ならば誓うがいい。

奪われた愛しい者を再び取り戻したいと望むなら、ここに確かに誓うがいい。

 

繋ぎあったその手を決して離さぬと。

何があっても、決して後ろを振り返らぬと。

 

恐らくお前は、最大の困難が目の前に待ち受けていることを、間も無く思い知るだろう。

 

 

 

君に世界を教えよう

 

 

 

1.

「先生?」

聞こえた小さな声に、カカシは、額宛を巻く手を止めて振り返った。

「大丈夫です」

ベランダに出る掃き出し窓の前で、手に洗濯籠を持ったままイルカが答えた。もう一方の手で、目元を押さえている。

「目、どうかした?」

歩み寄って顔を覗き込むと、イルカは大丈夫です、ともう一度言った。が、覚束無い表情で何度も瞬きを繰り返す。開け放した窓から朝の澄んだ風が吹き込んで、イルカの結い上げた黒髪を揺らした。汗と淫らな雫で全身を濡らした昨夜の余韻は、その首元に浮かぶ赤い鬱血の痕だけだ。

「見せて」

カカシはイルカの顎を持ち上げて、その黒い瞳に目を注いだ。月夜の湖面のようにしっとりと柔らかな光がカカシを映す。充血も無く、一見異常は見当たらない。

「本当に、大丈夫ですって」

宥めるように言ったイルカだったが、顎から手を離さないカカシの眼差しに観念したのか、

「最近、やたら眩しくて」

「眩しい?」

「日光とか、夜灯りをつけた時とか。さっきは、その・・・痛い位だったからちょっと驚いて」

カカシはきつく眉を寄せた。痛みを感じる程の羞明は尋常では無いだろう。

「すぐに病院行きなさい。今日はアカデミーも受付も休みでしょ?」

自分の事は後回しにしがちな男だと分かっているから、本当なら今から担ぎ上げてでも連れて行きたいが、カカシには今から任務が控えていた。

病院嫌いのカカシさんに言われるのは心外ですね、とイルカは小さく苦笑した。

「今日、ちゃんと行きますから。約束します」

「絶対ですよ?」

困った事に、大丈夫です、と言うイルカの笑顔は、根拠があろうと無かろうと、いつもカカシを酷く安心させてしまう。イルカに飼い慣らされたと影で揶揄されているのは、こういう意味なのかもしれないと、カカシは内心で自嘲した。

窓の外、小さなベランダに、洗い上がったシーツがはためいている。夏の青い空とのコントラストが鮮やかだ。不意に、昨夜このシーツの上で魚のように跳ねたイルカの背中を思い出した。

カカシが更に顔を寄せると、察したイルカが顎を引いた。

「駄目です・・・」

「どうして?」

「窓が・・・外から見える・・・」

カカシは手を伸ばし、カーテンを引きざまに口付けた。

厚みのある唇を割って歯列を探る。僅かに開いた隙間から滑り込んで、奥で戸惑う舌を絡め取った。

「ん・・・」

思う様吸い上げながら、腰を抱き寄せ、更に深く求めた。イルカの体から力が抜け、縋るようにカカシの肩に腕が回る。洗濯籠が二人の足下に転がった。

内側から沸々と湧き上がる小さな粒が、このまま舐め溶かしてしまいたいという熱になる。応えるイルカが零す掠れた吐息に浮かされながら、壁で時を刻む時計の音に急かされて未練が募った。もっと、と強請る欲望を宥めながらカカシはイルカを開放した。

「・・・出発前に、止めてくださいよ、こういうのは」

互いの唾液に濡れた唇が言う。僅かに上気した目元は、睨むというより昨夜の深い交わりを呼び起こして甘い。

「ん。オレも煽られちゃった」

馬鹿、と笑う目に、心底惚れていると自覚させられるから困る。行きたくないなぁ、と呟けば、何言ってるんですか、と苦笑が返ってくる。

「任務ですよ。それに、1ヶ月なんてすぐです」

イルカの肩に顎を乗せて、カカシは訴えた。

「浮気しちゃ、駄目ですよ。絶対、許しませんからね」

「それは、昨日までにも散々約束したでしょう」

呆れたような声が耳に響く。

「だって心配なんですもん。先生もてるから。男も女も大人も子供も関係無く好かれるし」

「そんな事言うのはあなただけですって。第一、子供は別でしょう?」

「優先順位はオレより上でしょ。我儘もきいて貰えるし。羨ましい」

「・・・あなたの方がよっぽど子供みたいですよ」

遅れますよ、と肩を押されて、しぶしぶ離れた。額宛を巻き、手甲をはめ、身支度を整えて荷を背負うと、

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。御武運を」

玄関での遣り取りはいつもの事だ。

外階段を下りて、アパートの敷地を東へ回った。路地から見上げると、ベランダに立ってカカシを見送るイルカが、優しい笑顔で小さく手を振る。それに視線で答えたカカシは、

「さて、頑張りますか」

昼間の灼熱の予感させる日差しの下、集合場所へと背を丸めて歩き出した。

 

 

 

それは正しく、口が滑った、だった。

その夜は、互いに翌日が休日と分かっていたから、いつものようにイルカの部屋に上がり込み、遠慮なく勧めて遠慮なく飲んだ。常に無い深酒に、酔っているなという自覚もあった。自我を手放す程酩酊はしないが、確かに、自制は弱くなっていた。

初めて持った部下を介して知り合ったイルカに、恋をしていると自覚したのは、出会って間もない頃だった。最初は、里中に忌み嫌われた子を守り抜いた心の強さと明るさに惹かれた。その裏にある孤独感と、それ故の臆病さと優しさを知る頃には、想いは深くカカシの心に根付いていた。

恐らく、同じ孤独感がカカシの中にもある。境遇も過去も性格も違うが、自分一人で孤独と向き合い、積み上げてきたものが醸す心の色合いが似ていると、無意識に感じ取ったのかもしれない。

出会って三年、二人を取り巻く環境は少しずつ変わっていったが、カカシはずっと階級を越えた友人という立場をずっと守ってきた。付き合いを深めるにつれて、人懐っこい癖にどこか一線をひく所があるイルカが、次第に心を許してくれるのが分かって、それが何よりも嬉しかった。

一方で、カカシの本当の望みは、友人という立場では叶わないという事実に焦れてもいた。イルカの心と体の一番深い所が欲しい。だが、同性愛者でないイルカが、カカシを恋愛対象としてみる事は無いと分かっていたから、想いは喉を掻きむしるようで、イルカを失いたくないという切実な願いの分、余計に募った。

だから、最近友人の結婚式が続いて祝儀貧乏だと、相手がいないから出ていくばっかりだと笑うイルカに、つい、本当にうっかり、本音を漏らしてしまったのだ。

「好きです」

え?と問い返してきたイルカに、カカシは繰り返した。

「オレ、イルカ先生の事、好きなんです。だから、オレでよければ。勿論、祝儀は貰えませんけど」

カカシの言葉に、イルカは目をぱちぱちと瞬かせた。そして、カカシが自分の発言にうろたえる前に、酒精に赤く染まった顔でにい、と笑った。

「俺も、カカシさんが好きです」

その言葉を聞いた瞬間、カカシは一気に覚醒した。

自分が口にした内容とイルカの返答が、僅かに残っていた理性を叩き起こした。笑って冗談にすべきか、それとも、このまま押し倒して既成事実を作ってしまうか。カカシは、自覚している以上に自分が切羽詰っている事を思い知った。

答えを探して沈黙したカカシに、焼いた油揚げをつついていたイルカは、手酌で杯を呷った後ふにゃりとした笑みを向けた。

「・・・カカシさん。俺、好きだって言いましたよね」

頷いたカカシに、イルカは何度も赤く濡れた唇を舐めた。酔っているとは思えない程真っ直ぐカカシを見つめる瞳が潤んで見えた。

「・・・ひょっとして、冗談だったんですか?」

イルカの言葉の意味が分からなくて、カカシは首を傾げた。冗談だった、ではなく、そうするべきかどうか悩んでいたのだ。

「俺の事好きって言ってくれたの、冗談だったんですか?」

泣き出しそうな程濡れている癖に強かった視線が、不意に力を無くして伏せられた。

「・・・ごめんなさい」

は、と小さく息をついて、イルカは頬を歪めた。

「俺、酔ってて・・・真に受けて、馬鹿ですね。同情してくれただけなのに」

カカシさんが、俺の事好きだなんて、そんなのある訳ないのに。

まるで無理やり笑おうとしているかのように、イルカの赤い頬が震えているのを見て、カカシは、自分が大きな勘違いをしている事にようやく気付いた。

すぐには信じられなかった。カカシがずっとイルカを想っていたように、イルカもカカシに心を寄せていてくれただなんて、深酒が都合のいい妄想を見せているのだと疑わずにはいられなかった。

だが、カカシの目の前で、途方に暮れた表情を浮かべて俯くイルカは確かに現実だった。

「・・・冗談にしなくていいんですか?」

カカシの言葉に、イルカがゆっくりと顔を上げた。怯えと不安の入り混じった表情のイルカに、カカシは告げた。

「オレがさっき言った事は、冗談なんかじゃありません。初めて会った時からずっと、あなたの事が好きでした。でも、この気持ちのせいであなたを失う位なら、冗談だって笑い飛ばしてもいい」

イルカの唇が微かに戦慄いた。

「あなたが、大切なんです。本当に」

自分の気持ちより何より大事だから、絶対に失いたくない。そう言ったカカシに、イルカは何かを堪えるような微笑みを浮かべた。

「・・・俺、酔っ払い過ぎて、都合のいい夢見てんじゃないかな・・・?」

「オレも、同じ事思いましたよ」

見つめ合い、どちらともなく伸ばした指先が触れ合ったら、すべてが実感になった。

抱き込んだ体温は何よりも熱く、背に回された腕が強くカカシを求めてくれる事が、泣きたい程に幸せだった。

 

 

 

それから半年、遠回りした時間を埋めるように心と体を重ね合わせた。

求め、求められ。満ち足りる、という言葉の意味を実感する日々が、これからも永遠に続くと思っていた。

 

 

 

1ヵ月後、無事に任務を終えたカカシは、夜半に里に戻った。

いつものように自分の部屋には戻らず、イルカのアパートへと足を向けた。路地から見上げたイルカの部屋は暗かったが、受付が夜間シフトなのだろうと考えた。イルカは眠る時もいつも玄関の常夜灯だけは点していた。

外階段を上がり、玄関に鍵を差し込んだ時、小さな違和感を覚えた。そのままノブを回すと、かちり、という小さな音と共にドアが開いた。鍵を掛け忘れて出掛けたのか、それとも、いつもの習慣を忘れて眠ってしまったのか。どちらにしろ珍しいと思いながら、カカシは中に入った。

室内は暗かった。人の気配も感じられない。

だが、それ以上に。

「・・・・・・」

カカシの肩から、担いでいた荷物が足元に落ちた。無意識のうちに壁を探り、電灯のスイッチを押したが反応が無い。見れば、蛍光灯に接続するプラグがぶら下がっているだけだった。

「・・・何で?」

自分の目が見ている状況が信じられなくて、カカシは呆然と呟いた。

部屋には、何も無かった。

板張りの小さな台所から、居間、その隣りにある寝室。部屋を仕切る引き戸は開け放され、正面の壁にある窓から差し込む下弦の夜の淡い月光が、畳を四角に切り取っている。古びた壁紙と染みの浮いた天井。あるのは、ただ、それだけだった。

使い込まれた家具も、壁際に積み上げていた書類や巻物も、窓辺に吊るされていた色褪せたカーテンも、何も無い。家財全てが、イルカの部屋から消えていた。

そして。

現実が、自分の心臓を冷やしていくのをカカシは感じた。

カカシの帰りを待っていてくれるはずのイルカの気配も、どこにも無かった。

 

 

 

進む

 

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