4.

天国と地獄を同時に味わっていた。

「お願いします」

差し出された報告書に、イルカは顔を上げ、笑顔を作った。夕暮れの受付所は、そろそろ混雑し始める時間帯だった。

「お疲れ様です、はたけ上忍」

不自然にならない早さで、前に立つカカシから視線を逸らし、受け取った報告書に集中した。それでも、自分の心臓の音がやけに響いて煩いのはどうしようもなかった。

「はい、結構です」

カカシの目を見る事ができず、その口元あたりに向けてイルカは笑った。

「イルカ先生、この後お時間ありますか」

夕飯、一緒にどうですか?カカシの穏やかな声に、心臓が再び鼓動を上げた。

またか。イルカは心の中で嘆息した。額宛と口布のせいで、イルカには、カカシの表情まで分からなかった。だが、素顔が見えたからといって、カカシの心まで読めるとは思えなかった。

イルカはそっとカカシを見上げた。微笑む右の瞳と目が合った。

どうしてこの人は、俺にこんな風に笑いかける事ができるんだろう。

断りたい。そして、断りたくない。イルカは、喜びに震える自分の胸をそっと押さえた。

今夜も、側にいられる。辛いだけなのは分かっているけれど。

イルカは、また、その甘い毒の誘惑に抗う事ができなかった。

 

 

 

遠い。

イルカは、半歩先を歩くカカシの肩を見ながら、思った。その向こうには、大きな明るい月が輝いていた。

再会してから1週間、毎晩のようにカカシと会い、食事と酒を共にしていた。今日は、鶏が旨い店だと、街外れの小さな居酒屋へ連れて行かれた。狭いカウンターで、肩が触れ合うような近さで鶏をつつき、酒を飲んだ。カカシの話す7班の様子に頷き、カカシに問われるままに、アカデミーや里の事を語った。3年前の話題を出さないことは、暗黙の了解だった。

傍からは、仕事帰りに、ちょっと一杯引っ掛けている仕事仲間のようにも、見えるだろう。そう見えるよう、イルカが最大限の努力を払っている事を、カカシは気付いてもいないだろう。

カカシとの時間、嬉しくないわけが無い。そして、苦しくないわけが無い。ともすれば溢れそうになる自分の感情を押し殺して、イルカは笑った。

3年前の事は忘れてくれと言われた、1週間前の夕方、受付に座るイルカの前に、カカシは再び姿を見せた。7班の報告書を差し出すカカシの飄々とした様子に、イルカは驚き、そして絶望した。

もう、自分は他の人間と同じ。何の関係も無いという事を態度で示されていると感じた。どうにか平静な態度を崩さずに報告書を受理したイルカに、カカシは、再び残酷な言葉を浴びせた。

仕事の後、よかったら飯でも喰いに行きませんか?ナルト達の事でも、聞きたいことが色々ありますし。

思い知らされた。もう、本当にイルカとの過去などどうでもいいのだ。

カカシは、今回初めて下忍を受け持った。しかも、九尾の子とうちはの生き残りという、里でも特殊な子供を二人も担当するカカシが、子供たちの指導に関して、アカデミーで担任だった人間に確認しておきたいことがあるのは当然だろう。

カカシにとって、今のイルカは、ナルト達の元担任。それ以上でもそれ以下でもない。

現実は、笑えるほど悲惨だった。

そしてイルカは、それでもいいと思ってしまった。

カカシの言う通り、約束は忘れよう。ただ、近くにいられるだけで、幸せだと思おう。カカシが死んだと思って泣いていた3年間より、よほどましじゃないかと。

むしろ別人だと割り切れれば、楽かもしれない。イルカは暗く自嘲した。

実際に、現在のカカシは、3年前とは随分印象が違っていた。

傲慢ささえ感じさせたぞんざいな口調はなりを潜め、階級も歳も下のイルカに丁寧な言葉で話しかけた。痛みさえ感じるほど強引に扱われた事が嘘のように、イルカを労わるような様子が、その態度の端々から伺えた。内心の激情をそのまま映したようだった瞳は、控え目だが、イルカに真っ直ぐ向き合おうとする穏やかな眼差しに変わっていた。

大切にされている。愚かにも、そう錯覚してしまいそうな優しさだった。錯覚してしまいたいと願う自分が、切なかった。

食事を終えて店を出て、街灯の無い道を、二人で西へ歩いた。

暗い夜空に輝く月は、満ちるまであと数日あるはずだったが、その柔らかな光は、行く道を十分明るく照らし出した。

イルカは、カカシの銀色の髪が、時折月光を弾いて淡く光るのを見た。手を伸ばせば届く距離にいるのに、空に浮かぶ月よりも、カカシは遠い所にいた。

「イルカ先生は、酒強いですよねぇ」

カカシの、感心したという口調がおかしくて、イルカは微笑んだ。

「はたけ上忍こそ。あの量を付き合ってくれた方は、今まで一人しかいませんよ」

「誰ですか?それは」

「三代目です」

あの爺さんもざるだよねぇ、とカカシは小さく笑った。

「ねぇ、イルカ先生」

前を見たままカカシは言った。

「なんでしょう」

「最初に飲んだ時に、はたけ上忍って呼ぶの止めてって言いましたよね」

イルカの胸が、ひゅ、と痛んだ。

「・・・そんな、無理です」

「どうして?アスマや紅は、名前で呼んでるでしょ?」

言える訳が無い。そうやってけじめをつけることで、カカシに向かって溢れていきそうな自分の心を歯止めているなど。

酔った頭では、気の利いた答えなど浮かんでくる訳が無い。おまけに、小さな石に足をとられてよろめき、カカシの肩にぶつかってしまった。

「も、申し訳ありません」

「大丈夫?」

肩を掴まれて、顔を覗き込まれた。カカシに触れられた部分が燃え上がり、全身の血が逆流するかと思うほど熱くなった。

「だ、だいじょうぶ、です」

「気をつけて」

優しい言葉と一緒に離れていくカカシの手が悲しかった。

もう駄目だと思った。

どんな関係でも、近くにいられればいいなんて、甘い考えだった。最初から、笑顔で耐えることなんて、できるはずがなかった。

こんなに、カカシを好きなのに。カカシに触れられただけで、こんなに浅ましく欲情してしまうのに。

今日で最後にしよう。イルカの心は自然に定まった。この先、想いを忘れる事はできないかもしれないけれど、これ以上、側にはいられない。

無言で並んで歩く道は、すぐに終わりを迎えた。路地を右に入ればカカシの上忍宿舎だという事を、以前に聞いていた。どういうつもりか、そのまま真っ直ぐついてこようとするカカシに、イルカは言った。

「はたけ上忍の家はあちらでしょう」

あぁ、とカカシは小さく呟いて足を止めた。

「今日は、ありがとうございました」

イルカは頭を下げた。

「飯、すごく旨くて・・・楽しかったです」

良かった、とカカシは目元を緩め、口布の上からでも分かる位、にこりと笑った。永遠に失うものを愛しい気持ちで見つめながら、イルカは言った。

「それで・・・こういうお誘いは、今日で最後にしていただけませんか」

カカシの表情が消えた。イルカの顔をじっと見つめ、それから、ぽつりと言った。

「どうして、って・・・やっぱり、聞くまでもないんですよね」

小さく息をついたカカシの右目は、何故か悲しげに見えた。

「どうしても、忘れては、もらえませんか?」

その言葉に、イルカの頭に血が上った。もう、いい加減にしてくれ。

「忘れられる訳がないでしょう?」

イルカは叫んだ。

「俺はあなたが好きなんですから。3年間ずっと、忘れられなかったんですから」

目を見開いたカカシに、イルカは言葉をぶつけた。堪えていた涙が溢れてきた。

「それなのに・・・3年間、ずっとあなたを待っていたのに・・・忘れてくれなんて・・・そんな・・・」

「イルカ先生・・・」

「なのに・・・忘れてくれなんていうくせに・・・こんな近くで・・・俺は、どうしたら・・・」

伝えたい想いがあり過ぎて、うまく言葉にならないもどかしさに、イルカは唇を噛み締めた。

何て卑しい自分。諦めたつもりで、実は心の奥底で、また、してはいけない期待をしていた。自分が情けなかった。カカシの望みは分かっていたはずなのに。

失礼します、と頭を下げて、イルカはカカシに背を向けた。悲しみよりも、投げやりじみた、せいせいした気分が勝っていた。これで何もかも終わり。もう、何もかもどうでもいい。

歩き出した腕を、いきなり後ろから掴まれた。

驚きと、その力の強さに身を捩ると、ぐいとそのまま引き寄せられた。次の瞬間、イルカはカカシの胸にきつく抱き込まれていた。

どういうつもりだ。流れる涙をそのままに、イルカは抵抗した。これ以上、構わないでくれ。

「聞いて、イルカ先生」

耳元に、熱い息がかかった。久しぶりに聞く、低く響く声に、イルカの咽が鳴った。抗う力が抜けた。

「オレが忘れてくれと言ったのは、あなたとの関係を一からやり直したかったからです」

「・・・・・・」

「言ったでしょう、虫のいい話だって」

イルカの背に廻ったカカシの腕に、さらに力がこもった。

「3年前、上官命令だと、無理矢理あなたを犯して、一方的な約束で自分の気持ちを押しつけて・・・あなたには、嫌われていると思ってました」

3年間ずっと、と呟くカカシの声が、切なくイルカの耳を打った。

「それでも好きで、忘れる事ができなかった。どの面下げてと思いながらも、ナルト達を餌に、あなたに近づいたんです」

そっとカカシは腕を解いた。息が触れ合う距離からイルカを真っ直ぐ見つめ、カカシは囁いた。

「あなたの事が好きです」

眩暈のような感覚が、イルカを襲った。

「好きで好きで、堪らない・・・オレの気持ちは3年前から、最初に会った時から変わってません」

夢なら覚めないでくれと願った。

「・・・本当に?」

震える自分の声を、みっともないと思う余裕も無かった。カカシは苦笑した。

「本当です。第一あの時も、ちゃんと好きだって言ったでしょう?忘れたの?」

イルカは必死で頭を振った。忘れる訳が無い。でも、待っていた時間が長すぎて、実感がわかない。

「・・・生きて、里に戻っていたのに、2年過ぎても俺のところに来てくれなかったのは・・・?」

カカシは、切なげに笑った。

「約束を盾に、あなたに無理強いをしたくなかった。無理強いをしない自信がなかった。もし拒まれたりしたら、どんな酷い事をしてしまうか、想像できましたから」

「・・・・・・」

「正直、忘れられればとも思ってました。こんなにあなたに執着する自分が、恐ろしくもありましたし」

でも、とカカシは、愛しげにイルカの頬に触れた。

「ナルト達を合格させた時に、覚悟を決めました。忘れる努力をする位なら、あなたにオレを好きになってもらう努力をしようって」

カカシは、この1週間猫被ってたんですよ、と笑った。あなたがオレの方向いてくれるまで、ずっと被ってようと思ってたのに、こんな簡単に剥がされちゃうなんて。

「イルカ先生こそ、さっき言った事、本当?」

カカシは微かに眉を寄せた。

「あなたに好かれてるなんて、今まで思ってもみなかった」

イルカは、不安げな表情のカカシを見つめた。そう言えば、カカシに、自分の気持ちを伝えたことがなかった。ただ臆病に、与えられる事だけを求めていた。

イルカは、涙を擦り、カカシの灰色の目を見た。自分の気持ちがすべて伝わればいいのにと願いながら言った。

「あなたが好きです。きっと、あなたが思っている以上に」

嬉しい、と、カカシはイルカを再び抱きしめた。イルカもその広い背に腕を回した。温かい鼓動に、また涙がこぼれそうになった。

もう、絶対に離したくなかった。

カカシの指が、イルカの首筋をそっと撫でた。それだけで、背筋に電流が走ったようにイルカの体は震えた。見交わした瞳が、互いに口付けたいと願っている事を確認し、それでも、湧き上がる情欲の深さに、互いに躊躇した。

ふと思いついて、イルカは呟いた。

「カスガは・・・」

カカシは苦笑した。

「3年間も未練たらしく片思いしてるような、情けない男ですよ。とっくに愛想つかされましたよ」

そうだろうか。あの一途なカスガが。心を掠めた疑問に、開きかけたイルカの口を、カカシの人差し指がそっと押さえた。

「イルカ先生。オレの部屋はあそこです」

カカシが指差した先には、3階建ての建物が月明かりに浮かび上がっていた。四角い窓の明かりが並んでいる。

「2階の、右から2番目」

2階はそこだけが暗い。

「イルカ先生、今からここで10数えて下さい。その間に、オレは部屋に戻ります」

意図が分からず首を傾げたイルカに、カカシは続けた。

「もし、オレの気持ちに答えてくれるなら、あなたの意志で、オレの部屋に来て下さい」

昔のように、側に来て欲しいと誰かに託すのではなく。側に行きたいのに、呼ばれるのを待つのではなく。

「来るのも来ないのもあなたの自由です」

このままあなたが自分の家に帰っても、仕方ないです、とカカシは呟いた。

「そのかわり、オレの所に来てくれると言うのなら、その時は、本当に覚悟して下さいね」

カカシの微笑みに、迷いは欠片もなかった。

「あなたの事、もう、一生離せませんから」

 

 

 

イルカはそっと目を閉じた。

消えた気配を堪らなく愛しく思う。

いち。に。さん。

これほどもどかしい思いは今までした事がなかった。

し。ご。ろく。

胸が張り裂けそうな喜びと、これほどカカシを求めてしまう自分への不安に、知らず足が震えた。

なな。はち。きゅう。

3年間、飢え乾いていた想いが、カカシの存在に満ちていく。

そして、目を開いたイルカは、迷い無く地面を蹴った。

 

 

 

完(05.07.30〜05.08.16)

 

 

 

オマケ 「カスガSide : 春シヌ恋」

「情熱3」Next Story、以上で完結です。

続きを読みたいとおっしゃって下さった皆様の希望に、

少しでも添えておりますでしょうか(汗)

読んでくださって、本当にありがとうございました。

実は、オマケを一番書きたかったり(笑)

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