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4. 風呂から上がると、脱衣所に見覚えの無い着物が用意されていた。 着ろ、という事だろうと判断し、イルカは袖を通した。肌にさらりと添う枯茶色の生地と、しっかりとした縫いの確かさは、それが相応の品である事を容易に想像させた。 「・・・こんなの着て、どこへ行くつもりなんだろう」 帯を結びながら、考えるだけ無駄だと思い直した。この任務でカカシがどのように動いているのか、イルカは全く知らされていない。そして、カカシが言わない事は、イルカが知る必要の無い事だった。 イルカは、おざなりに乾かした髪を普段の高い位置に結い上げた。自分の役目を全うする事だけ考えようと思った。 部屋に戻ると、カカシは腕組みをしながら庭を眺めていた。 佇むその姿からは、先刻浴びた身の竦むような鋭さは微塵も窺えず、夏の空気に似合わぬ、どこか乾いたような静けさが漂っていた。 色素の薄い頬とすらりとした首筋が、夕映えに照らされてオレンジ色に輝いた。収まりの悪い銀色の髪を、昼間の熱気を孕んだままの風に撫でられて、その目が煩わしげに細められるのを、イルカは吸い込まれるような気持ちで見つめた。 美しい人だ、と思った。 顔立ちの端麗さに加え、そこにいるだけで醸し出される趣のようなものが、カカシには備わっていた。 存在感、というものだろうか。それが経験と実力に裏打ちされた上忍としてのものなのか、カカシ自身が持つ天性のものなのか、イルカには判別できなかったが、忍として、己の気配を完全に消し去る事も可能な銀髪の男は、忍服と猫背と額宛と口布の下に、その本性の一片を巧妙に隠しているのだと思った。 ちりん、と風鈴が鳴り、カカシがふいと振り返った。自分がカカシに見惚れていた事に、イルカは気付いた。 知らず頬に血が上り、気まずい思いを抱えながら視線を逸らしたが、カカシはイルカの様子を気にする事もなく、行きましょうか、とイルカの脇を過ぎて廊下に出た。イルカは、すたすたと進むその背中を慌てて追った。 玄関まで出た時、カカシは急に何かを思い立ったように足を止めて振り返った。 「ちょっと」 イルカの肩を押して引き返させたカカシは、廊下の柱に掛けられた小さな鏡の前にイルカを促した。 丸い鏡に、薄暗い土壁の廊下と、イルカの顔と、カカシの白皙が映った。カカシの視線が、イルカの結い上げた髪に注がれているのを、イルカは戸惑いながら鏡越しに見守った。 カカシの指が髪に伸ばされた。髪紐を解かれ、はたり、と音がたつように、黒髪が肩に落ちた。 「あの・・・はたけ上忍・・・」 「じっとして」 カカシは、耳の後ろからイルカの髪に指を差し入れ、ゆっくりとした動作で掬うように梳った。髪に残った癖を解く為だとは分かったが、頭皮を掠めるように触れる、ひんやりとしたカカシの指先の感触が、何故か背中で感じられるような気がして、イルカは思わず身を固くした。 「夜は、髪、解いてなさい」 手を下ろし、鏡越し、イルカの視線をどこか遠い所を見ているような目で見返して、カカシは言った。 どうしてですか、と聞き返すのが癪で、背筋に疼きを残したまま、イルカは黙って頷いた。 並んで、宵闇の街を歩いた。 繁華街を行きかう人混みを抜け、大通りから狭い路地へ入った。歩を進めるにつれ、猥雑な空気が濃くなり、両脇にいかがわしい看板が目立つようになった。 道端に立つ、けばけばしい装いの女達が、視線で二人を追った。場所柄仕方無いとは言え、あからさまな誘いを乗せた眼差しが居心地悪く、イルカは俯き加減にカカシの歩みに従った。 「・・・あんた、こういう場所全然似合わないよね」 家を出てから無言だったカカシが、ふいに言った。 「は?」 「何ていうか、かどわかされたって感じ?」 イルカは眉を寄せた。 「・・・仰っている意味が、よく分かりませんが」 分からないならいいよ、とカカシは唇を薄笑いに歪めたまま視線を逸らした。 何なんだ、一体。イルカは苛立ちを飲み込んだが、深くなった眉間の皺に、カカシが再び小さく笑った。 路地の突き当たりに、小さな妓楼があった。 「話、適当に合わせてね」 短く言い、カカシはその見世に入った。 「おや、また来たのかい」 遣手と思しき老女が、番台で声を上げた。 「あんたが来ると商売にならないんだよ」 白い髪をひっつめ、小柄な体をぴんと伸ばした遣手は、脂気の抜けた皺だらけの顔で睨みつけるような視線を寄越した。だが、カカシの背後に立つイルカに気付くと、連れがいるなんて珍しい、と目を見開いた。 「従兄弟だよ。田舎で教師なんてやってるせいか、真面目で堅物でねぇ。今日は羽目を外させようと思って」 カカシの言葉に、遣手はおやおや、と声を上げた。 「こんな真面目そうな兄さんに、どんな悪い遊びを教えるつもりなんだか」 そしてイルカに向かって肩をすくめてみせた。 「この男はね、馴染みをつくらないものだから、来る度に娘達が我こそはと競い合うし。見世一番の売れっ子に相手をさせりゃ、どんな可愛がり方をしてくれたんだか、惚けちゃって一晩仕事にならなくしてくれるし。いつ来ても騒がしいったらありゃしない。これで金払いが悪けりゃ、門前払いを喰らわせるところさ」 遠慮のない物言いに、悪意は感じられなかった。カカシも、酷いねぇ、と笑うだけだ。 「門前払いは勘弁してよ。しきたりに煩い陽華楼みたいな大見世なら兎も角、堅苦しくなく気楽に遊べるのがこの見世の信条でしょうに」 懐から出した札入れを片手に、カカシは慣れた様子で交渉を始めた。 「時間はいつもと同じで。女の子は一人でいいよ」 「おや、3人かい?」 「駄目?」 「まぁ、あんたなら、無体な事はしないだろうからいいけれどもさ。その兄さんにゃ、刺激が強すぎるんじゃあないのかね」 何やらとんでもない話になっている気がしたが、イルカは口を挟む事もできずに二人の遣り取りを見守った。すぐに金が受け渡され、遣手に呼ばれて案内役らしい少女が姿を見せた。 狭い階段を二階へ登って、廊下の突き当りの部屋に通された。 決して広いとは言えない室内は、行灯の火が弱くて薄暗く、屏風や煙草入れ等の調度品も目に見えて古ぼけていた。奥に、毒々しいまでに派手な色合いの薄布団が敷かれているのを、イルカは何とも言えない気持ちで眺めた。今程、カカシの意図が分からないと思う事は無かった。 すぐに入り口の障子が開き、女が姿を見せた。 白く塗り上げた顔を伏すようにして、部屋へ入ってきた女は、長い着物の裾をゆるりと捌いて、行灯の脇に腰を下ろした。意外な程若い、とイルカは思った。 「よろしく」 カカシが静かに言い、つられるように女は顔を上げた。 二人の目が合った、と思った瞬間、女の体がぐらりと揺れた。そのまま崩れるように、前のめりに突っ伏した。 驚いて女に近寄ろうとしたイルカを制して、カカシは女を抱き上げた。そして、だらりとしたその体を奥の布団まで運んで横たえると、帯を解いて着物を脱がせにかかった。 カカシの思わぬ行動に、イルカは思わず声を上げた。 「何をするつもりですか?」 着物を取り去り、襦袢の襟元を胸の膨らみが垣間見えるまで躊躇無く寛げて、カカシが答えた。 「着物をきっちり着込んでたら、目が覚めた時妙に思われるでしょ?」 女は、寝息をたててぐっすりと眠り込んでいた。 「・・・術を?」 呟いたイルカに、カカシは小さく頷いた。イルカは、先刻の遣手とカカシの遣り取りに思い至った。 「ここでは、いつも、こうして?」 女から離れたカカシは、自分の襟を直しながら畳に胡坐をかいた。その口元に、苦い笑いが浮かんだ。 「仮にも木の葉の上忍が、任務中に女に現を抜かしてると思った?」 「・・・いいえ・・・そこまでは」 俯くイルカに、正直だねぇ、とカカシが苦笑を深くした。 「この妓楼は、建物の立地的にも、バックについてる組織的にも、今の任務には色々と都合がいいんですよ。あのばあさんが一から十まで仕切ってますから、馴染みになれば今日みたいな融通もきくし」 一見突拍子も無く映るカカシの行動はすべて、任務を成功に導く為に綿密に計画されたものなのだという事だった。 突っ立ってないで座ったら、と促され、イルカはカカシの左側に正座した。カカシの視線に晒されるのが妙に気まずかった。 ふいに、布団の上で、女が小さく呻く様な声を上げた。 太腿を擦り合せ、胸をかき抱き、その表情が恍惚の形に緩むのを、イルカは何事かと戸惑いながら見つめた。 「せっかくだからね、いい夢見せてあげてんの」 あっさりとカカシが言った。 「いい夢?」 「オレとあんたとで、前から後ろから、極楽気分を味わわせてあげてる夢」 「・・・なっ」 カカシの言葉の意味を悟り、イルカはぎょっと固まった。顔に勝手に血が上り、それを見たカカシが驚いたように目を見開くのに気付いて、更に焦りが募った。 人並みの経験を積んだ自分を初心だとも奥手だとも思わないし、任務と割り切って心を備えれば、どんな相手でもどんな行為でも対応できる。 だが、根が至ってノーマルな性癖のイルカは、頭では理解できても、感情がその冷静さに追いつかない時があった。要は、閨房事は苦手、という事だ。 「・・・ほんと、真面目なせんせい、を外さないよねぇ、あんた」 うろうろと落ち着き無く視線を彷徨わせるイルカに、カカシはくすくすと笑いを零した。 「いっつも食いつきそうな眼でオレの事睨んでるのに・・・初めて見た。そういう顔」 心底楽し気に、カカシは追い討ちをかけた。 「あんた、あれでしょ、ヤるのもきちんと手順踏むタイプでしょ。一緒に飯喰って、手でも繋いで、キスをして。それからじゃないとヤっちゃいけないって思ってるんじゃない?」 「―――っ」 いい加減にしてくれ、と怒鳴りかけたイルカは、部屋の隅の天井板が一枚、微かに動いている事に気付いて、瞬時に身構えた。 イルカの視線の先で、雨漏りのような染みが浮く天井板が外された。そして、開いた小さな隙間から、白と黒の装束に身を包んだ男が、音も無く部屋に降り立った。 その顔が獣を隈取った面で隠されているのを見て、イルカは警戒とは別の緊張を高めた。 暗部。木の葉の特殊暗殺部隊。その存在は知っていたが、実際に見えるのは初めてだった。 男は、イルカに小さく頭を下げると、寛いでさえ見える様子のカカシの前に跪いた。 「お待たせしました」 男が差し出した巻物を、カカシはありがとう、と受け取った。 「ごめんね、急に駆り出しちゃって」 「いいえ。先輩のお役にたてるんでしたら、いつでも」 「時間は?」 「長くて2分です」 カカシは、男からイルカに向き直った。 「目的の屋敷の実施設計図。1分30秒で覚えて」 そして、イルカの返事を待たずに巻物を広げた。 1メートルを越える紙の長さいっぱいに、広大な建物の平面図が描かれていた。イルカは緊張を解き、その間取りを記憶することに集中した。 「・・・あれ」 図面を見始めて数十秒後、イルカは首を傾げた。 「どうしたの?」 「何となく、間取りがおかしい気がして」 イルカは、ここです、と屋敷の北の一隅を指差した。 「俺は建築には詳しくないんで、見当違いなのかもしれませんが、この部分、この壁と隣の壁との間が、不自然に空いている気がするんです」 図面をなぞるイルカの指を、カカシは目を細めながら追った。 「約1メートル・・・階段なら十分に取れる幅ですね」 屋敷は、図面上は、二階も地下も無い平屋建築となっていた。 「・・・気になる、ねぇ」 目を見交わした二人の間で、しゅう、と音をたてて、紙の上の図面が消えた。 |
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