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5. 「なぜ、私を選んだの?」 面白がっているような表情で、女は言った。 「・・・少し、聞きたいことがあったので」 イルカが隠さず答えると、 「多分それは、私が言いたい事と同じのはずよ」 二人きりの部屋に、女の満足そうな笑い声が満ちた。 イルカの指名を受けた女は、女たちの微妙なざわめきの中、シュンドウに小さく頷いて、優雅な仕草で立ち上がった。 「では、うみのさん、ゆっくりと」 笑顔を取り戻したシュンドウに見送られ、イルカは、先に立って部屋を出た女の後に続いた。 女は無言のまま、イルカを離れの奥に案内した。 廊下を進む女の背中を見ながら、やはり遊郭の女性ではない、と確信した。遊郭独特の裾を引きずる長い着物の捌き方に、不慣れな感じがあった。 案内された部屋は、先程よりはこじんまりとしていたが、置いてある調度品は最高級のものだった。 敷物の上に向かい合わせで座って、ようやく女は口を開いた。 期待通りの女だった。 「まだるっこしいのは嫌いなの」 ミスズと名乗った女は、きりり、とした視線でイルカを見た。 「私は言いたい事を話すし、聞きたい事を聞くわ。だから、あなたも、わからない所を質問して頂戴」 アカデミーの先輩教師のくの一に似ている、とイルカはちらりと思った。 「・・・売上1733億両、経常利益175億両、純利益98億両。この数字、分かる?」 イルカは、記憶の中で資料をめくった。 「・・・簑輪屋の昨年度の決算ですか」 「この会社が、自分のものになる。そう言われたら、あなた、どう思う?」 「一般的には、嬉しいんじゃないでしょうか」 「一般的じゃなくて、あなた自身は、どう思うの?」 イルカは戸惑った。今まで考えたこともない。考える必要のなかった事だ。 「・・・考えた事がないので、すぐには答えられません」 素直ね、とミスズは何故か嬉しそうに笑った。 「でも、今すぐ考えて頂戴。あなたには、簑輪屋を手に入れるチャンスがあるの」 イルカは、ミスズの言葉に肩をすくめた。 「何だか、本気でおっしゃってるように聞こえますが」 「本気よ」 ミスズは、艶やかに微笑んだ。 「現実なの。あなたには、簑輪屋の後継者になる資格がある。だから簑輪シュンドウは、私の父は、あなたをここへ呼んだのよ」 言葉は、イルカの耳に入ってからも、なかなか意味を成さなかった。 じわり、と衝撃が襲ってきた。 俺が、簑輪屋の後継者?意味が分からない。 イルカは、動揺を抑えて、もう一つの驚きを口にした。 「・・・親子だったんですか」 えぇ、とミスズは小さく頷いた。 「・・・にわかには信じられないでしょうから、順を追って説明するわ」 ミスズは居住まいを正した。 「あなたもご存知だと思うけど、父は、簑輪シュンドウは、仕事と女にしか興味がない男だったの。その仕事ぶりはワンマンで、部下の誰にも口出しさせない。全部自分が決めて、全部自分で片付けてしまってた。永遠に、そうやって働いていけるって思ってたのね」 でも、とミスズは続けた。 「丁度半年前、父は生死の間をさまよう大病を患ったの。簑輪屋はがたがたになりかけたわ。仕方ないのよね、父だけが会社を動かしていたんだもの。幸運にも、決定的になる前に父は回復した。そしてようやく、父も自分の命に限りがあることに気がついたのね。急に、後継者選びを始めたわ」 極端なのよね、とミスズは笑った。確かに、簑輪屋が入院したというニュースを聞いた覚えがあった。その時に後継者の話題も出ていた。 「私の兄弟姉妹は全部で17人もいるの。多いでしょ?父は、特に若い女が好みだから、とっかえひっかえ手を出しては、飽きて捨てる。女とやれば子供ができるって事に頓着しないから、こんな人数になっちゃって」 ミスズの口調は、まるで屈託がなかった。 「全員腹が違うんだけど、皆すごく仲良しだったの。だって全員、父に省みられることがなかったから。養育費はきちんと払ってもらっていたけれど、可愛がられた記憶も、叱られた記憶もない。父は、本当に自分の子供にさえ興味がなかったのよね」 彼女を憐れに思うことは間違っている。イルカは眉を寄せた。 「でも、3ヶ月前、父が後継者を決めると宣言した時に、私達はライバルになった。父は言ったわ。実力のある人間しか認めない。血縁にも拘らない。自分の子供だからといって、甘くは見ない、って。本当に、簑輪屋を大きくすることにしか興味がない人なのよね」 ミスズは、イルカの表情を見て、くすりと笑った。そんな顔しないでよ、私は楽しいんだから。 「楽しい?」 ミスズは晴れ晴れと微笑んだ。 「政略結婚の道具にされるのがオチの人生が、180度変わったわ。父は今まで、女を愛玩動物位にしか思ってなかった。その父に、女の私を認めさせてみせる、そのチャンスなの。だから、今日の茶番にも、自分から志願したのよ」 「・・・茶番」 ミスズはいたずらっ子のように笑った。 「兄貴や弟たちは、はっきり言って馬鹿ばっかり。姉や妹たちに至っては、自分の力を磨こうともしていない。適当な男を見繕って父のところに連れて行くのが関の山。父は既に愛想を尽かしたわ。そして、自分が見込みがあると思う人間に、片っ端からアプローチし始めた。あなたがここに呼ばれたのは、そういう理由なの」 つまり、お家騒動に巻き込まれたということか。 「父は、あなたの事を特に気に入ってるわ。懐柔しようとして女をあてがうなんて、父らしい発想だけど」 何てことだ。イルカはため息をついた。果たして三代目はどの程度ご存知なのか。 「私は、あなたの意志を確かめたかったの。簑輪屋に興味があるのか、ないのか。ないなら大変結構。私の手間も省けるわ。あるなら、ぜひ私と同盟を結んでもらえないかしらって」 「同盟、ですか?」 「そう。私と結婚して、一緒に、簑輪屋を世界一大きくしましょう、ってね」 イルカは思わず苦笑した。何を言い出すかと思えば。 「でも、俺があなたを選ばなかったらどうしてたんですか?」 ミスズは、う〜んと言いながら、指を唇にあてた。 「そこら辺は、なんて言うか、自信あったのよね。一年前、父の職場であなたを見かけた事があるの。その時は、あなたが忍なんて知らなかったけれど。最初は、温厚で優しそうな人だと思った。でも、情の強い、厳しいところが見えた。あなたは、慰めを与えるだけの女性は選ばない。共に戦える人間を伴侶に選ぶタイプだって」 イルカの脳裏に、銀髪の男が浮かんだ。伴侶と呼ぶのはおこがましい。だが、彼となら、戦場でも安らぎを感じられるだろう。命をやり取りする、研ぎ澄まされた感覚の中ででも、彼への信頼は揺らぐことがないだろう。 イルカは、目の前の女性を見た。父親の愛を求めて、たった一人で、夢中でもがいている。 自分は、愛するものに愛されて、何を恐れることがあるのか。 波紋が静まるように、カカシに対するイルカの心は定まった。今この瞬間なのが、我ながら可笑しかった。 「質問に、答えてくれるかしら?」 ミスズが言った。 「簑輪屋に興味はある?」 いいえ、とイルカは首を振った。 「俺はそんな器じゃありません。それに、忍としてしか生きられませんから」 そう、とミスズは初めて寂しげな表情を見せた。 「あなたとは、いい同志になれそうだと思ったのに」 返答に困り、申し訳ありません、と答えたイルカに、ミスズはくすくすと笑い出した。 「父には、私から伝えておくわ。里の頭領さんに、迷惑をかけたと、謝っておいてくれるかしら」 イルカは、はい、と頷いた。 その時、微かな気配がイルカの首筋を撫でた。 どうかしたの?と言う問いを手で制して立ち上がり、静かに左手の障子を開けた。 外は、広い中庭になっていた。 月光が趣向を凝らして配された木々を照らしている。目を凝らすと、向こうの松の木の影に、銀色の光が見えた。 まさか。額宛と口布に隠れて、顔は右目しか見えない男が立っていた。どうして、こんな所にいるんだろう。あぁ、そう言えば。 その右目が、奇妙な形に眇められたのを認めた瞬間、誰かいるの?とミスズに袖を引かれて振り返った。大丈夫ですと答えて視線を戻すと、確かにいたはずのカカシの姿はかき消えていた。 ほんの微かにチャクラの気配が残っている。見間違えた訳じゃない。幻でもない。火の国での任務は今晩までのはずだ。だが、なぜ、ここに。 首を傾げたイルカは、とんでもない事に気づいて青ざめた。 もしかしなくても、これは、非常にまずい状況なのではないだろうか。 返事を約束した夜に、遊郭で、美しい女性と一緒にいる。 俺だったら、絶対に誤解する。絶対に、必ず、強烈にする。 本当にまずい。頭を抱えたイルカを、ミスズが不思議そうに見上げた。 「イルカよ」 「はい。何ですか?」 問い返したイルカを、火影は情けないような表情で見た。 「いい加減、機嫌を直さんか」 「・・・どういう意味ですか?」 「眉間の皺じゃ。皆が恐がっておる」 昼下がりの受付所は、表の爽やかな天気とは対照的に、重苦しい空気に包まれていた。 原因は、溜まっている事務処理を手伝う為に休日出勤しているイルカだった。同僚達が今まで見たことのない不機嫌さで、事務的に手を動かしている。 無論、休みを潰されたことで怒るようなイルカではない。普段気長で温厚な彼をこれほど怒らせるものは何なのか。予想もつかない同僚達は、ただただ、恐れおののくだけだった。 イルカは、火影をちらりと見た。 「子供じゃないんですから。そういう言い方は止めてください」 恐い。同僚達はいたたまれなくなって、ついに席を立った。書庫に行ってきます、とそそくさと部屋を出て行く背中達に、火影はため息をついた。二人だけになった部屋に、イルカのペンの音だけが響く。 「イルカ、お主、自分をいくつだと思っておる」 「・・・・・・」 「自分の機嫌が悪いのは自分の勝手じゃ。その自分の勝手な都合を、人に押し付けるんじゃない」 ペンの音が止まった。 「・・・申し訳ありません」 小さい声が返ってきた。見ると、目元を手で隠している。泣いている訳ではなさそうだが、その肩は力なく落ちていた。 「・・・何か、あったのか?」 「いいえ」 「そんな様子で、いいえと言われてもな」 「・・・申し訳ありません」 火影は再びため息をついた。頑固なイルカがこういう返事を返してくるときは、言うつもりはないということだ。 最初は、簑輪屋の一件が原因かと思った。 火影は簑輪シュンドウの意図を何も告げずに、イルカを送り出した。 1ヶ月程前から頻繁に届くようになったシュンドウからの手紙には、イルカを簑輪屋の後継者候補の一人としたいとあった。 火影は無論断った。イルカが里にとってどれほど貴重な人材か、また、忍が里から抜けることがどれほど困難かを、何度も説明した。だが、シュンドウは諦めなかった。終いには、本人の希望を尊重すべきだと言い出した。 流石の火影にも、会社経営のノウハウはない。ただ、人の上に立つ才覚、というものはどんな組織にも共通してあると思っていた。シュンドウが、イルカのどの部分に惹かれたのかは知る由もないが、イルカが無自覚に持っている人心を掴む能力は、確かに得難いものだろう。 仕方ない、と火影はイルカをシュンドウの元へ行かせることを承諾した。 火影は、イルカが教師の道を選んだ時のように、自分自身の意思で人生を選択してもらいたいと思っていた。だから、シュンドウの意図は伝えなかった。そうやって出した結論なら、シュンドウも納得するだろうとも踏んでいた。 そして火影は、イルカの選択なら、どんな結果でも尊重するつもりだった。 帰って来たイルカは、火影様黙ってるなんてずるいですよ、と笑った。それで、よかった。 火影は首を捻った。昨日、シュンドウから詫びの手紙も受け取った。簑輪屋に関しては何ら問題はないはずなのだが。 簑輪屋から帰ってきた時から、イルカは元気がなかった。そして、日を追うごとに、いつもの朗らかさが鳴りを潜め、ぴりぴりした空気を身に纏うようになった。 痩せたのか細く見える横顔を見ながら、火影は言った。 「いつもなら、自分の感情より、人の気持ちを尊重するお主だ。たまには、そうやって、自分の感情を表に出すのもいいかもしれん」 イルカの肩ががくりと落ちた。顔を両手で隠し、小さい声で言った。 「・・・火影様、お願いがあります」 「なんじゃ」 しばらく躊躇していたが、イルカは口を開いた。 「・・・暗部の事をお聞きするのは、許されないと存じてます」 「そうじゃな」 「・・・ただ、一つだけ・・・はたけ上忍は、今も暗部の仕事をなさってますか」 火影は顎の髭をしごいた。 「答えられんの」 イルカは動かなかった。 |
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