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4. 「カカシはとにかく、やることなすこと目立つ男でね」 忍のくせに、と笑いながらムハクさんはすいと猪口を干した。そして、手酌させるの?と俺に笑いかけた。 「何やってるんですか!」 俺は慌てて、ムハクさんが差し出した猪口を取り上げた。俺が流しで洗い物をしている間に、勝手に用意したらしい。あろう事か、一升瓶がテーブルの脇に置かれていた。 「酒なんて、駄目ですっ」 「え〜!どうして?」 駄々をこねるムハクさんを、俺は睨みつけた。 「あなた、病人でしょう?しかも、肝臓の。言語道断です」 ムハクさんは口を尖らせ、肩を竦めた。 「確かに薬飲んでるけど、酒は関係ないよ。意図するところが違うっていうか」 「アルコールは肝臓で分解されるんです。どんな病状にしろ、負担をかけていい訳ないでしょう」 「じゃあ、もう、カカシの話はしない」 そう拗ねたように言って、ふいと俺に背を向けて床に横たわった。なんだ、この子供じみた反抗の仕方は。 「・・・約束を、破るって言うんですか?」 俺はため息をついた。それは、夕食と引き換えの条件だったはずだ。そして俺は、互いの都合がつく限りここへ夕食を作りにきて、向かい合って一緒に食べている。 「だったら、俺も、もうここに来る事はできません」 数秒の沈黙の後、 「・・・中忍の癖に生意気なんだよね、アンタ」 ちぇ、と舌を鳴らして、ムハクさんは起き上がった。俺はほっとしつつ、酒の代わりに、湯呑みに熱い茶を注いでやった。 殺風景そのものだったムハクさんの部屋に、少しずつ、生活感が滲み始めている。この茶も、揃いの湯呑みも、大き目の座布団も、「新婚夫婦みたい」と軽口を叩きながらムハクさんが買い揃えた。 「じゃあさ、せんせ。代わりにセクハラさせてよ」 「・・・この茶を、頭から飲みたいですか?」 おれ猫舌なんだよね〜とムハクさんは笑った。こうした駆け引きは、もう日常茶飯事だ。 他愛なさを装った誘惑は、俺が拒む事を前提になされているようにも思えた。そして最初の夜からこちら、ムハクさんは決して俺に触れようとはしなかった。 安らぎとも違う。慣れとも異なる。不安定で歪な安堵感が、彼と過ごす時間に流れていた。そしてその均衡が、ムハクさんの意思一つで簡単に崩れ去ることに気付いていながら、俺はこうして、この部屋に通い続けていた。その理由が、カカシさんの情報の為だけではない事を、俺は知っている気がした。 ふうふうと湯呑みの茶を吹いて冷ましながら、ムハクさんは言った。 「暗部なんて奇人変人の集まりだけど、カカシはその中でも群を抜いてた。人の半分の時間で、人の倍の働きをしてくれて。お陰で、一緒の任務の時は楽だったねぇ」 「楽・・・ですか」 「こっちが求める以上のものを返してくるって事。信頼なんて言葉は反吐が出るけど、カカシに任せて駄目なら仕方ないって諦めがつく、そういう奴」 命を懸けて務めるこの稼業で、その言葉は、何にも勝る信頼だ。 ふふん、とムハクさんは何かを思い出したように口元を笑みに歪めた。 「人殺しの業も早かったけど、女をこますのも早かったねぇ。気に入ったら、堅気も商売女も関係なし。女の方から、股を開いて寄ってくるのも多かったみたいだけど」 そして俺にちらりと視線を投げ、 「ま、同じ早いって言っても、早漏かどうかは、自分で確かめてのお楽しみ」 俺が飲みかけた茶を噴出しそうになるのを見て、げらげら笑い転げた。 「カカシは、おれが生まれて初めて、本気で殺し合いたいと思った男」 それが、天邪鬼なところが多分にあるムハクさんの、最大級の賛辞であることは、短い付き合いながらも俺にはよく分かった。 昼下がりの受付は、繁忙時の谷間で閑散としていた。 職員も交代で休憩に入っている。昼当番で一人部屋に残っていた俺の鼻腔を、煙草の香りが掠めた。書類から顔を上げると、アスマさんが報告書片手に部屋に入ってくるところだった。 「任務お疲れ様です」 「おう」 差し出された書類に目を通す俺の後頭部に、アスマさんの呆れたような声が降って来た。 「猛獣使いか、はたまた幼稚園の先生か」 「はい?」 「カカシといいあいつといい、お前はよくよく、妙なのに懐かれる性質なんだな」 俺は顔を上げた。 「・・・あの人を、ムハクさんをご存知なんですか?」 まあな、とアスマさんは答えた。 「カカシ並に腕が立って、カカシ以上にガキで面倒くせえ。お前がどういう経緯であいつに付き纏われてるのかは知らんが、やばいと思ったら、さっさと他に助けを求めたほうが懸命だ」 「・・・俺のほうが」 「あ?」 確かに受理しました、と報告書に日付印をついて、俺はアスマさんを見上げた。 「俺のほうが、ムハクさんに付き纏ってるんですよ。それに、子供の扱いには、慣れてますから」 アスマさんは、煙草を唇の端にかろうじて保ちながら、まじまじと俺を見つめた。 「・・・お前は馬鹿な男じゃないが、絆されやすいっていうのが玉に傷だな」 そして低く続けた。 「俺が、短いながらもあのお面の集まりにいた頃、恐ろしいと、味方で良かったと心底思ったのは、カカシと、あいつだけだ」 静かな口調が、それが事実だと俺に悟らせた。 「俺たちの世界では、腕が立つ分、その背に負うもんが大きくなる。暗部はその最たるもんだ。その中で、折れず狂わず、長く自分の足で立ってきた奴らは、その強さの分だけ、脆くもあるんだろうな」 「・・・・・・」 「己を律する事に慣れた心は、中々他人を受け入れないが、一度入れると恐ろしい位盲目的になる。そういう溺れる者の必死さは、一人引き受けるだけでもしんどいもんだ」 そして、アスマさんは重い口調で言った。 「二人共なんて、無理だぞ、イルカ」 知られている。 俺は気付いた。アスマさんは、俺のカカシさんに対する想いを知っている。 「・・・ムハクさんは、そういうのでは、ありません」 呟くように言う俺に、アスマさんはため息をついた。 「お前は、だろ?あいつにとってどうかが、問題なんだ」 ムハクさんは、具体的な事は、何一つ口にしない。だが。 「あいつが、お前の前でどんな人間なのかは知らん。だが、少なくとも、俺の知ってるムハクは、手前勝手で貪欲で、何よりお前に好き放題できる実力と階級を持っている」 迂闊な事はするな。 そう言って、アスマさんは受付を出て行った。 「アンタって、もてるんだね」 その日の夕刻、アカデミーの校門で、ムハクさんは俺を待っていた。顔を合わせた途端に、しみじみとした口調で言われた。 「何がですか?」 「アスマの野郎」 昼間のやりとりをどこで聞いていたのか。俺はため息をついた。 「心配してくれているだけです」 「心配?」 ムハクさんは楽しげに目を細めた。 「アンタが、おれに取って喰われやしないかって?」 話の内容を、聞いていたのではなかったか。それで、俺にどんな返事を求めるつもりか。俺は黙って先に立って歩き出した。 迂闊な事をするな。アスマさんの声が脳裏に浮んだ。 ムハクさんを嫌ってはいない。寧ろ、奔放さと分別とが複雑に交じり合ったその性情に好感を持ち始めている。だが、それは恋情ではない。なり得ない。 俺が欲しいのは、カカシさん唯一人。その名を思うだけで心がほころぶ、そんな人は、この世界に彼しかいない。 だったらなぜ、俺はムハクさんの部屋に足を運んでいるのか。カカシさんの情報の為か。その歪みながらも保たれている居心地の良さか。すれすれの駆け引きを楽しみたいからか。 いや。俺は頭を振った。俺の中で、何かが、彼の側から離れるな、と囁き続けている、そんな感覚がずっとあった。 そして俺は、以前にもこの予感めいた感覚を経験した事があると、ふいに確信した。 ムハクさんの影が、俺に追いついて、並んだ。 「今日の夕飯は?イルカせんせ」 「・・・麻婆茄子です」 えぇ〜、とムハクさんは眉を寄せて頓狂な声を上げた。 「おれ、茄子嫌い〜」 その子供じみた物言いに、毒気が抜けた気がした。こうやって、警戒心を巧妙に解かれているのか、と心の隅で思いつつ、 「じゃあ、豆腐にします」 やった、と手を打つ無邪気な微笑みに釣られ、俺も笑った。 彼を無邪気だと思った。子供のようだと思った。 だが彼は、確かに大人で、特別上忍で、何より、己の熱情を通す力を持った男だった。 その夜、夕食の皿を片付けようと立ち上がった俺の腕を、ムハクさんが掴んだ。 「え?」 驚いて彼の顔を見た俺は、そのまま押されるように床に座り込まされた。 「アンタは、アスマの忠告を聞かなかった」 そう囁いて、ムハクさんがゆっくりと顔を寄せてきた。彼の呼気から、ほのかに甘く艶めかしい匂いが漂った。火蓮草の白い花弁から抽出された、苦い妙薬の香り。 「その理由が何か、おれは知らない。知る気もない」 「・・・・・・」 「アンタが、今こうしてここにいる。おれにとって大事なのは、それだけ」 段階が変わった事を、這い上がった悪寒と共に思い知った。 視点がぼやけそうな程、瞳が間近に迫ってきた。きっと、俺が僅かでも迷いを見せたら、この男はこのまま俺に口付けるのだろう。俺は真っ直ぐその瞳を見返した。 「風呂、入ってきたらどうですか?」 今までのムハクさんなら、何事も無かったかのように身を引いただろう。だが彼は、俺から離れなかった。更に体を寄せられ、俺は尻で後ろに逃げた。 「ムハクさん・・・?」 そして、俺の背に壁が当った。追い詰められ、顔の左右に手をつかれ、覆い被さる様に見下ろされた。 「おれにしときなよ」 ムハクさんは、囁くように言った。 「・・・・・・え?」 「カカシなんか止めて、おれにしときなよ」 その決定的な言葉を、俺は呆然と聞いた。そして、彼の手が、返事を強請るように俺の頬に触れた瞬間、 「できません」 反射的に叫んだ。 互いに、言葉はもう二度と戻せなかった。 「・・・この状況で、そういう事、言っていいの?」 ムハクさんの口元は笑っているのに、その瞳は暗く、俺を射竦めた。ぞっと、冷たいものが背筋を走った。 「悪いけど、アンタ程度、いつでもおれの好きにできたんだよ」 「・・・分かってます」 ムハクさんは、びりりと頬を歪めた。膨れ上がった怒気が、俺の全身を打った。それでも彼から消えない冷えた笑み。 「おれを馬鹿にしてるの?そんな事できやしないって、思ってるの?」 「違い、ます」 声が掠れた。怖い。湧き上がる恐怖に、体が勝手に震えだした。元暗部、現特別上忍という肩書き以上に彼の実力を物語る、熱く凶暴なチャクラが、ひたひたと打ち寄せてくるようだった。 敵わない、と本能で知った。それでも、屈する訳にはいかない。俺は必死で目を見開き、彼を睨みつけた。ムハクさんの眼差しが酷薄な笑みに歪んだ。 「・・・そういう目で男を見て。性悪だね」 「は、なして下さい」 「もし、このままおれに犯されても、アンタ、それでもカカシに好きだって言える?」 残酷な問いに、心が総毛だった。 「他の男に汚された体で、それでも、あの男の前に胸張って立てる?」 「・・・どうだろうと、あ、んたには関係ないっ」 「あるよ」 ムハクさんの声は、まるで慈しむような響きで俺の耳に届いた。 「おれはね、アンタがどんなでも、アンタが好きだ。例えアンタが、誘われれば誰彼構わず体を開くような男でも、金で体を売るような男でも、好きでい続けられる自信がある」 寧ろそんな奴の方がいいね、とムハクさんは淡く微笑んだ。 「他の奴が突っ込む暇が無い位に抱いて、アンタが欲しいだけの金をやって、そうやって、ずっとアンタを縛り付けておける」 おれは、そういう風にアンタを好き。だから、おれにしときなよ。 俺は必死で首を横に振った。違う。そんなものは欲しくない。俺が欲しいのはあの人ただ一人。 体を引かれ、床に引き倒された。頭上で縫いとめられた腕は、ぴくりとも動かせなかった。 「優しくする」 粟立った耳に吹き込まれた言葉に、目の前が赤く染まった気がした。首筋を撫でていくのが彼の舌だと知って、吐き気が込み上げた。 嫌だ、絶対に。嫌だ。 四肢に、渾身の力を込めたその瞬間だった。 ムハクさんは、俺から弾かれるように体を離した。そして向こうを向き、背を丸めて、激しく咳き込み始めた。 事態の急変に乗じて、俺は慌てて立ち上がった。だが、ムハクさんの尋常ではないその様子に、逃げようとする足が止まった。 「・・・大丈夫ですか?」 引き寄せられるように彼の背に手を置いた俺に、 「ば、かじゃないの?」 乱れる呼吸の間で、ムハクさんが言った。 「この隙に、逃げればいいじゃない・・・」 俺も、知りたかった。今も、恐怖と嫌悪に竦みそうになっているのに、なぜ、彼から逃げるな、と囁き続ける感覚があるのか。 俺は返事が出来ないまま、ムハクさんの背を擦った。もう一度彼が大きく咳き込んだ瞬間、俺の鼻を異臭が突いた。生っぽい、鉄錆の匂い。 「ムハクさん?」 慌てて彼の顔を覗き込んで、ぎょっとした。 ムハクさんの、口元を押さえた手の間から、鮮血が溢れ、伝い落ちていた。 |
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