2. 男達が立ち去った後、程無く部屋に現れたのは、20歳半ばのハウスメイドと思しき女性だった。手の盆に、湯気の立つ皿を載せている。食欲をそそる匂いが、カカシの鼻腔をくすぐった。 彼女は、盆をサイドテーブルに置くと、部屋の隅にあったコの字型の木製の家具を運んできた。下部分をベッドの下に差し入れると、丁度、上半身を起こしたカカシの体の前でテーブルのようになる。 「熱いから、気をつけて」 その上に差し出された皿の中は、小さく切ったジャガイモと人参と鶏肉のスープだった。口に含むと、優しい味が全身に染み込んでゆく気がする。 「お客人を見つけたのはサスケとナルトだよ」 無言でスプーンを動かすカカシに、メイドは、随分と気さくに話しかけてきた。 彼女が身につけている衣装は、確かに使用人のそれだが、彼女の口から出てくる言葉は、とてもカカシの家で使っているメイドとは似ても似つかない。少なくともカカシの家の者は曲がりなりにも客人の立場の者に向かって勝手にこんなに喋らない。 「狼がやたら騒ぐからさ、二人が森に見に出たんだ。お客人は運が良かった。二人じゃなきゃ、とても見つけられない場所に落ち込んでたらしいからさ。翌朝には、凍死してるか狼の胃袋の中だったろうね」 「・・・あんな子供を、狼のうろつく夜の森に出したのか?」 サスケはどう見ても十代前半だ。ナルト、という人物が何歳でも、夜の森で狼の群れに敵う人間はいないだろう。 だが、彼女は、ナルトがいるからさ、と肩をすくめただけだった。その栗色の視線は、カカシの方を向きながら、僅かにずれている。 「目が、よくなくてね」 カカシの沈黙の意味を汲んで、彼女は言った。 「全く見えない訳じゃなくて、物の輪郭や色合いは分かるから」 お客人はどこもかしこも白いね、と彼女は笑った。 「こんなだから、行き届かないところがあるかもしれないけれど、我慢しておくれね」 「・・・・・・」 「それと、怪我人としての当然の権利は遠慮なく主張しとくれ」 我が儘は聞かないけど、と本当にメイドらしくない事を言って、彼女は空になった皿を満足気に、部屋を出て行った。 腹が満たされたせいか、急に眠気が襲ってきて、カカシはそのままベッドに沈んだ。 夢も見ない深い眠りだった。 長く味わう事の無かった満たされた気持ちで眼を開くと、寝台の傍らに少年が座っていた。 濃い金色の髪は奔放に跳ね、瑞々しい生気に満ちた青い瞳がじっとカカシを見つめてくる。年頃は、サスケと同じ10代前半に見えた。 「熱があるようなら、これを飲めって、イルカ先生が」 指し示された脇机の上に、小さな包みと水差しが置かれていた。 「・・・いや、熱は無い」 「足は?」 薬草の湿布を貼られた部位は、動かさなければ痛まなかった。 「大丈夫。・・・ずっとついててくれたのか?」 「目が覚めた時に一人じゃ寂しいだろ、ってイルカ先生が」 「イルカ先生、というのは・・・あの男の事?」 衝立の向こうから姿を見せない男。少年は、困ったように眉を下げて、 「・・・そうだよ。でも、仕方無いから」 「仕方無い?」 「・・・これ以上は言わない。イルカ先生も、あんたも、嫌な思いするから」 少年は、更に困った表情を浮かべた。隠し事が苦手な、純粋な子なのだろう。カカシは、それ以上の追及を諦めた。 立ち去る間際のイルカの言葉が、カカシの胸に残っていた。彼の言葉にあったのは軽蔑だろうか、それとも悲しみだろうか。いくらそんなつもりはなかったと言っても、サスケに礼を言わなかったのは事実だ。カカシが生きてきた立場が、見知らぬ場所で床に伏せるという常では無い状況で、無意識の傲慢さとなって現れた。 詫びたい、と心から思った。しかしそれは、少し違うのだとも分かっていた。 「・・・ありがとう」 カカシの言葉に、少年は照れたように笑った。太陽のように朗らで表情が豊かだ。椅子に座ったまま上半身を左右に揺らし足をぶらぶらさせている。じっと座っているより、外を駆け回るのを好む気質なのだと窺い知れた。 「痛くない?」 再び、少年が言った。 「何が?」 「顔の、傷」 カカシの顔には、左の眉から頬にかけて、筋のような傷跡が残っている。既に皮膚と馴染み、鏡を見るか初対面の人間の視線がなければ、意識に上る事はない。 「・・・もう、古い傷だから」 カカシがそう答えると、少年はどこか寂しそうに言った。 「傷ってさ、できたばっかりの時も痛いけど、治った後でも痛くなる事があるだろ・・・思い出したりした時とかさ」 意外な気がした。もしかして、この子供にもそんな傷があるのだろうか。心に深く刻み込まれて、永遠に治らないと思える傷が。 カカシの顔に走る傷は、同時に、カカシの心も同じように抉った。顔の傷は塞がったが、心の傷はかさぶたにさえなる事なく今もずっと血を流し続けている。 罰だ。カカシが犯した罪に対する罰。しかし、命を失ったあの子達に比べれば何と軽いのだろう。 「大丈夫だから。・・・ありがとう」 カカシの言葉に、少年は、にしし、と照れたように笑った。 「名前は?」 「オレはナルト。早くよくなるといいな」 その子供らしい純粋な労りに、カカシの心に小さな灯りが灯ったような気がした。 「寝てばかりでは退屈でしょう?」 イルカの言葉と一緒に、サスケとナルトが運び込んできた本の山に、カカシはため息をついた。イルカは、やはりドアの前の衝立から姿を現さない。 「これを読めと?」 山の一番上はディケンズだ。 「読書は嫌いですか?」 「好きな本以外は嫌いです」 タイトルを告げると、衝立の向こうから辛抱強い声が聞こえた。 「申し訳ないが、この家には、身動きの取れないあなたに提供できる娯楽はこれしかないし、あなたの意向に合わせて新しい本を用意するつもりもありません」 ドアが開き、イルカが立ち去る気配がした。 「ちょっと・・・」 もう少し。思わず、カカシは声をあげた。もう少し、イルカと話していたい。しかし扉は、無情に閉まった。 「どうした?」 肩を落としたカカシに、サスケが首を傾げた。 「・・・いや。イルカ先生は、随分気が短いんだな」 「イルカ先生を悪く言うと許さない」 サスケが、硬い表情を浮かべた。 「他人なのに、身寄りの無い俺達の面倒を看てくれているんだ」 「イルカ先生は優しいんだってばよ。怒ると怖いけど」 子供二人が睨んでくる。カカシは頭を掻いた。 「・・・この家には、他に誰かいるのか?」 「コユキさんとコハルさん」 女性がいるのか。カカシは窓の外の景色を思った。深い森の中、恐らく人里からもかなり離れている。 「コハルさんは、亡くなった大旦那様の父親の代からこのお屋敷の家事を仕切ってるんだって。コユキさんは、眼を悪くして他のお屋敷から追い出されたのを、大旦那様が雇い入れたんだ」 ナルトの言葉に、カカシに話し掛けてきたハウスメイドを思い出した。 「大旦那様というのは?」 名前が分かれば、ここがどこなのかが分かるかもしれない。しかし、口を開きかけたナルトを、サスケが小突いた。 「イルカ先生に止められているだろ?」 そして、サスケはカカシに向き直り、どこか懇願するような声音で言った。 「あんたの足が治るまでちゃんと面倒を看る。だから、余計は詮索はしないでくれ」 |
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