どれ程長い時間を共に過ごしても、どれ程激しく求められても、カカシの気持ちが自分に向いていると自惚れられなかったのは、同性であるからか。それとも階級差か。

甘やかな言葉を貰えば安心するのか。未来に向かう約束が欲しいのか。

違う、そうじゃない。

任務に就くカカシの背は、他の何物からも隔絶して、孤高だ。その気高い姿を、何よりも誇りに、大切に思う。

何の為に生きるのかと問えば、里の為だと迷いなく答えるだろう揺らぎのない男が、その強さ故の重圧に疲れた時、寄りかかって貰える存在でありたい。

そして。

例え、カカシにとってイルカが一時の気紛れだったとしても、それがカカシの心ならばと、笑って受け入れられる強さが、イルカは何よりも欲しかった。

 

 

 

カカシはきっと、覚えてもいないだろう。

関係を結んでまだ日も浅い頃、三代目に、里内で待機中のカカシの呼び出しの使いを頼まれた事があった。

上忍控え室に向かったが、姿が見えない。

「どちらにいらっしゃるか、ご存知ありませんか?」

「ここにいなけりゃ、あそこかな」

そう咥え煙草の上忍に教えられたのは、里の東側、大門から続く外壁が、火影岩と交わる突端だった。

里に向かって張り出したその場所は、眼下に木の葉の里を一望できる。遮るもののないその眺めを、実はイルカも密かに気に入っていた。

火影岩の側から外壁を上ると、カカシは確かに、一人でそこに立っていた。

背を丸め、ポケットに手を突っ込んだいつもの姿。その横顔に、ふと、イルカは声を掛けるのを躊躇った。

銀色の髪が、沈んだ太陽の名残を集めて淡く光る。額宛と口布に隠れた表情は窺い知れないが、里の街並みを見つめる濃灰の瞳は、微かに細められていた。

足元から、黄昏の気配が這い上がってきた。長い影の輪郭が次第にぼやけていくように、じっと立ち尽くすカカシの姿も、そのまま夕闇に溶け込んでしまいそうだった。

そこに確かにいるのに、どこか覚束無い。焦るような気持ちを感じて、イルカは声を上げた。

「カ・・・はたけ上忍」

横顔は動かないが、聞こえていると判断した。

「三代目がお呼びです。執務室に来るようにと」

ようやく、カカシが僅かに身じろぎした。

「・・・眩しいね」

口布越しに聞こえたその呟きに、イルカは首を傾げた。

「眩しい、ですか?」

「・・・・・・」

夕日は既に遠い山稜に沈み、西の空に赤く染まった雲が残るのみだ。僅かに頷いたカカシが見つめる視線の先を、イルカは追った。

夜の始まりの下、里は柔らかな薄暮に沈み始めている。

家々に明かりが灯り、里人は家族の元へと家路を急ぐ。

風に乗って届くのは、温かな夕餉の匂いと、遊び疲れた子供達を呼ぶ母親の声。

穏やかな、日常の風景は、昨日と同じ。そして明日からも、これからも永遠に続いて欲しいと願う、平穏の景色。

・・・あぁ。

これをこの人は、眩しいと言うのか。

叫び出したいような思いに、イルカは唇を噛み、身を震わせた。

あなたが命をかけて守ってきたものがここにある。

その身を削り、骨を軋ませ、血を流し、すべてをかけて守り抜いてきたものが、こうして未来へ繋がってゆく。

だが、この尊い景色を前にして、この男の内にあるのは、里の平穏を支えるのは自分だと胸を張る自尊ではない。それが、イルカには痛い程に切なかった。

カカシの横顔にある、孤独。孤独である事に自分自身気付いていない、悲哀。それら全てを凌駕してカカシを支配する木の葉の忍としての自負は、任務に出るカカシの背にあるものと同じだ。

 

強くなりたい。

 

唐突に浮かび上がった想いは、波紋のように、イルカの心に広がった。

 

それは、昔、戦忍だった頃に願った力への憧れとは違う。

カカシという里の宝と評される忍と、人を殺める事への罪悪感を取り去れずに戦忍を引退した自分の、その余りの実力差への歯噛みとも違う。

ただ、ここでこうして、自分が命を掛けて守るものを遠くから見つめる事しかしない男を、その孤独の哀しみから守りたい。

その為に、強くなりたい。

カカシにとって一時の戯れの相手に過ぎないかもしれない自分が抱くには不相応な、傲慢な願いだと分かっている。

だが、イルカにとってその願いが、カカシへの、確かな想いの証でもあったのだ。

 

 

 

**********

 

 

 

 

 

 

誰かが泣いている。

 

誰かが哀しんでいる。

 

恋しいと、愛しいと、声よりも強い想いで、呼んでいる。

 

 

 

あぁ、どうか。そんな哀しい声で泣かないで。

ここにいるから。

あなたを守ると誓ったあの日から、ずっと、ここにいるから。

 

 

 

何もない世界に、途切れることなく聞こえる、あいのうた。

 

 

 

暗い水底から、日の当たる水面へ浮かび上がるように。

ふいに、痛みに似た眩しさを感じて、イルカは目を開けた。

「・・・・・・」

世界は白く霞んでいた。

ぼやけた焦点は、長く一点を見つめられない。瞬きが重く、瞼が動く度に僅かだが痛みが走った。

・・・ここは、どこだ?どうしてここに?

思考がうまく回らない。何かを思い出そうとしても、それを手繰り寄せる意思の力が続かない。

長い夢をみていたと思う。流れる景色を車窓から眺めているような、虚ろで隔絶的な感覚が強く残っていた。

覚えているのは、声だ。

遠くから聞こえるような、すぐ近くで囁かれているような、声。その声だけが、確かにイルカと世界を繋いでいた。

その声が聞こえるから、イルカは、自分がここにいる事を知っていた。

途切れることなく聞こえていたそれは、何と言っていただろう。

哀しげに泣いているような、誰かを深く強く恋しがっているような、あの声は。

・・・まだ夢の最中なのかもしれない。

ぼんやりと視線を巡らせた先に、ずっと求め続けていた男の姿を見つけ、イルカは思った。

夢でなければ、どうしてカカシが、こんな顔をして、ここにいるのか。

大きく見開かれた灰色と緋色の瞳が、じっとイルカを見つめている。薄闇の中、銀色の髪が微かに輝いて、その血の気の無い唇から、小さく吐息が零れた。

・・・夢でもいい。

確かに、カカシが、ここにいる。

深い安堵と喜びが、イルカの胸に満ち渡った。

「・・・カカシさん・・・?」

搾り出した声は、自分のものとは思えない程、低く錆付いていた。

カカシの表情が、酷く歪んだ。何かを堪える様にきつく眉が寄り、戦慄くその唇が、言葉を紡ごうとして何度も声を飲み込むのを、イルカは胸が詰まるような思いで見守った。

カカシから、大きな感情のうねりが、ひたひたと押し寄せてくる。それが、苦しいほどに、愛おしかった。

「・・・しんぱいかけて、ごめんなさい」

自分でも聞き取れぬ程の声だったが、カカシには確かに伝わったようだった。今にも泣き出しそうな顔で、カカシが問うた。

「・・・どうしてここにいるか、覚えてるの?」

イルカは小さく首を振った。覚えていない。記憶にあるのはただ白い世界ばかりで、それより前は何も覚えていない。

「・・・でも、あなたがそんな顔してるから」

苦しくて、不安で堪らなくて、今も怯えを滲ませるその眼差し。

「心配、してくれたんでしょう?」

イルカの問いかけに、カカシは、再び小さく息を零して、イルカの指を両手で包み込んだ。

「・・・謝るのはオレの方」

そして、まるで額ずく様に、頭を垂れた。

 

「あんたがすき。一生、あんただけ好き」

 

柔らかで、心揺さぶる言葉が、イルカの心に投げ入れられた。

ずっと、欲しかったもの。欲しいと願ってはいけないと、思っていたもの。

それは喜びというより、足りなかったものが満ちる、深い充足。

そして、満ち渡ったものが、イルカから溢れ出す。

 

あぁ。夢でもいい。

このまま、これがすべてになれば。

 

「オレをこんなにして。どうしてくれんの、これから」

囁く様に、カカシが言った。

「・・・どうもしません」

可笑しな事を言うと、イルカは微笑んだ。何をどうするというのか。

「あなたはあなたのままで。俺は俺のままで」

俺があなたを好きな事には、何の変わりもありません。

近づいてくるカカシの顔が、滲んだ。

熱い。胸が。瞳が。

イルカは、しっとりと温かいものが自分の頬を伝うのを感じながら、カカシの口付けを受ける為に、瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

ドアを開け、ただいまと言った。

「おかえり」

出迎えたカカシが、答えた。

まる1年振りの我が家。だが、その間の記憶が殆ど無いイルカには、実感が沸かない。まして、こうしてカカシに出迎えられる時が来るなんて、想像もしていなかった。

玄関に入って靴を脱ぎ、台所を横切って居間を見渡した。壁際に積み上げた書類や巻物はそのままだ。だが、それ以外は自分が使っていた時よりきちんと整頓されている。

あんたの部屋で暮らしてるから。幾度目かの見舞いの時、至極当然のようにカカシに言われた。

どうして?単純に、そう思った。上忍であるカカシには、利便のよい場所に専用の新築宿舎が与えられているし、両親から受け継いだ一軒家があるはずだ。わざわざ、築30年を超えるこんな狭くてボロい部屋にいる必要はないだろう。

イルカの問いに、カカシは目を僅かに細めて答えた。

前に言ったでしょ?あんたといないと、里に帰って来たって気がしないって。

「座ってて」

カカシは、自室でありながら何故か所在なさを感じるイルカの手から、病院から持ち帰った荷物を奪った。

「中、全部洗うよ?」

「カカシさん、俺がやりますから」

「・・・・・・」

無視かよ。

イルカは、洗濯機のある脱衣場へ歩いてゆくカカシの背中にため息をついた。

本当に何なのだろう、この過保護は。

入院中もそうだった。綱手に「どこに出しても恥ずかしくない女房っぷりだ」と呆れられる程の甲斐甲斐しさで、カカシはイルカの世話を焼いた。食事の時は無表情でスプーンで粥を口へ運ばれて、「あーん」なんて言われないだけマシなのだと自分に言い聞かせた。恐らく、自分の任務が無ければ、ずっとイルカの病室へ泊り込もうとしただろう。

未だに、信じられない気がする。

台所に戻って急須に湯を注ぐカカシの背中を見ながら、イルカは思った。カカシが、自分の事を想っていてくれたなんて。

イルカが自我を失っていた1年の間、カカシがイルカを待ち続けていた事を、綱手や事情を知る他の忍達から聞いた。一時は危うささえ感じさせたというその執着は、何時しか静かな慈しみに変わり、ただひたすらに、イルカを求め続けてくれていた、と。

目覚めた時に伝えられた、イルカを好きだというカカシの言葉にも、その行動にも、嘘は感じられない。

それでも、それだからこそ、落ち着かないのだ。

今までずっと、カカシの背中を見つめ続けていた。渇望は叶えられる事は無いと心のどこかで思っていた。

それが、今、こうしてカカシの心を与えられて、喜びと同じだけの戸惑いがあった。

イルカは、寝室の襖を開けた。

僅かに篭った気配は、ここ数日カカシも任務で里を離れていたからだ。色の抜けたカーテン越し、薄い布団に午後の日差しが作っている。

色褪せへたった枕に、流れた月日の重みを感じて、イルカは湧き上がる表現しがたい感情を堪えた。

カカシが、ここで過ごした時間が、そこにあった。

一人で、何を思いながら、カカシはイルカを待っていてくれたのか。

ベッドの枕元に見覚えの無いものを見つけ、イルカは手を伸ばした。

鉢に名前を書いた観葉植物と、写真立て。少し色褪せたその写真には、火影の執務室に飾られた写真より幾分若々しい四代目と、元気、やんちゃ、生意気、と顔に書いてあるような3人の子供が写っていた。

「・・・・・」

少年時代、四代目の元でスリーマンセルを組んでいた頃のカカシだ。濃灰色の瞳はまだ両目で、カメラマンを睨む様な視線を寄越している。忍としての苦悩を既に知っているだろうその眼差しは、それでも、未来へ向けて、真摯な希望に満ちていた。

四代目は本当に大切に、慈しんで、この子供達を育んだのだろう。

その表情に知らず笑みを浮かべながら、写真立てを戻したイルカは、その隣に、灰色の見覚えのあるノートを見つけて、思わず息を飲んだ。

・・・ま、さか。

がっ、と後ろ頭に血が上った。

カカシへの、そして自分自身の気持ちを綴ったノート。どうしてこれが、こんな所に。

最後どこに置いたかは記憶に無いが、少なくとも、自分は、これをこんな、カカシの目に付くところに絶対に置いたりしない。

同時に、すべてが腑に落ちた気がした。

だから、これを読んだから、カカシは。

「カカシさん・・・これ」

背後に立った気配に、問いかけた。

「中?読んだよ」

「なっ・・・」

振り返ったイルカに、カカシはあっさりと言い、悪びれた様子も無い。

「見つけたのは偶然だから」

そういう問題じゃない!

「・・・だからですか?」

羞恥と、腹立ちに、声が高くなる。

「これを、読んだから、あなたは・・・」

俺を好きだと、言ったんですか?

イルカの怒気に、カカシは僅かに眼を細めた。

「多分、そう」

あっさりと認めた。

「あんたの本心を知らなきゃ、きっと、オレは一生、あんたに告白なんか出来なかったと思う」

だって、と続けたカカシの表情は、今まで見たことが無い程に、苦しげで、真っ直ぐだった。

「あんたの事、ずっと分からなかった」

だから、恐くてしょうがなかった。

「オレの勝手で振り回してるのに、あんたに好かれてるなんて思うのは、流石に、虫が良すぎるって言うか、何様って感じでしょう?」

ずるい。脳裏に浮かんでいた言葉が、霧散した。

お互い様じゃないか。

相手の心を恐れ、一歩を踏み出せなかった。それは、イルカも同じだ。カカシの心を激しく請いながら、拒絶を恐れて、その背中を見つめる事しかできなかった。

「カカシさん」

「だから、あんたに謝りたかった。オレはこんなだから、あんたをずっと傷付けてたんだと思って」

 

イルカの心にあった蟠りが、雪が溶けるように、消えてゆく。

目の前の、カカシという存在が、更にいとおしく、近く、大切なものへと変わる。

 

イルカは腕を伸ばし、カカシを抱き寄せた。

確かな体温と、同じ力で抱き返してくれる強さに、全身が震える。

「あなたが、好きです」

何度伝えても、伝え足りない程に。

この胸を開いて、言葉の真実を見せてやりたいと願う程に。

 

 

 

あ、と思う間もなく、ベットに押し倒されていた。

「ちょ・・・」

反射的な抵抗は巧みに絡め取られて、

「言ったでしょ?早く抱かせてって。あんたの中で果てたいって」

唇が触れる距離で、深い瞳に覗き込まれて、思わず背筋が反った。

病室のベッドの上で、見舞いに来たカカシに、戯れというには淫らに過ぎる行為をしかけられていたが、抱かれるのは目覚めて以来初めてだ。

知らぬ間に結っていた髪紐を解かれ、カカシの指に、髪を梳られる。そのささやかな感触にさえ、イルカの体は思わぬ反応を見せて、イルカを戸惑わせた。

「あ・・・」

求めているのだ、カカシを。この体が。

硬く無骨なこの体が、カカシに求められ、触れられ、高められ、受け入れる事を待ち望んでいるのだ。

髪を撫でていた指が、そのまま耳へ触れ、頬を辿った。唇をなぞる動きにつられるように、思わず開いた隙に、カカシの熱い舌が差し込まれた。

奥を深くまで弄られて、頭の後ろが熱く霞む。粘膜へ与えられる愛撫は、強烈な刺激となってイルカを捕らえ、我を失わせる。

「やっと、帰ってきた」

激しい口付けの合間に、カカシが囁く。

「もう、どこへも行かせない」

それは、どこまでも激しい喜び。

 

一生離さない。

死ぬまで、オレの側にいて。

 

カカシに与えられるものに溺れ始めたイルカの耳に、その言葉は、深く、どこまでも深く、染み透っていった。

 

 

 

完(07.07.06〜08.07.20)

 

 

 

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