聞こえてくる。

きゃあきゃあと賑やかな高い声。あちらへこちらへと動き回る、小さな騒がしい気配。

無邪気な己の感情のままに、笑い声を上げ、涙を零し、怒りの思いを露にする様子は、木の葉隠れ里で忍を目指すとは言え、やはり子供は子供だった。

その子供らしさは、いずれ、他と分かち合い、他を思いやり、他を赦す、人としての豊かさへと育まれる。

ならば、先に忍として成熟し、己を律する事しか知らぬ心には、人としての何かが欠けているのだろうか。

カカシはふと、クナイを磨く手を止めた。癇症に泣きながら、何事かを必死に訴えている幼い少女の声と、それに答える若い男の声が耳に入ってきた。

どうした?何があったのか、先生に教えてくれないか。

泣きじゃくり要領を得ない少女に向けられる男の声は、飽くことのない辛抱強さと、深い思いやりを備えていた。声の張りは、男がまだ若い事を伝えてくる。癖のないその話し方からも、自分の事を先生と呼んだ事からも、アカデミーの教師なのだと分かった。

カカシがいる暗部の控え室は、アカデミーの地下にあった。

勿論、子供や部外者が間違って迷い込まないよう、部屋の入り口は離れた場所に作られている。室全体に結界が仕込まれ、こちらの気配は外へは決して漏れないが、アカデミーの校庭を走り回る子供達の歓声は、コンクリートの基礎を隔ててさえ、忍の耳には入ってきた。

子供の笑い声を聞きながら、人を殺める道具を磨く。それはまるで、守るべき存在の側に置くことで、羅刹へ落ちんとするその心を、人に留めておこうとする切ない願いのようであった。

カカシは部屋の天井を見上げた。少女と男の声が他の喧騒より近いのは、二人が、この部屋の真上、アカデミーの校舎の裏口付近で話しているせいだった。

・・・そうか、それは、哀しいな。

まるで、男の穏やかな声に優しく包み込まれるように、女の子の泣き声は、次第に静かになっていった。きっと男は、腰を屈め、少女と目線を合わせて、頷きながら話を聞いているだろう。男がどんな顔立ちをしているのかは分からないが、恐らく、凪のように静かな、大らかな目をしているだろう。

カカシは手の中で鈍い光を放つクナイを見下ろした。

・・・よし、もう大丈夫だな。皆の所へ戻りなさい。

小さな笑い声と共に、軽やかな足音が駆けていった。男の気配は、少女を見送るように暫くそこに立ち尽くしていた。

男が、小さく息をついてアカデミーの校舎の中に入るまで、カカシは手の中のクナイを見つめながら、男の気配を静かに感じ取っていた。

男の名前はすぐに知れた。

数刻後、身支度を整えたカカシの耳に、再び、子供達の喧騒が聞こえてきた。

下校時間なのだろう、校舎から飛び出すように駆けてゆく足音や、笑い合いからかい合う声が幾つも入り混じり、校門の方向へ進んでゆくのが感じられた。

いるかせんせー、さよーならぁ。

素直な好意を滲ませて、子供達が呼んだ。

さようなら。気をつけて帰るんだぞ。

また明日、と男が返した。声の柔らかな調子から、男が微笑んでいるのだと分かった。

いるか先生。

いるか。

その名を小さく呟いて、カカシは、面を被った。

 

 

 

「さっきの話の続きですけど」

刀身を振って、血と脂の飛沫を散らした。同じような動作で刀を鞘に収めたテンゾウが、しみじみとした口調で言った。

「人を好きになるっていい事ですよ、カカシ先輩」

足元には、たった今、その首を掻き切ったばかりの死体が数体転がっていた。

立ち込める死の匂いの中で、浮ついた話題を口にする。自分の感情と、目の前の現実を切り離す術は、既に習性となっていた。

任務を果たした喜びも、奪った命を悼む気持ちも。返り血を浴びて獣のような己の姿を自覚する瞬間さえ、すべてはカカシの上っ面を撫でて、するりと滑り落ちていった。

「・・・お前、そんな相手いるの?」

何となく意外に思って聞き返した。以前に、女は、穴が開いていればそれでいいと嘯いていたのを聞いた覚えがあった。

「・・・えぇ、まぁ、はい」

普段、任務以外では碌な返答を返さないカカシからの問いかけに驚いたのか、テンゾウは一瞬動きを止めて、口篭るような返事をした。互いに面で隠されて表情は見えないが、テンゾウがその黒目がちの大きな目を、ぎょろりと見開いているのだろうという事は容易に想像できた。二人の間では、会話というより、テンゾウが一方的に話しかけているのが常だった。

「何ていうか・・・世界が変わったんですよね」

躊躇いがちに、テンゾウが話し始めた。

「見えるものは同じなんですけど、感じ方が違うっていうか。おれってこんな事考える奴だったんだ、って自分で意外に思ったりして」

カカシは、テンゾウの声を聞きながら、死体の懐から認証プレートを奪う為にしゃがみ込んだ。

「・・・まぁ・・・その人には、ちょっと相手にされてない感じなんで、辛い所ではあるんですけど」

カカシは、プレートを繋ぐ鎖に忍刀を当てた。がちり、と鎖が切れる音を聞きながら、普段なら気にも留めない後輩の一言が、心に残っている事を自覚した。

世界が変わった。

・・・変わるというのか、この世界が。

「・・・本当に好きな相手とヤるのって、きっと凄く気持ちいいだろうなぁ」

小さく、テンゾウが呟いた。

 

 

 

「いるか先生」の事を調べるのは簡単だった。

名はうみのイルカ。戦忍を退き、今年からアカデミーの教師となった中忍だった。三代目が特に目をかけていて、教職と受付を兼任させ、側近くに置いて秘書のような仕事もさせていた。年齢はカカシより1歳下だった。

真面目で、子供好きで、熱血な、裏表の無い、明るい男だという評判だった。アカデミーの教室で、校庭で、放課後の廊下で、子供達と一緒に朗らかに笑い、時に厳しく叱り付ける様子に、その噂が嘘では無い事を教えられた。

優しく、柔らかく、それでいて鋼のような強さを備えた声。

耐える事と、慈しむ事を知っているその声は、カカシの心の、一番深い部分にまで、するりと入り込んでくるような気がした。

もし、あの声に死ねと言われたら、それだけで、本当に息が詰まって死んでしまうかもしれない。

そして、もし、あの声に名を呼ばれたなら。

暗い地下の部屋で、いつしかカカシは、イルカの声だけを探すようになっていた。

「カカシ、お主幾つになった?」

ある任務を終えて、執務室へ報告に出向いたカカシに、三代目火影が言った。

「先日、22歳になりました」

「図体は・・・でかくなったな」

カカシを見上げた三代目は、ぷかり、と煙管から煙を吐き出した。

「何か、今、欲しいものはあるか?」

誕生祝だ、と言われ、カカシは戸惑った。子供の頃なら兎も角、この歳で祝う祝われるもないだろう。

だが、同時に、イルカの明るい笑い声が脳裏を掠めて、カカシは自分自身に驚いた。

「そうか」

カカシの表情を見つめていた三代目は、どこか嬉しそうに言った。

「お主にも、欲しいものができたか」

どうしてそうなる。カカシは首を振った。

「・・・そんなんじゃないです」

「欲しいなら欲しいと言わんと、誰も与えてはくれんぞ」

カカシの言葉が聞こえなかったかのように、三代目は続けた。

「戸惑うのも無理は無い。お前には、耐える事、己を律する事しか教えてこなんだからの。じゃが、こればかりは、誰ぞが代わってやる事もできん」

「・・・・・・」

「人の心は、まず、自分の思い通りにはならん。その為に、痛い思いや辛い思いをするかもしれん。じゃが、我々に至上の喜びを与えてくれるのも、また、人の心じゃからの」

 

 

 

欲しいって何?

答えを知りたくて、カカシはアカデミーへ走った。

失ってしまったものを取り戻したいと思う気持ちは、よく知っている。寧ろ、それしかカカシは知らない。

父への思い。オビトへの思い。後悔と背中合わせの、諦めるしか道の無い願いしか、今まで知らなかった。

だったら、イルカはどうなのか。無くした物へ抱き続ける願いと、イルカへの気持ちとはどう違うのか。

イルカ。カカシはその名を思った。

手を伸ばして、引き寄せたい。自分の隣へ、自分の中へ、一番近くで、その存在を感じたい。

それが、欲しいという事なのか。

イルカは丁度、校庭に出て、クナイを振るう子供達を監督していた。

カカシは、校舎の脇に並ぶ木立の中に身を隠して、イルカの様子を目で追った。

初めてその姿を見たイルカは、その声の様子からカカシが漠然と想像していたよりずっと、男らしい顔立ちをしていた。鼻梁を跨いて走る一文字の傷が何より目を惹いた。長い黒髪を高く結い上げ、額宛をきっちりと巻いて、目付きが悪いと評される事があるかもしれないその切れ長の真っ黒い瞳は、教え子を見つめて優しい光を放っていた。

そして、声。

大きな声でゆっくりと、子供達を指導するイルカの声が、何物にも隔てられず、直接にカカシの耳に届いた。

言葉を紡ぐ唇が朗らかな笑い声を上げて、くしゃりとした優しい笑顔に変わる様子が、カカシの目に飛び込んできた。

なんて、眩しいんだろう。

とくとくと、心臓が大きく鼓動を打ち始めた。もう、その光から、目を離す事ができなかった。

そして・・・何て、違うのだろう。

子供達の間を一人一人に気を掛けながら回るイルカの姿を追いながら、カカシは気付いた。

カカシが潜む木立は、校舎の影に暗く覆われている。イルカが立つ校庭は、燦々と午後の日差しが降り注ぎ、暖かな光で満ちている。

たった一人闇に潜む自分と、子供達に囲まれて笑顔を見せるイルカ。人を縊るしか能の無い自分と、幼い命を育て導くイルカ。

二人は、その生き方そのもののように遠く隔たっていた。

その事実を否応無く突きつけられ、カカシは今までにない程の強い寂しさを感じた。父を亡くした時とも、師と友を失った時とも違う、自分の在り様そのものを嘆きたいような孤独が、ひんやりとした手でカカシの心を撫でた。

イルカの周りが、さらに眩しさを増した気がした。

そして。

声を探すだけでは、姿を見つめるだけでは、物足りなくなってしまった自分を、カカシは自覚した。

 

 

 

進む

 

 

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