2.

「暇ねぇ」

隣の席の同僚が、口紅の唇で小さく欠伸をした。

受付は、ここ1時間ほど訪問者がない。三代目も執務室に下がった。昼下がり、晩春の穏やかな空気が眠気を誘う。

あと2時間もすれば、目の廻るような忙しさとなる事を思うと、イルカは、欠伸を繰り返す同僚を嗜める気にもなれなかった。片手で頬杖をついて、手元のメモを見下ろした。

アカデミーの授業内容について書いたその文字を目で追うが、思考は勝手に別の方向に流れてゆく。

はたけカカシ。

少し注意を向けてみて、イルカは、里に流れるカカシの噂の量と質に驚いた。その武勲や誉れに対するものと同じ程、下世話な内容にも事欠かない。

曰く、常に両手に余る女性をキープしているとか。切った女の数は100人を下らないとか。

遊びで付き合う分には優しいが、相手が本気になるとあっさり切り捨てるとか。

痴情のもつれで女に刺された事があるとか。あてつけに自傷した女を、そのまま見捨てただとか。

くだらないといえば、この上無くくだらない噂。信憑性は蜉蝣の羽よりも薄い。だがそこに、昨日イルカに涙を見せた彼女の姿を重ねれば、心にひやりと冷たい風が吹く。

男女の関係にどちらか一方だけが悪いという事はないが、それにしても。

酷い男。

「・・・・・・」

イルカは慌てて頭を振った。

自分には関係のないことだ。

カカシがどれほど手癖の悪い男だろうと、子供達にとって良い指導者であってくれれば、イルカに文句があろうはずがない。情操面でどうかと思わないでもないが、カカシの役目は、忍として子供達を導く事にある。

そして、カカシを慕う子供達の様子からも、三代目の評価からも、カカシが素晴らしい教師であることは、疑うべくもなかった。

だから、カカシがどんな男だろうと関係ない。イルカは言い聞かせるように思った。元々、あの彼女の事がなかったら、挨拶以上の言葉を交わすことなどなかった間柄なのだから。

あの男と、恋愛する訳じゃないのだから。

その時、受付の入り口に人影が見え、イルカは慌てて居住まいを正した。土の匂いと共に入ってきた銀髪の男に、思わずぎくりとする。

「こんにちは、イルカ先生」

カカシは真っ直ぐ歩を進め、イルカの前に立った。今まで考えていた事を読まれたかような錯覚に、イルカは思わず身を硬くした。そんなはずはないのに。タイミングが良すぎる。

「こ、こんにちは。はたけ上忍」

「これ、お願いしますね」

差し出された報告書に目を落とした。単独のAランク任務。イルカでは身構えてしまうレベルの任務を、カカシは日常としている。やはり、自分とは世界が違う男。

「ね、今晩時間ありますか?」

報告書に受付の日付印を押した時、カカシが言った。

「え?」

「呑みに行きませんか?」

思わずイルカはカカシを見上げた。

「どうしてですか?」

「どうしてって」

カカシは呆れたように言った。

「一緒に呑みたいからですよ。あなたと」

そして、隣で目を丸くしている同僚を指して、

「この人が、呑みに行こうって誘ってきても、あなたは理由を聞くんですか?」

イルカは言葉に詰まった。何かが違う気がするが、言い返せない。カカシは小さく肩をすくめ、

「心配しなくても、とって喰いやしませんよ」

何を言う。イルカは、きっとカカシを睨み上げた。

「そんな心配してません」

そう、とカカシは右目を緩めた。からかわれて、笑われている。それでも嫌な気持ちがしないのは、額宛と口布に隠されたその笑顔が、どんな風だか知っているから。

厄介だな、とイルカは思った。妙に胸がざわめく。隠さない素顔を見たいと思う。

カカシはイルカに顔を寄せるようにして言った。

「イルカ先生は、オレといるのは嫌ですか?」

まさか。

「・・・そんな事はないです」

「よかった。オレは、あなたといるの好きです」

じゃ、夜迎えに来ます、とカカシはさらりと背を向けて、受付所を出て行った。

勝手だ。呑みに行く事を了解した訳ではないのに。好き、という台詞が、ちくりと胸を刺す。思わずため息をついたイルカに、同僚が呟いた。

「はたけ上忍って、誰にでもああなのね」

「え?」

「強引なのは、女にだけかと思ってたけど」

「どういう意味?」

眉を寄せたイルカに、同僚は肩をすくめた。

「はたけカカシは、来る者拒まず去る者追わずで後腐れがないって、くノ一の間では有名なのよ。遊びで付き合うにしたら、あれ以上上等の男はいないでしょう」

「・・・・・・」

「で、遊びのつもりで嵌り込んじゃう女が、これまた多いのよね。その一因が、あれ」

強引。無理強いとは違う。自分は特別だと思わせる、優越感をくすぐる様な言い方で誘ってくる。

「あなたといるの好き。一緒にいると楽しい。あのはたけカカシに、そんな事言われたら、大概の女は落ちちゃうわよ。遊びだと分かっててもね」

イルカは、昨日の彼女の泣き顔を思い出した。胸が、ぎり、と痛んだ。

そうやって、優しい言葉をかけて。本気になったら放り出す。

・・・どうしよう。嫌な予感がする。

「かく言う私も、嵌りかけた一人」

そう言って、同僚は苦笑した。

「途中で気づいて引き返したけど。ま、イルカの場合は、色恋とは違うでしょうから、心配する事ないのかもしれないけど」

はたけカカシは酷い男。

だから、とてつもなく魅力的。同僚はそう締めくくった。

 

 

 

本当に、とてつもなく、嫌な予感がする。

そして、嫌な予感は往々にして当たるものだと、イルカは暗い気持ちで思った。

 

 

 

「じゃあ、イルカ先生」

いつものように眠そうな目で、カカシは言った。

「分かってると思いますけど、本気で、オレを殺すつもりで」

「はい」

頷いたイルカは、次の瞬間、背後の木立の中に身を隠した。一息遅らせて、カカシも、イルカの視界から消えた。

里の西に広がる森。もうすぐ、日が傾く。

木々の間を飛びながら、イルカは全身の感覚を研ぎ澄ました。既に、カカシの気配はどこにも感じられない。無論、自分の気配も、カカシには捉えられていないはずだ。

持てる知識を総動員して考える。

誘導するならここ。罠を仕掛けるならここ。

演習場として使われているこの森の地理は、互いに十分過ぎる位に熟知している。定石通りなら、裏をかかれる事は必至。なら敢えて、定石に見せかけるか。そして、その裏も用意する。無論、それで十分とは到底思えないが。

月に一度、実戦的な任務に出ない事務方の中忍を対象に行われる訓練。

下忍を受け持つ上忍師が交代で担当するこの実戦訓練で、今回初めて、イルカはカカシの受け持ちとなった。

訓練の内容は、担当上忍によって決められる。スリーマンセルでの追跡訓練や、体術、幻術など、その上忍が得意とする分野で、厳しく鍛え上げられる。木の葉の誇る上忍の訓練。それは千の知識より何より中忍たちの血肉となった。

だが、カカシがイルカに伝えた訓練の内容は、あまり例の無いものだった。

「オレを捕まえて下さい」

カカシは言った。

「どんな手を使ってもいい。罠も、火薬もOKです。オレを捕まえて、殺せる体勢にすることが目標です」

下忍の時にやった鈴とりを、一人でやれという事か。

「制限時間は3時間。ハンデとして、オレは写輪眼は使いません」

少し、むっとする。そう思われても仕方ないのだろうが。

期待してますよ、と重い事を言われ、訓練は始まった。

その通り名があまりに有名なせいで、カカシ自身の忍としての能力の高さを認識している者は少ない。イルカも今回初めて、それを身を持って思い知った。

仕掛けた罠を、ことごとく壊されていく。誘導に乗ったふりをされ、逆にまかれる。こちらは、気配を悟られないようにするのが精一杯だ。

「さすが、上忍様だ」

あまりの実力の差に、笑いたい気分になってくる。

直接攻撃は最後の手段だ。だが、それはまさしく背水の陣。勝てる見込みは限りなくゼロに近いのだから。

本当に、手が届きそうに無い男。

自分とは住む世界が違う、酷くて、綺麗な男。

「イルカ先生、そこにいるんでしょう?」

だから、森の最奥にそびえる巨木に身をもたせかけたカカシを見つけたときも、絶対に偽者だと思った。

「ねぇ、イルカ先生」

返事をするほど馬鹿ではない。樹上の枝葉の間に身を潜ませ、イルカは周囲の気配を探った。だが、目の前に佇むカカシ以外に、何も感じ取れない。

「イルカ先生。オレ、あなたに何かしましたか?」

言っている意味が分からず、イルカは首を傾げた。カカシは、腕を組んで、どこともない方向を見ながら言った。

「最近、受付でも、目、合わせてくれませんよね」

・・・何を言っているんだ、この男は。こんな時に。

「呑みに行こうって誘っても、断られるし。受付で断られるのって、すごくかっこ悪いんですよね」

二度目に呑みに行った翌日からも、カカシは3日と空けず受付に現れては、イルカを誘ってきた。それをすべて断るイルカに、隣に座っている同僚の方が、焦ったような表情を浮かべた。

「オレ、何か、あなたの気に障るようなことしましたか?」

カカシは何も悪くない。ただ、イルカが一方的に、カカシと関わりたくないと思っているだけだ。

イルカは思わずため息をついた。

次の瞬間、目の前に、カカシの笑顔があった。

「見つけた」

楽しそうな笑み。口布が下ろされ、表情が露わになっていた。あの小さなため息で、イルカの潜む枝を察知したらしい。腕を掴まれ、顔を寄せられた。

「イルカ先生、隠れるの上手ですよね」

こんな不意打ち、卑怯だ。いや、俺が間抜けなだけか。イルカは臍をかんだ。

「やっと、オレを見てくれましたね」

イルカは、何とか心の体勢を立て直した。

「・・・そういう訓練ではないはずですが」

目を逸らしたイルカに、カカシは苦笑した。

「ちょっとしんどくなってしまいまして」

右腕を上げたカカシの、ベストの脇腹の上のあたりが、ぱっくり裂けていた。破れたアンダーにじっとりと血が滲んでいる。

「あ」

イルカは慌てて傷に手を伸ばした。その手も掴まれ、両腕をカカシに拘束された。

「オレなら、あのクナイに毒を仕込んでおきますね。いい罠でした。目標達成です」

イルカ先生センスいい、とカカシは笑った。

「治療しないと」

「後でね」

「でも」

そんな事より、と、カカシはイルカの顔を覗き込んだ。

「ねぇ、何でオレを避けるんですか?」

イルカは、心を決めて、カカシの目を真っ直ぐ見返した。ここで引いては、今までの努力が水の泡だ。

「避けるだなんて、そんな。恐れ多い」

「・・・・・・」

「ただ、本当に先約が」

嘘だけれど。

「それに、俺なんかと飲んでも退屈でしょう」

「・・・つまんない答えですね」

イルカは苦笑した。

「俺はつまらない男ですから」

そういう意味じゃないですよ、とカカシは呟いた。

「あなた、オレの事、怖くないでしょう」

怖い?イルカは首を傾げた。どういう意味だ?

「他人の、オレに対する態度って、大体二つに分かれるんです。びびるか、媚びるか」

カカシは静かに言った。

「男も女も。でも、イルカ先生は、どちらでもない」

「・・・・・・」

「オレを怖がってない。オレに好かれようとも思ってない。だから、気に入りました」

言う事も面白いし、と笑うカカシを、イルカはじっと見つめた。

写輪眼のカカシといえば、他国の手配書にも最高ランクで載る、木の葉屈指の忍だ。その経歴、実力を思えば、周囲が彼に畏怖心や憧れを抱くのは当然の事と思う。

だた、イルカにとっては、そういう感情を抱くには、カカシは遠すぎる存在だった。

前線で戦うエリートと一介のアカデミー教師。20代半ばにして既に数々の伝説を持つカカシと自分を、同じ忍だとは、とても言えない。端的に言えば、住む世界が違う、と。

その彼が、イルカの前で、笑っている。イルカの事を、気に入ったと。

あぁ、どうしよう。心が震える理由を、もう誤魔化せない。

「・・・困ります」

イルカは呟いた。

「からかわれては、困ります」

優しい言葉をかけて。自分は特別だと思わせて。本気になったら放り出す。そういう男だと分かっていたのに。だから、避けていたのに。

イルカは、目の前の男に惹かれている自分を自覚してしまった。

嫌な予感は、的中してしまった。

 

 

 

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