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子供二人とコユキは、甲斐甲斐しくカカシの世話をした。

食事を運び、足の手当てをし、用を足す手助けをして、温かいたっぷりの湯でカカシの身体を拭いた。寒い思いをしないようにと、部屋には沢山の薪が運び込まれ、部屋の暖炉はいつも赤々と火が燃えていた。質素だが清潔なシーツ、しっかりと厚みのある布団、キルトの肩掛けに柔らかな夜着。豪華ではないけれど手間を惜しまず料理された温かな食事と、子供同士の他愛の無い口喧嘩に、コユキの笑い声。そして、姿は見せないが、カカシに提供される全てに気を配っているイルカの存在。義務感では無い温かで優しい労わりが、ここにはあった。

部屋には時計が無く、カカシは運ばれてくる食事と窓の外から差し込む太陽の位置で時間を判断していたが、すぐに意味が無い事に気付いた。日付を確認するのも止めた。

ここでは、不思議な程によく眠れた。身体を動かさないから疲労は無いはずだが、夕食を取ってしばらくすると眠気が襲ってくる。眠りは夢を見ない程深く、カーテン越しに差し込む朝日で心地よい目覚めを迎えた。

満たされている。

後継ぎと呼ばれながら父親の会社に詰める時よりも、相場の値動きを読む時よりも、社交界で女性達からの秋波に溺れる時よりも、この穏やかな退屈が、カカシの心の隅々にまで温かな何かを行き渡らせていた。

ふと、笑い声が聞こえて、カカシは読んでいた本から眼を上げた。結局マルケスを手に取って、夢中になってしまっていた。

ベッドの正面にある窓から外のテラスに出られるようになっている。テラスを囲む柵の向こうは庭らしいが、今は雪に埋もれていた。庭はそのまま深い森へと繋がっている。

降り積もった雪の上を、ナルトが笑いながら走って来るのが見えた。そして、テラスの脇にフードを被った背の高い後ろ姿が現れた。

「あ・・・」

思わず、声が漏れた。

「イルカ先生?」

カカシは慌ててベッドから起き上がろうとした。負傷した足に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめて堪える。

駆け寄ってきたナルトと窓ガラス越しに目が合って、ナルトが満面の笑みを浮かべた。拙いと思う間もなく、フードの後ろ姿は驚いたように身体を揺らすと、慌てた様子で足早にテラスを離れ、カカシの視界から消えた。

「・・・どうして」

カカシは呆然と呟いた。胸が、重しを乗せられたように苦しくなった。

そんなに嫌なのか。嫌われているのだろうか。

確かに招かれざる客だろう。狼がうろつく夜の森を抜けようとする愚か者だ。初対面の時は無礼だったし、本を運んでくれた好意に対して我儘で返した。全部自覚している癖に、示してくれる細やかな気配りに甘えて謝罪もしていない。

自分の心根の傲慢さに、消え入りたいような気持だった。銀のスプーンをくわえて生まれたと形容される出自。今まで、身の回りの始末で自分の手を煩わせた事も、不自由な思いをした事も無い。それを当然だと思い疑いもして来なかった結果がこれだ。自分自身が、余りに恥ずかしかった。

カカシはのろのろと、はずみで床に落ちた本を拾い上げた。

もし、会いたいと言ったら、イルカは来てくれるだろうか。

来てくれたら、きちんと謝罪して、こうして面倒を看てくれる事への感謝を伝えたい。それから。

それから、イルカの事を知りたい。イルカと言う名と、その深い優しさと、垣間見える激しさ以外に、カカシはイルカの事を何も知らない。だからどんな些細な事でも構わない。イルカという人間を知りたい。

嫌われる事しかしていない癖に、イルカの赦しが欲しい。示してくれる心配りの裏にある、彼の本心が知りたい。

せめて、その笑顔を一目見てみたい。

願いながらカカシは、窓の外を見つめ続けた。

その夜、何千回と見た夢が、再びカカシの元を訪れた。

暖かそうな日溜まりの中で、手を繋ぎ合った子供達が血に塗れた顔をカカシに向ける。過去からの影は、繰り返し繰り返し、同じ姿でカカシを責め立てる。

血塗れの二人は、どうして笑う?

自分の叫び声で、カカシは目を開いた。

部屋は暗く、まだ夜が深かった。暖炉の炎が壁と天井に不可思議な影模様を描いて揺らめいている。天井を見上げたまま、カカシは胸に疼く痛みを堪えた。

忘れる事などできないのだ。これが許されない罪に与えられた罰ならば、カカシの夜に、生涯安寧は訪れない。

ふと、気配を感じた。

視線を巡らせると、衝立の向こう、入口のドアが開いていた。

「・・・誰?」

衣擦れの音がして、ドアが閉まった。

「うなされる声が聞こえたので」

衝立の向こうから返ったイルカの声に、カカシは大きく息をついた。

イルカの声を聞いた瞬間、今まで胸に渦巻いていた不安と悲しみが溶けるように消えた。

酷く安心した。

イルカの存在に。イルカがそこにいて、母親のように見守っていてくれる事に。

イルカが、労わるように言った。

「夢を見ていたんですね」

「・・・夢ではありません」

カカシはゆっくりと首を振った。

過去にあった現実だ。

意識せず、カカシは話し始めていた。

 

 

カカシが子供の頃、郊外にある母方の伯父の別荘に避暑に訪れるのが習慣になっていた。

そこで働く使用人に、二人の子供がいた。男の子の名をオビト、女の子の名は、リンと言った。

年齢が近く、カカシの父が寛大だった事もあり、伯父の屋敷で過ごす夏の間、三人はいつも一緒だった。晴れた日は伯父所有の野山を駆け回り、雨の日は広い屋敷で隠れ鬼に興じ、メイド達に悪戯をして執事に叱られたりした。

その夏も、去年までと同じように楽しい日々となるはずだった。

「来るならさっさと来いよ」

先頭に立って歩くカカシは、そう言いながら後ろを振り返った。

「危ないよ・・・早く帰ろうよ」

「この辺りは来てはいけないって、旦那様に言われているのに・・・」

オビトとリンは、恐る恐る周囲を見回しながらカカシの後を追っていた。

「だったらお前達は先に帰ってろよ」

「でも・・・」

この辺りには珍しい熊の親子がいたと、狐狩りに出た父親が話していた。それを一目見たいと、カカシは森の奥へ足を踏み入れていた。

「お前達も見たくないのか?熊だぜ?親父たちが狩ってくる鹿や狐とは比べ物にならないくらいでかいんだ」

「でも・・・赤ちゃんがいるんでしょ?危ないよ」

リンが、カカシの上着の袖を引っ張った。子育て中の獣は警戒心が強く気が立っている。

「だから、お前達は先に帰ってろって」

カカシは、リンの手を癇性に払いのけた。子供らしい無鉄砲さと、その育ちから怖れを知らぬ傲慢さで、さらに歩みを速めた。

「熊なんか大した事ないって。前に、動物園で見たライオ・・・ン・・・」

言いながら藪を掻き分けた先、すぐ目の前に、黒い小山のような塊があった。

カカシの倍以上ある体躯。低い唸り声が響き、毛に埋もれた真っ黒い目が、カカシを捉えた。

逃げる、と考える間も無かった。

があ、という咆哮と同時に、いきなり視界が塞がれた。次の瞬間、カカシの身体は後に吹っ飛ばされた。

何が起こったのか分からなかった。だた、顔が焼かれたように熱くなった。

左目が開かない。動揺するカカシと獣の間に、何かを叫びながら、小さな身体が走り込んできた。

リン、そう思った瞬間、その背中が宙を舞った。

「カカシ、逃げろ!」

叫びながらリンの後に続いたオビトの身体に、熊の大きな掌が叩きつけられた。

響き渡った悲鳴は一体誰のものか。

目の前に転がる二つの小さな体。さっきまで元気にカカシの後ろを歩いていた身体が、血に塗れ、びくびくと痙攣し、次第に動かなくなっていく。

獣の唸り声が近付いてくる事にも気がつかず、カカシはただ、二人を茫然と見つめていた。

 

 

ぱちぱちと、暖炉の火が爆ぜた。

カカシは、左目の上に走る傷跡に手をやった。

「丁度、帰りが遅いオレ達を心配した伯父達が駆けつけて、熊は逃げ去りました。オレの怪我は、熊の爪に引き裂かれた顔の傷だけでした」

「・・・・・・」

「二人は、腹をやられて酷い出血で、頭も打っていて・・・助かりませんでした」

オレのせいです。影が揺れる天井を見つめ、カカシは言った。

自分の愚かさが、大切な友達を死に追いやった。どれだけ神に祈っても、無尽蔵の富を持つ父に縋っても、絶対に取り戻せない事があると残酷に思い知らされた。

その後カカシはすぐに街に戻され、二人の葬儀にも出席を許されなかった。父親は何も言わなかったが、伯父が二人の親に金を積んで屋敷から追い出した事を使用人の噂話で知った。

「その夏以降、伯父の屋敷に行く事はありませんでした。誰もその話には触れず・・・誰も、オレを責めなかった」

イルカが、静かに言った。

「だから、ご自分でご自分を責めていらっしゃるんですね」

カカシは、シーツの中で両手を握りしめた。

カカシが貴族の息子だから。

二人が使用人の子供だから。

大切な命には変わりないのに。寧ろ、命を掛けて友達を助けた彼らの魂は何て尊く、助けられた命をのうのうと無為に浪費する自分は、何と愚かで傲慢なのか。

「・・・もう、何年も経つのに、オレは・・・」

ずっと引きずっている。こうして夢に見る程。あの夏の日、二人と一緒に森へ入り込んだあの時へ戻りたいと、ずっと叶わぬ願いを胸に立ち止まっている。

「時間は関係ありません」

イルカが、僅かに口調を強めて言った。

「身体の傷は時間が経てば消えますが、心の傷は、そうではありません。癒やす為に必要なものがあるんです」

子供に言い聞かせるような、確かな声。

「それは愛情だったり、労りだったり、慰めだったり」

赦しだったり。そう言ってイルカは、優しく微笑んだようだった。

「その子達は、あなたの事が大好きだったんですね」

大好き。

イルカの言葉が、カカシの心に小さな波紋を起こした。

波紋は次第に大きく広がり、カカシの裡一杯に吹き荒れる嵐となった。

大好き。

そうだ。オレも、二人が大好きだった。

やんちゃな癖に臆病な所があったオビト。一番年下なのにやたらお姉さんぶってカカシを窘める優しいリン。思いだすのは満面の笑顔ばかりだ。

きっと、怖かっただろう。恐ろしかっただろう。

それでも、二人は立ち向かった。カカシを庇って、その小さな両手を一杯に伸ばした。

「・・・そう、でしょうか」

声が震えた。

「はい」

力強い肯定に、カカシの胸が激しく締め付けられた。

「その子達は、大好きなあなたを、守りたかったんです」

ただ、それだけ。

「だから、大好きなあなたが、そうやって苦しんでいる事を、きっと哀しんでいますよ」

カカシの心の奥底。

今まで誰にも気付かれる事無く、たった一人、後悔と懺悔に凝り固まり、しゃがみ込んで泣き続けていた幼いカカシに、優しい手が差し伸べられた。

眼の奥が熱くなる。みっともないと思いながら、それでも、込み上げてくる熱いものを抑えきれない。

嗚咽を漏らしたカカシに、

「ここにいますから」

イルカはただ、それだけを言ってくれた。

 

 

 

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