それは、一年の半分を雪と氷に閉ざされた国の、むかしむかしの物語。

 

 

 

プロローグ

 

 

 

しん、と音さえ凍りつきそうな夜でした。

降り積もった雪を蹴散らして、一台の馬車が、深い森の中を駈けておりました。

御者は、馬に血が滲むほどに鞭を入れ、時折後ろを振り返っては、緊張に血走った眼で、行く先を睨みつけるように見遥かしました。

鬱蒼とした森は、枯れ木や枝や吹きだまりが行く手を阻み、深い雪が道を失わせます。いつしか、馬車は森を貫く街道を外れ、切り立った崖の傍を、森の奥へ奥へと走っておりました。

激しい震動に揺れる馬車の中には、一組の男女が座っておりました。

一人は、まるで人形のように愛らしい少女でした。豪奢な襟巻と絹のような金髪に包まれた小さな白い顔、宝石のように輝く蒼い瞳、赤い果実のような唇は、普段は輝くばかりに生き生きとしているのですが、今は恐怖に青褪めて、同乗者である青年の胸にしがみついておりました。

少女を胸に抱くのは、雪の結晶が人の形となったかのような、目を見張る程に美しい青年でした。

銀色の髪と陶磁器のような肌、精巧な彫刻のように繊細で冷厳ささえ感じさせる端正な顔立ちは、夜の闇の中に白く浮かび上がるようでした。その左目には、眉の上から頬へと走る大きな傷跡がありましたが、美しさを損なうというより、更に凄絶に際立たせるようでありました。

青年は、少女の婚約者でした。その証である深紅の石を配した指輪が、少女の指で輝いています。

馬車の小さな窓から見える、冴え冴えとした月が浮かぶ夜空に、狼の遠吠えが響き渡りました。御者が必死に馬に鞭をくれているのは、この執拗な四足の追っ手達から逃れる為なのです。

少女は、不安に震えながら、自分を抱きしめてくれている青年の顔を見上げました。青年は目を閉じたまま、表情も変えません。状況に動じていないというより無頓着であるようで、少女の胸を、名状しがたい不安が掠めました。

その時、馬が大きく嘶きました。

二頭の馬は何かに怯えたように後ろ脚で立ち上がり、勢いのついた馬車がそれに乗り上げるように横転しました。

そしてそのまま、奈落のような崖の下へと、馬もろとも転げ落ちてゆきました。

 

 

 

目覚めると、少女は大きなベッドの中に横たわっていました。

大きな窓から、青い月光が差し込んできます。広い部屋は時代遅れの装飾で古ぼけて見えましたが、暖炉には明々と火が入り、室内は十分に暖まっていました。ベッドの上には、着ていた毛皮のコートが置かれています。

誰かが、あの森から助け出してくれて、こうして面倒を見てくれたのだわ。

普段眠っているベッドとは比べ物にならない、固い手触りのシーツと重い毛布でしたが、少女はその温かさに安堵し、泣き出しそうになりました。

「・・・誰か、いないの?」

小さな問いかけに答えるように、ことり、と物音がしました。少女は物音のしたドアを振り返りました。

「!!!」

少女は、その眼に映ったものが一瞬信じられず、次の瞬間、身も凍る恐怖に総毛立ちました。

声を限りに、少女は叫び声を上げました。そして、ベッドから飛び出ると、窓を開き、裸足のまま外へ飛び出しました。

雪に足を取られながらも、少女は半狂乱になって目の前の森の中へ駆け込みました。遠くで、誰かが呼ぶ声が聞こえた気がしましたが、恐ろしくて振り返る事もできません。

月光のみが頼りの森は、木々の影さえ禍々しく恐ろしげに見えましたが、少女は無我夢中でした。

少女の耳には、いつしか、獣の呼吸が聞こえておりました。何かが、少女を追いかけてくるのです。

それに気付いた少女は、更に大きな叫び声を上げて逃げました。走って走って、深い吹きだまりに足を取られて、転びました。

泣きながら顔を上げると、身の丈が普通の狼の何倍もある獣が、真赤な口を開けておりました。

その鋭く尖った牙を見て、少女は、気を失いました。

 

 

 

翌日、少女は小さな村の入り口で発見されました。

雪の上ではなく、見張り小屋の戸口で気を失って倒れていたのです。体の上には毛皮のコートが被せられ、寒さから少女を守っておりました。

身なりからやんごとない身分だと判断した村長が、自宅へ運ばせ介抱しますと、すぐに少女は眼を覚ましました。

「化け物がいたの」

少女は、連絡を受け血相を変えて駆けつけてきた家来達に言いました。

「恐ろしい化け物よ。ギラギラした目に、毛むくじゃらの顔で、大きな牙が生えていたわ。最初は、部屋の中にいたの。それから、逃げる私を追いかけてきて、食べようとしたのよ。きっと彼は・・・あの化け物に食べられてしまったのだわ」

そう言って、しくしくと泣き続けました。

 

 

 

 

 

**********

 

 

 

 

 

1.

夢を見ていた。

暗い道を、一人歩いている。

見はるかして行く先も、振り返って来た跡も、何も見えない。

目的も知らず、ただ一人歩くだけの虚しい道だった。

ふと、遠くに、小さな光が見えた。

暖かそうな日溜まりの中で、二人の幼い子供が遊んでいる。

男の子と女の子が、地面に絵を描いているのか、しゃがみ込んで夢中で手を動かしていた。

無邪気な笑い声に吸い寄せられるように近寄ると、二人は立ち上がり、こちらに顔を向けた。

あどけない表情を浮かべた二人は、全身が、真っ赤な血に塗れていた。

土気色の顔を深い傷が抉り、新しい血がどくどくと溢れ出している。髪の毛は元の色が分からない程赤くぐっしょりと濡れ、仲良く繋ぎあった手も赤く染まり、身に着けている衣服は、血と泥で酷く汚れていた。

 

唇から迸ったのは、果たして悲鳴か、慟哭か。

 

それでも、子供達は笑っていた。

にこにこと、心底楽しそうに。幸せそうに、笑っていた。

 

 

 

カカシは、ゆっくりと眼を開いた。

いつもの、夢だ。何度も何度も繰り返し、カカシの眠りの中にやってきて、過去を呼び起こす。

忘れないで。あの笑顔はそう言っている。

忘れられる訳がない。過去は、今も、カカシの現在だ。

「起きたか?」

掛けられた声に視線を向けると、寝台の脇に黒髪の少年が座っていた。知らぬ顔だった。

「・・・誰?」

カカシの問いに、少年は返事をしなかった。ただじっとカカシの顔を見つめてくる。黒く光る瞳、短くはねた黒髪、年齢に似合わぬ程端正な顔立ちは聡明さを感じさせた。

ぼんやりとした思考が、ゆっくりと動き出した。

思い出す。馬車に乗って、夜の森を抜けていた。街を出る前に、夜の森越えは危険だと御者には何度も止められたが、彼女の我儘に勝てる訳が無かった。結局、御者は彼女が差し出した相場の3倍に相当する金貨につられて、馬に鞭をくれた。狼の群れに遭遇したのは、森に入って暫くしてからだった。御者は、車輪が壊れるかと思える程に馬を走らせたが、群れは執拗だった。遠吠えと荒々しい足音が、馬車の中でも手に取るように感じられた。と、いきなり馬が嘶いた。大きな音と同時に馬車が横転し、それから。

「・・・連れが、いなかった?」

我儘さえ特権である人形のような少女。

「女の人は・・・先に帰った」

先に?彼女が?驚いて身動きすると、息が詰まる程の激痛が右足に走った。顔を顰めたカカシに少年が告げた。

「足を痛めている。骨は折れていないけれど」

「・・・医者は?」

「心配するな。手当てはしてある」

医者に診せていないのか。カカシは覚束なさを感じながら、ゆっくりと視線を巡らせた。小さな暖炉の炎に照らされた部屋は薄暗い。低い天井には精緻な模様が描かれ、暗い色の板で覆われた壁は磨き上げられて鈍い光を放っている。古く使い込まれているが重厚な家具。少年の身なりは質素だが清潔だ。地方の豪農か古い商家の屋敷だろうか。

「ここは?」

沈黙。カカシは溜息をついて続けた。顔を顰めながら上半身を起こし、

「家に連絡を取りたいんだけど」

少年は首を振った。

「それは、できない」

「どうして?」

少年は初めて、困惑したような表情を見せた。

「・・・イルカ先生が、それは駄目だって」

「イルカ先生?その人が、ここの主?」

その時だった。

「お目覚めですか?」

若い男の声が聞こえた。

部屋の隅に衝立が立てられて、その向こうが扉になっている。声は、そこから聞こえてきた。

「気分はいかがですか。熱を出していらっしゃったので」

サスケありがとう、と男の声が言った。張りのある、弦楽器の穏やかさを感じさせるような声。少年は僅かに表情を緩め、立ち上がると衝立の後ろへ歩み去った。だが、部屋を出た様子はなく、男と一緒にカカシの様子を見守っているようだった。

男は、衝立の影から姿を見せようとしなかった。

「家に連絡を取りたいんだけど」

カカシは、再び要望を繰り返した。衝立の向こうの男は、ここの主だろうか。確かにカカシは招かれざる客かもしれないが、このまま姿を見せないつもりなのだろうか。

「家の者を迎えに来させれば、助けて頂いた十分な礼もできると思う」

「申し訳ありませんが、それはできません」

「何故?」

返事が無い。どうやらこの家の者には、自分達に都合の悪い事は沈黙する習慣があるらしかった。

「どうやら暫く歩けそうにないんだけど」

カカシは、分厚いキルティングの掛け布団に包まれた自分の足を見た。ほんの僅か身動きするだけで、激痛が走る。

「あの崖から落ちて、その程度の怪我で済んだのが幸運です」

男は静かに言った。二本の柱の間に飾り板を挟んだ型の衝立は、足元が僅かに透けている。そこに古びた黒いブーツが見えた。

「残念ですが、私達があなた方を見つけた時は、馬と御者の姿は見えませんでした。どうやら先に森を抜けたようです」

「やばいと思って逃げたんでしょ。金で雇った輩ですから、仕方ない」

カカシの言葉には、沈黙が返った。どうも、苛々する。

「家の者を呼んで頂けない理由は?」

沈黙。

「ならば、こちらでは物好きにも、歩けない見ず知らずの男の面倒を看て下さると?」

揶揄を滲ませた問いには、はい、という応え。

「怪我が治れば、近くの村まで案内します。そこから先はご自由になさったらいい」

辛抱強い声で、男はそれから、と続けた。

「礼は、言葉だけで結構です」

僅かに、声が低く、強くなる。

「恐らくあなたは、人にかしずかれて生活なさっている方なのでしょう。ですがこの子は、あなたの使用人ではありません」

衣ずれの音。少年の上着が垣間見えた。

「この子は、眠る時間を削って、見ず知らずのあなたの面倒を看た。恩に着せる訳ではありませんが、年長者として、労わって頂けると有難かったのですが」

カカシが返事をする前に、ドアが閉じる音と共に、男と少年の気配が消えた。

 

 

 

進む

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送