って、丁度一年が経っていた。

 

 

 

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