3.

写輪眼のカカシ。近隣諸国にまでその名を轟かせる、木の葉の宝。出逢った時に抱いたのは、純粋な憧憬だった。

上官と部下。同性同士。本来なら、憧れだけで終わるはずのその想いは、カカシに思わぬ形で求められた時に、その質を変えた。

初めて夜伽に呼ばれた夜、初めてカカシの素顔を見た。綺麗な顔立ちをしていると思った。触れられても、口付けられても、嫌悪感はわかなかった。ただ、恐ろしくて、震えていた。

施される行為による、肉体的な痛みへの不安もあった。だがそれ以上に、自分の中に芽生えた感情が、恐ろしかった。

遠く憧憬の対象だった男が、自分の目の前に立ち、自分のこの体に欲を持って触れている。その事実が、イルカの中に言い様の無い高ぶりを生んだ。

嬉しいと、全身が感じた。

だが同時に、カカシにとって自分が、ただ肉欲の捌け口でしかないだろうという事も理解した。そうでなければ、こうして触れ合える相手ではない。カカシの愛撫に翻弄され、求められる事に震える程の喜びを感じる自分に、イルカはそう言い聞かせた。

例えようもない幸福感と、絶望。

生まれて初めて知ったその相反する二つの感情に、イルカは竦むような恐怖を感じた。この任務を離れれば、すべてが終わってしまう関係。カカシに与えられる幸福に未来はなく、自分が感じる絶望には果てがない。まるで救いがないと思った。

ならばどうすれば、傷つく事に怯える自分の心を守れるのか。

イルカは、その恐怖の根本にある感情から、目を逸らした。なぜ、カカシに求められて嬉しいのか。なぜ、カカシにとって自分が、戦場での肉欲の捌け口にしか過ぎない事が悲しいのか。その、なぜ、を考える事から逃げた。考えた所で、カカシとの道が開けるはずがない、と無意識に自分に言い訳した。

ただ、任務として。求められるから、差し出す。それだけを考えていようと思った。

そのくせ、体を奪われる度、なぜ自分なのかと、カカシに問うた。戦場での性欲処理に、己の欲を吐き出す以上の意味があるはずがないと知っていながら、その問いを繰り返した。

何て狡く、浅ましい。それが、してはいけない期待の裏返しだという事に、あの時の自分は気付いていたのだろうか。

本当に愚かな自分。カカシが欲しかったくせに。その心が欲しくて堪らなかったくせに。

戦場でのその場限りの関係ではなく、心を通わせる相手として自分を見て欲しいと、叫びだしたい様な激しさで願っていたくせに。

今更ながらに、思う。そうやって、彼を求める気持ちが、恋でなくて、一体何だというのだろう。

もっと早くに、それを素直に認めていたら、3年間抱え続けた、この砂を噛むような後悔も、もう少しましなものになっていたかもしれない。

 

 

 

ざあ、と薄桃の花びらが舞い散る。

くるくると美しい螺旋を描き、ふわりと浮き上がって、地面に落ちる。足元は桃色の道。

アカデミーの正門の前に1本だけ立つ桜の木は、吹く風に枝を揺らし、盛りを過ぎた名残の花びらを惜しげもなく空に散らした。

散る花を惜しいと思うのは人の感傷。哀しいのは人の心であって、散る花ではない。

そうぼんやりと思いながら、揺れる桜の枝を見上げ、イルカは小さく息をついた。昨日は一睡も出来なかった。

眠れるはずがない。死んだと思っていた人が、それでも忘れられなかった人が、生きていたんだから。

「写輪眼のカカシ。お主も、名前位は聞いた事があるじゃろう」

三代目の言葉に、イルカの心臓はごとりと音をたて、頭が真っ白になった。気がつくと、壁にもたれるように手をつき、震える体をもう片方の手で押さえていた。

生きている。あの人が。

「どうした?イルカ」

呆然と空を見つめた目が、心配気な三代目の瞳とかち合った。

「・・・いいえ。何でも、ありません」

虚ろに頭を振るのが精一杯だった。

あれほど泣いた、あれほど後悔した、3年間の現実への実感が、足元から崩れていくような気がした。

はたけカカシが生きている。生きて、この里にいる。

眩暈のような恐慌を抑え、イルカはゆっくりと体を壁から起こした。忍としての性か、こんな時でも、冷静であろうとする理性が働いた。

「・・・亡くなられたものとばかり思っておりました」

呟くように言ったイルカの言葉に、うむ、と火影はパイプの煙を吐き出した。

「公式な記録は、3年前の弥勒平原の戦いが最後だからの。そこで生死不明とあれば無理もない。むしろ、その方が都合がよかった」

「・・・どうして」

三代目は、イルカをちらりと見上げた。

「気になるか?」

見透かすような視線を受け、イルカは思わず目を逸らした。気になる。3年間の想いの分だけ。だが、その理由は到底口に出せるものではなかった。

イルカの沈黙をどう取ったのか、三代目はあっさりした口調で言った。

「本人に聞け。少なくとも現時点では、ワシは何も言えん」

「三代目・・・」

「腹が減ったぞ」

食堂に向けて先に歩き出した背を、イルカは追いかけるしかなかった。

結局、三代目からは、下忍選抜の事以外何も聞きだせなかった。

正門前の地面に散り広がった、桜の花びらを踏む事が憚られ、イルカはそのまま門の前を通り過ぎた。西の通用門から中に入るつもりだった。

会いたい。

湧き上がった感情に、イルカは堪らず足を止めた。

昨日、満面の笑みを浮かべたナルト達が下忍合格を報告に来てくれた。よくぞ、合格者0の難関試験を突破した。誇らしさと、安堵が湧き上がった。そして、感謝した。ありがとうございます、はたけ上忍。そう名を思うだけで、胸が疼いた。

会いたい。でも。

本当は昨日、すぐにでもカカシに会いに行きたかった。だが、薄暗い感情が、逸る気持ちを押さえつけた。

死んだと思っていたのに。今までの3年間を覆す現実への戸惑いと、カカシの心の有り様に、言い知れぬ不安が心を占めた。

生きて、しかも里に戻っているなら、なぜカカシは、会いに来てくれなかったのだろうか。自分が里でアカデミーに勤める事は知っていたはずなのに。

そしてあの約束。2年経ったら里へ戻ると、その時は覚悟してと言ったあの言葉を、カカシは忘れてしまったのだろうか。その場限りの、真実などない、閨の中での睦言に過ぎなかったのだろうか。

そして、身の竦むような恐怖とともに思った。イルカの事自体、覚えていないのかもしれない。10日にも満たない日々、戦場の伽として体を重ねただけの相手。3年も前、そんな繋がりしかない存在が、カカシの記憶に残っていなくてもおかしくはない。

弥勒平原でイルカに好きだと言ったのも、頑固なイルカを逃がす為の方便に過ぎなかったのかもしれない。

会いたい。でも、怖くて堪らない。

カカシに忘れられていたら。3年間、生きていく縁にしていたと言っても過言ではない、好きだと言ってくれたあの声が、嘘だったら。

その場にしゃがみ込みそうになるのを抑えて、イルカは歩き出した。自分では答えの出ない問い、考えても仕方がない、と自分に言い聞かせた。

カカシが、ナルト達の上忍師となったのなら、いずれ会う機会が訪れるかもしれない。その時、カカシは何と言うのだろう。自分はどうするのだろう。想像することも恐ろしく、イルカはため息をついた。

西の通用門をくぐろうとした時、どこかで自分の名前を呼ばれた気がした。

頭をめぐらせると、坂道の下、少し埃っぽい道の向こうに、こちらに手を振る小さな姿が3つ見えた。その金と桜と黒の髪に、イルカは笑顔で手を上げた。今日から第7班は、本格的な任務に入る。

こちらへ駆けてこようとするナルトが、その背後に現れた男に襟首を掴まれた。喚くナルトを軽々持ち上げる男の銀色の髪に、イルカの鼓動が跳ね上がった。あれは、もしかして。

男に何か言われたのか、ナルトはむくれた表情でこちらをちらりと見た。そして三人は、不精不精といった様子で奥の公園に向かって歩き出した。

イルカは息を詰めた。子供達の背を見送って振り返り、こちらを真っ直ぐ見上げた姿は、間違いなく、はたけカカシだった。

カカシがこちらへ坂道を上がってくるのを、イルカは茫然と見つめた。逆立った銀色の髪、額宛と口布に隠した表情、背を曲げて歩く様子、何一つ記憶の中の姿と変わっていなかった。

はらり、と二人の間に桜の花びらが舞い落ちた。それに気をとられる間もなく、カカシは、イルカの目の前に立った。

「・・・お久しぶりです」

口布を指でずらし、カカシは言った。懐かしい、穏やかな声に、緊張に固まっていたイルカの心が、するりと解けた。こみ上げる思いに、胸が熱くなった。嬉しい。覚えていてくれた。

「・・・ご無沙汰をしております。はたけ上忍」

イルカは頭を下げた。

「ご壮健のご様子、何よりでございます」

「やっぱり、先生になってたんですね」

それも、覚えていてくれた。胸を焼く熱さを飲み込んで顔を上げると、微笑む瞳と目が合った。

「アカデミーのイルカ先生。ナルト達から1番に聞いた名前です。」

「そう、ですか・・・」

「あなたの事を話すあいつらの様子から、分かります。慕われているんですね」

よい先生、なんですね。

「あ、ありがとうございます」

飾り気のない賛辞に、イルカは知らず頬を染めた。3年前とは違う、穏やかな物言い。戸惑いさえ感じさせるそれは、3年という年月のせいなのか、それとも、ここが戦場ではないからか。

本当は、言いたい事も聞きたい事も沢山あった。だが、柔らかなカカシの微笑みに、胸がつかえて言葉が出てこなかった。戦場で、最後に見せてくれたあの笑顔と同じだと思った。

はら、とまた、桜の花びらが舞い落ちた。

「・・・実は、あなたに言っておきたい事があって」

穏やかに、薄く笑みを残した表情で、カカシは言った。

「3年前の、オレとの事、覚えてますか?」

いきなり核心を突かれ、イルカは動揺した。沸き立つような期待と不安に震えながら、小さく、はいと俯いたイルカの耳に、カカシの声が静かに入ってきた。

「忘れてもらえませんか?」

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。忘れろ?何を?

「虫のいい話だと分かってます。でも、あの時の事は全部忘れて欲しいんです」

頭を、殴られたような気がした。

反射的に、どうして、と言う問いが口からこぼれ落ちそうになった。だが、カカシを見上げたイルカは気付いてしまった。

無かった事にしたい。その穏やかな瞳から、彼が心からそれを願っていることを、はっきりと感じ取ってしまった。

ぼぅと耳鳴りがして、視界が暗く曇っていくような気がした。

それを分かってしまったのに、これ以上何を言えるというのか。

「あの・・・約束も?」

最後の望みをかけて呟くと、カカシは、灰色の右目をひっそりと伏せた。

「・・・はい。そうです。あの約束も、無かった事に」

イルカの中で、この3年間抱え続けていたものが、粉々に砕けて散った。

続けて何か言いかけたカカシに、子供達が公園から「カカシ先生」と呼ぶ声が重なった。カカシは振り返って小さく笑い、待つ事を覚えさせなきゃなと呟いた。

「すみません、お引止めして」

カカシは頭を下げ、では、また、と微笑んだ。

去っていくその背中を、イルカはただ見送った。

すべてが空っぽになったようだった。

泣きたいのに、涙が出なかった。

 

 

 

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