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3. 出会いは、国立図書館だった。 「あれ?」 葛眼ユキトは思わず声を上げた。 「・・・またか」 身長よりも高い書架を見上げ、溜息をついた。探している本が書架に無いのは、これで3冊目だ。 貸出中で無いことは確認済みだった。専門用語が並ぶ内容は、一般人が気まぐれに手に取るようなものでも無い。どうやら、ユキトと同じ目的を持った人間が先回りしているらしかった。 急ぐ事ではない。日を改めるか、と歩き出した時だった。 「失礼ですが」 背後から声をかけられた。振り返ったユキトの目に、書架の前に佇む一人の男の姿が映った。 「お探しの本は、これではないですか?」 差し出された赤い布張りの書物を、ユキトは驚きながら受け取った。 「そうです」 男は、にこりと微笑んだ。男の手には更に、ユキトが探していた2冊の本がある。 「・・・あ」 「これも、ですよね。ごめんなさい。邪魔をするつもりはなかったんですが」 ユキトに本を渡した男は、頑張って下さいね、と柔らかく微笑んだ。そして、小さく頭を下げてユキトに背を向け、出口の方向へ歩き出した。 男の姿が次第に遠くなる。そう思った瞬間、ユキトは知らず声を上げていた。 「あの・・・待って下さい」 足を止め、ゆっくりと、男が振り返った。 男は、イルカと名乗った。 海の向こうの小さな国の小さな里で、教師をしていると言った。 「今は休暇中です。観光がてら、こちらに住んでいる従兄弟を訪ねて来ました」 ユキトは、図書館に併設されている喫茶店に、イルカを誘った。見ず知らずの男相手に何をやっているんだろう、と思いながらも、人懐っこい笑顔を浮かべるイルカに、離れ難さのようなものを感じていた。 学生さんですか?とイルカはユキトに問うた。 「探してらした著者の本は、専門家にとっても難解な事で有名ですよね」 熱心に勉強なさってるんですね、と微笑むイルカに、ユキトはどこか後ろめたいような、居た堪れないような気持ちになった。 「・・・父の意向に従って経済学部に進学したんですが、本当は、法語をやりたいんです」 今まで、誰にも言った事のなかった事が、するりと口から出てきた。出会ったばかりだという躊躇は、イルカの凪いだ海のような眼差しの前にかき消された。 「父は会社を経営していて、僕が将来、事業を継ぐものだと決めて掛かっているんです。僕が法語を学ぶのは、単なる教養の一つだと思っていて。だから今は、勉強する事も、専門の書物を買い集める事にも寛容なんです。でも、僕の本当の希望を知ったら、きっと、激怒する所じゃ済まないでしょうね」 法語の勉強に関する費用は、居酒屋でバイトした金で賄っていた。幼稚ではあるが、父親に対するれっきとした反発心だった。 「俺も・・・ある事情で大学での研究を諦めました」 イルカの口元に寂し気な笑みが浮かんだ。 「今の仕事にやり甲斐を感じてはいますが、たまに、どうしても、大学にいた頃を思い出してしまうんです」 ユキトが持つ本に、イルカは目を遣った。 「だから、ユキトさんの事を、他人だとは思えない。出会ったばかりで不躾だとは思うんですが」 きれいな声だ、とユキトは思った。 男らしく低い声だけれど、どこか涼やかで耳障りが柔らかい。 ずっと聞いていたい。そう思った自分に、ユキトは驚いた。 どうして、この人に対して、こんな、胸が詰まるような気持ちになるんだろう。 そして、その理由を、心のどこかで知っているのだと思った。 「・・・疲れた」 倒れこむように、イルカは畳に横になった。このまま、何も考えずに眠り込みたい誘惑にかられ、小さく頭を振った。 窓に吊るしてある風鈴が、軽やかな音をたてて鳴った。夕暮れまではまだ少し時間があるが、どこからか、物悲し気な日暮の声が聞こえてきた。 イルカが戻った小さな古い民家は、ユキトに従兄弟の家だと伝えてあるものだった。水回りの他に6畳の部屋が三間、猫の額程の庭がついていた。 イルカは寝返りをうって、手入れの滞った庭に視線を投げた。生い茂る雑草の生命力が余りに眩しくて、堪らずに目を閉じた。 ユキトと出会ってから3日目。 昨日は一緒に古本街を廻り、今日は、この季節の有名な観光スポットである、夏菖蒲の群生地を二人で訪れた。 時間は短くても構わないから必ず毎日会うように、とのカカシの指示に従うまでもなかった。この3日間、大学とバイトの合間を縫ってイルカに逢いたがったのは、ユキトの方だった。 一言一言、一挙手一投足にまで気を遣うユキトとの時間は、殊更にイルカの精神を疲労させた。一人に戻って緊張が解けた後は、拭い去れない罪悪感に心が暗く翳った。 先刻、バイトの時間だから、と名残惜しげに別れの挨拶を口にしたユキトの表情を思い出し、胸がじくりと痛んだ。明日の約束を交わした時の、その純粋な熱を孕んだ眼差しに、溜息が零れた。 今更どうしようもない事だと、頭では分かっているけれど。イルカは寝転がったまま目を腕で塞いだ。 その時、するりと、背後に気配が生まれた。 「・・・まさか、あのガキが、あんたに惚れるとはねぇ」 聞こえてきた声は、笑っているようだった。 「ま、こっちとしては、その方が話が早くて助かるけど」 イルカは体を起こし、後ろを振り返った。 カカシに会うのは、ユキトが働く居酒屋で別れて以来5日振りだった。日焼けした古い畳の上に胡坐をかき、白地に紅と黄土で萱を縫い取った着物を纏い、優雅に団扇を動かすカカシは、とても忍服が常の男とは思えない婀娜な雰囲気を漂わせていた。 イルカの表情が曇っているのを見て、カカシは形のよい眉を微かに上げた。 「あんな眼で見つめられてて、まさか、気付いてなかったなんて言うつもり?」 イルカは、いえ、と首を振った。 「真面目な子ですから、認めるまでにもう少しかかると思いますが」 「子、ねぇ・・・」 カカシの含みのある言い方が、イルカの疲労した心を引っ掻いた。 「何か、問題ありますか?」 「ターゲットに肩入れすると、自分がしんどいだけですよ」 淡々と言うカカシに、苛立ちが抑えられなくなった。 「任務だろうと何だろうと、あの子の心を弄んでいる事には変わりないですから」 カカシは、心底驚いたようだった。 「任務ですよ?」 分かっています、とイルカはカカシを強い目で見返した。 「でも、任務だから何をしてもいいとは、俺は思いません」 「・・・・・・」 「確かに、任務を成功させる為に最善を尽くす義務はあります。でも、罪のない人間を巻き込むべきではないんです」 「・・・驚いた」 眼を見開いたカカシは、唇の端を持ち上げるようにして笑った。 「そんな綺麗事、今時下忍でも言いませんよ」 憐憫さえ混じったカカシの言葉に、意味が違う、とイルカは首を振った。 「俺は誤魔化したくないんです。自分の心を落ち着かせる為に、任務だから仕方ないなんて言い訳をしたくない・・・」 ぞ、と背筋を冷たいものが走り、イルカは言葉を止めた。 カカシの灰色の右目が、真っ直ぐにイルカを捉えていた。 静かな、殺気にも似た威圧感が押し寄せ、内面を覗き込まれ、引きずり出されそうな錯覚に、怒らせたか、と体が震え出しそうなった。 それでも、撤回するつもりはない。気持ちを意地で支えて、イルカはカカシの目を睨み返した。 先に視線を逸らしたのはカカシだった。 「・・・先生のご高説を拝聴する時間は無さそうだ」 そう言って、音も無くカカシは立ち上がった。 途端に呪縛が解け、イルカは畳に手を付いて、大きく息をついた。目の前にいる男は上忍なんだと、ばくばくと音をたてて鳴る心臓が告げていた。 「風呂に入って、着替えて。出ますよ」 投げ落とされた命令に、イルカは頷くことしか出来なかった。 |
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