5.

暗部の姿が、来た時と同じように天井裏に消えると、カカシは懐から別の巻物を取り出した。

「取り敢えず、口寄せの契約を結んどきましょうか」

巻物には既に術式が書き込まれていた。左の親指を小さく噛み切り、墨で書かれた術式の上に自分の赤い血を重ねるように、カカシは契約の文言を書き加えた。

「これを開くタイミングは後で教えます。先に、あんたのチャクラを減じる術をかけますから」

イルカが巻物を懐にしまうのを見つめながら、心配しなくても、とカカシは続けた。

「オレが死んで解術できなくなっても、日が経てばチャクラ量は自然に戻ります」

死、という言葉が、イルカの心にざくりと音をたてて突き刺さった。

自分でも驚く程、失念していた。カカシ程の上忍に与えられる任務が、安穏としたものであるはずがない。

イルカに与えられたのは、歳若い同性を陥落させるという笑えない冗談のような仕事だが、法語の知識といい、用意された自宅といい、この妓楼といい、事前の準備に念が入っているのには気がついていた。

かけられた手間と金と、忍の実力。それは、任務の難しさと厳しさに比例する。

イルカの与り知らぬ所で、全体を見据えたカカシは一人、任務を成功させる為に動いている。以前拒まれた問いを、イルカはもう一度カカシにぶつけた。

「今回の任務、何が目的なんですか?はたけ上忍」

「・・・・・・」

「ユキトの父親が経営する葛眼製薬といえば、ここ数年で急激にシェアを伸ばした会社ですよね。その社長の自宅に、何があるんですか?俺に、教えては貰えませんか」

暫くの間、カカシは無言だった。蝋燭の炎が、じり、と燃える音を聞きながら、イルカはその横顔の動きをじっと見守った。

「・・・中忍如きに心配されるとは、オレも見くびられたもんですねぇ」

ようやく紡がれた言葉は、冷たい溜息を含んでいた。そういう意味では無い、と首を振るイルカを、カカシは無表情に見返した。

「前も言った通り、あんたが知る必要はないですよ。あんたは、あのガキの子守だけ考えていればいい」

拒絶の壁は、イルカの前に立ちはだかったままだった。

「逆にね、オレはあんたの方が心配ですよ。真面目なイルカせんせい」

「・・・俺、ですか?」

「明日、一緒に飯喰いに行くんでしょ?あのガキがいきなり盛って、コクハクやらキスやらの順番をすっ飛ばして襲ってきても、拒んだりしないで下さいよ」

・・・こいつ、本気で殴りたい。

震える拳を握り締め、イルカは思った。

 

 

 

教えられた住所は、火の国でも名の通った高級住宅街だった。

道路に沿って延々と続く白壁にうんざりしかけた頃、ようやく入り口の門が見えた。大きな鋲が穿たれた重厚な造りの扉は堅く閉ざされていたが、脇のインターフォンを押して名乗ると、お待ちしておりました、と軽快な女性の声と共に、音も無く開いた。門の内側に取り付けられた監視カメラのレンズに、特殊な印が施されている事を、イルカは見逃さなかった。

屋敷の玄関まで、敷石が数十メートル続いていた。西の方角に広がる平屋の家屋と、それを取り囲むように設えられた美しい庭園。カカシと見た実施設計図を思い浮かべ、さすがは葛眼製薬の社長邸宅だと、イルカは口の中で呟いた。

空を見上げると、術による防御膜が、敷地全体を覆っているのが分かった。一般の人間には目にも映らないが、これを破るのは相当骨が折れるだろう。

どこかで蜩が鳴いていた。

玄関からユキトが出てきて、こちらへやって来た。

「いらっしゃい。イルカさん」

そう笑顔で挨拶して、ユキトは手を差し出した。意味が分からなくて戸惑っていると、イルカの手の荷物をそっと奪った。

「迎えに行こうと思ってたんですけど」

背中に手が添えられたのに、イルカは気付いた。寄り添うように、二人は歩き出した。

「大丈夫ですよ。こちらのお宅を、間違えようもないですし」

大きなお屋敷ですね、とイルカが微笑むと、ユキトは何故か寂しげに答えた。

「丁度、会社の規模が大きくなり始めた頃に建てたんですけど・・・この家に住んでるのは、僕と、父の二人だけなんです」

すぐ隣にあるユキトの表情をイルカはじっと伺った。

「他に、ご家族は?」

「二人いる姉はもう嫁いでいますし、母は・・・体が弱くて、今は実家のある田舎で静養しているんです」

「・・・ごめんなさい。不躾な事を聞いて」

俯いたイルカに、ユキトは気にしないで下さい、と慌てたように言った。

「今夜は父も帰らないそうですから、気楽に、ゆっくりしていって下さいね」

ありがとうございます、とイルカは笑った。

父親が戻らない。何よりの僥倖と言えた。

後は、どうやって、一人になる時間を作るかだった。

 

 

 

機会は、あっけない程簡単に訪れた。

庭が一望できる部屋で食事を取った後、ユキトの自室で蔵書を眺めながら語り合った。時計の針が9時を指す頃、泊まって行きませんか、とユキトが申し出た。

「・・・でも、お邪魔では」

遠慮がちなイルカの呟きをユキトは遮った。

「僕が一緒にいたいんです。父もいないし、誰にも気兼ねすることない」

よかった、とイルカは微笑んだ。

「こんなに楽しい時間は久しぶりなんです。稀少本も沢山見せて貰って」

「・・・本、だけですか?」

あからさまに拗ねたユキトに、今度は声を上げて笑いかけた。

「まさか。ユキトさんがいるから、楽しいんですよ」

そして、絶版になった論文集を手に取ったイルカに、ユキトが言った。

「じゃあ・・・僕、先に風呂に入ってきますね」

イルカは、緊張を押し隠して頷いた。

廊下を進むユキトの足音が、完全に聞こえなくなるまで待ってから、イルカは部屋を抜け出した。

間取りは頭の中に入っている。イルカは、使用人を避けながら迷い無く廊下を進み、程なく目的の場所へ辿り着いた。

6畳程のその部屋は、倉庫として使われてるようだった。

大小の行李が、無造作に積み上げられ、蓋には埃が積もっている。天井は、打ちっぱなしのコンクリートに裸電球。

だが、行李の上の埃に比べて床が綺麗な事に、イルカはすぐに気がついた。壁には、白い壁紙がきちんと貼られている。

カカシの指示通り、イルカは、懐から巻物を取り出し、床に広げて印を結んだ。術式からもくもくと煙が上がり、その中に影が揺らめくのが見えた気がした。

カカシが来る。そう思い、ほっと息をついた瞬間だった。

ぎちぎちぎちっ、と耳障りな音がした。

術の拘束が、無理矢理に引き千切られた音だと分かった。そして、巻物の上に、べちゃりと黒い塊が落ち、瞬時に煙が消えた。

つん、と鼻をつく鉄の匂いにぎょっとして、イルカはその塊に手を伸ばした。ぬめりのある赤いもので、手が濡れた。

湿った皮の生々しい感触に、イルカの全身が総毛だった。

それは、血にまみれた手甲だった。

「・・・・・・っ」

落ち着け、とイルカは思った。

呼吸を整え、落ち着いて、するべき事を考えろ、と自分に言い聞かせた。

カカシが来ない。理由は不明。自分で契約した口寄せの術を破るのは、カカシには造作も無い事だろう。

カカシがいない状況で、このまま指令を遂行すべきか。答えは否だ。目的の物を知らされていない以上、それは無意味な行動だ。

引き返して、カカシを探し、指示を仰ぐ。尚且つ、戻る前にこの部屋を出来る限り調べておけば、今度来た時に時間の短縮になる。

もし、カカシに会えなかったら。

そこまで考えてイルカは首を振った。そこから先は、今考えるべき事では無いと思った。

イルカは、床に広げた巻物を、手甲と一緒に巻き戻して懐に入れた。次に、記憶の中の平面図を思い浮かべながら、西側の壁を探った。

白い壁紙に耳を当て、指先で小さく叩く。図面上で、壁の向こう側に空間があった辺りを丹念に調べて、他とは響きが違う部分を見つけ出した。

「ここか・・・」

大きさは15センチ四方程度。押してみたが、ぴくりとも動かない。指をひっかける窪みのようなものもない。壁紙に継ぎ目も見当たらない。

「全体が動くのか・・・?」

イルカは首を振った。分からない。

自分が動揺している事を自覚して、イルカはそれ以上を諦めた。

血で汚れた手を洗ってから、部屋に戻った。

「どこに行ってたんですか?」

咎めるというより甘えるような口調で、風呂上りの髪を拭きながらユキトが言った。

「ごめんなさい。手洗いに行って、迷ってしまいました」

「言ってくれれば、誰かに案内させたのに・・・」

立ったままのイルカを、ユキトは不思議そうに見上げた。

「イルカさん?座ってよ」

「ごめんなさい。急ぎの用を思い出したんです。今日は、これで帰ります」

「え?」

イルカは荷物を手に取った。頭を下げて部屋を出ようとすると、ユキトに強く手首を掴まれた。

「ちょっと、待って」

その表情は強張り、声が微かに尖っていた。迷っている暇は無かった。

イルカはユキトにそっと体を寄せた。反応を窺いながらその肩に頭を乗せると、ぎくり、とユキトの体が強張ったのが分かった。

「・・・俺も、帰りたくない」

イルカの囁きが触れた首筋が、見る間にかあっと赤くなった。

「でも、ごめんなさい。どうしても、帰らなくちゃ」

「イルカさん・・・」

ユキトの腕が背中に回りかけたのを察して、イルカは体を離し、追い縋るような瞳をゆったりと受け止めた。

「・・・また、来てくれるよね」

「必ず」

「・・・僕は・・・あなたが・・・」

イルカは手を伸ばして、ユキトの唇を指先で押さえた。

「必ず、また、会いに来ます。ユキトさん」

そこから先は、その時に。

切なげな眼差しを向けるユキトに微笑みかけて、イルカはそのまま背を向けた。

 

 

 

門までの石畳を早足で歩きながら、イルカは考えた。

どこにいる?

まず思い浮かんだのは老女が采配を振るうあの妓楼だった。だが、あの血塗れた手甲は、忍服姿のカカシが怪我を負ったか、誰かに傷を負わせた事を示している。何がしかの戦闘があったと考えるのが妥当だった。

そうなると、もうお手上げだ。イルカは臍を噛んだ。カカシが一人で、どこで何をしているのか、もっと食い下がって聞いておくべきだった。

とりあえず家へ戻ろうと、門から道路へ出たイルカは、屋敷から目が届かない所まで来てから民家の屋根に飛び乗った。繁華街を抜けるのは時間が掛かる。夜でよかったと思いながら、屋根伝いに音も無く西へ走った。

家の近くまで戻ったイルカは、小窓から灯りが漏れているのを見て、心底ほっとした。

玄関を開け、気配がする風呂場へ急いだ。擦りガラスの引き戸を開けると、カカシが、壁のタイルにもたれて座り込んでいた。

「大丈夫ですか・・・っ?」

側にしゃがみこんで、額宛も口布も取り払われたその顔を覗き込んだ。傷を洗ったらしい、床と忍服が濡れている。漂う血の匂い。

「ごめん」

カカシが、イルカを見た。髪も肩もびしょ濡れで、眉が苦しげに寄ってる。

「ごめん。せっかくあんたが呼び出してくれたのに。行けなかった」

初めて聞く素直なカカシの謝罪の言葉に、イルカの胸が詰まった。

「俺は大丈夫です。一体何があったんですか?」

「・・・ちょっと、ね」

拒絶に、いつものような傲慢さがない。クナイで裂いたらしい上着の裂け目から肉が覗いている。傷の具合を見ようとするイルカをカカシは制した。

「動脈が切れちゃって。応急だけど繋いだから」

「・・・何か、俺に出来る事は?」

大丈夫、とカカシは首を振った。

「あんたは、何も心配しなくていい」

その言葉に、かっ、とイルカの頭に血が昇った。

「心配くらいさせて下さい!!」

思わずカカシを怒鳴りつけた。

「全部自分一人で背負おうとしないで下さい。俺は確かに中忍で、平和ボケしたアカデミー教師で、あなたの言う通り認識もツメも甘い。でも・・・だからって、怪我をしたあなたを心配するな、なんて・・・」

情けないような、苛立たしいような、表現しがたい感情が込み上げて、喉の奥がやたら苦しくなった。

「・・・俺だって、一人前の忍なんです。だから・・・」

大きく目を見開いてイルカを見つめていたカカシが、微かに口元を歪めた。

「分かってる」

そして、カカシは、イルカが今まで見たことのない寂しげな微笑を浮かべた。

「・・・あんたに出来る事ね、一つだけ、あるよ」

してくれる?と言う声を聞いた途端、がたん、と風呂桶がひっくり返ったのをイルカは見た。

同時に、背中と髪の毛がびしゃりと濡れた。目に入った天井に、床に倒されたのだ、と気付いた。

痛みを堪えるような表情で、カカシが見下ろしてくる。両肩を痛いくらいに押さえつけられて、思わず呻き声を上げたイルカの耳元に、掠れた囁き声が忍び込んだ。

オレを受け入れて。

そして、次の瞬間には、唇を奪われていた。

 

 

 

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