7.

重厚な扉を開いて、鈍い光を映す大理石を敷いた玄関に入ると、磨き上げられた廊下の向こうから、葛眼家の内々を司っているという老人が歩いてきた。

「お帰りなさいまし。ぼっちゃま」

ユキトに向けられる視線は、雇い主の息子に対すると言うより、孫を見つめるそれだった。

「ただいま。どうしたの、こんな時間にお前が出迎えるなんて」

「旦那様からご伝言を承っております」

「父さんから?珍しい」

ユキトは、驚くと言うより不審気な様子で、首を傾げた。何?と問いかけたが、老人は丁寧な沈黙を返すだけだった。

「ちょっとすみません」

イルカに告げて、ユキトは老人を廊下の角に促した。

“一体どうしたの”

“何でも、お屋敷へ侵入しようとしている不届き者がいるそうでございます”

ユキトと老人が小声で交わす会話の内容は、チャクラを減じているとはいえ、忍であるイルカには筒抜けだった。

“うちへ?会社じゃなくて?”

“はい。旦那様は、暫くこちらにはお戻りになれないそうですので、ぼっちゃまに後を頼むと。外出も控えて、お客様のご訪問もご遠慮願えとの仰せです”

「この人は大丈夫」

そう断じて、ユキトはイルカを振り返った。

「行きましょう」

ユキトに肩を押され、イルカは廊下を歩き出した。

「・・・ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」

そう言って、慇懃に頭を下げた老人がちらりと寄越した視線の色で、イルカは、急がなくてはならない事を悟った。

玄関から右へ曲がり、庭に面した廊下を進んだ。屋敷の東の奥がユキトの自室になっている。壁の2面を天井まで占める造り付けの本棚と、重厚な色合いの机、毛足の長いラグ、時折嗜むという煙草の匂いがイルカを出迎えた。

「ごめんなさい。何だか、ばたばたして」

イルカを、東側の本棚に向かって置かれた革張りのカウチに促しながら、ユキトが言った。

「いいえ。急にお邪魔してしまった俺が、不躾だったんです」

「そうではないんです」

イルカの隣に腰を下ろしたユキトは、微かに頬を歪めた。

「父は・・・勝手な人なんです」

小さく呟いて、それを誤魔化すように、イルカに何か飲みますか、と笑いかけた。

イルカは、無言で首を横に振り、ユキトの目を覗き込んだ。

大きく開いた薄茶色の瞳孔が、イルカの視線を受けてちらちらと揺れ、数度瞬いた。

「・・・好きです、イルカさん」

腕を伸ばし、ユキトはイルカを抱き寄せた。

「多分、初めて会った時からずっと」

「・・・・・・」

「僕と・・・恋人として付き合って貰えませんか?」

溜息のような低い声に、イルカは一度目を閉じ、再び開いた。抱擁に応えるように腕を回し、ユキトの背越しに指先で印を結んだ。

もう、迷う事はできなかった。

「・・・ご免なさい」

イルカの言葉に、ユキトはびくりと体を強張らせた。イルカの背に回った腕に、力が篭った。

「僕が・・・嫌いですか?」

切なげな吐息が耳に触れた。

「いいえ」

「僕が、男だから?」

「いいえ」

小さく首を振ったイルカの体を、ユキトは更にきつく抱き寄せた。

「僕では、駄目だと言う事ですか?既に、誰か別の人がいると?」

「・・・・・・」

イルカの無言を肯定と受け取り、ユキトは、苦し気に息を吐いた。

「・・・僕なら、あなたをこんな風に傷つけたりしない」

ユキトの指が、イルカの着物の襟を引き、右の肩口の肌に触れた。カカシに噛まれた所だと、イルカは気付いた。痕になっているのか。

「あなたを大切にします。苦労はさせません」

ユキトの真摯な言葉に、イルカは敢えて苦笑を浮かべて見せた。

「それは・・・生涯の伴侶に言うものですよ」

僕は、と強く訴えるように言い、イルカから体を離したユキトは、両腕でイルカの肩を掴んだ。

「僕は、本気なんです」

真っ直ぐにぶつけられる想いの鋭さに、胸を抉られるような痛みを感じながら、それでも、イルカは静かに言い放った。

「ユキトさん。俺は、あなたの心を利用しました」

「・・・え?」

「図書館で出逢った事も、あなたが・・・俺を慕ってくれるようになったのも。全部、俺が仕組んだことです」

「・・・何を、言って・・・」

訳が判らないと、眉を寄せたユキトの頬が見る見る青ざめてゆくのを、イルカはじっと見守った。

「ま・・・さか・・・あなた・・・が?」

驚愕と絶望に、ユキトの端正な顔が歪んだ。否定して欲しいと縋りつくその視線を、イルカは淡々と叩き落した。

「さっき、あなたに術を掛けました」

「じ・・・術?」

「そろそろ、“手足の自由が効かなくなり、声が出なくなる”はずです。」

その言葉が術発動の合図だった。ユキトの体が一瞬ぎくりと強ばり、続けて弛緩した。イルカの肩を掴んでいた手が膝にずるりと落ち、言葉にならない喘ぎが、わななく唇からこぼれた。

「体は、10分程で元に戻りますから、心配しないで」

力を失ったユキトの体を、カウチの背に寄りかからせて、イルカは立ち上がった。

「・・・ユキトさん。あなたは、何も悪くない」

イルカを見上げる聡明な瞳に、悲しみの色が浮かぶのを見ながら、イルカは最後の言葉を告げた。

「どうか、俺を憎んで下さい」

そんな事、できる訳がない。

ユキトの声にならない叫びを、イルカは背中で聞いた。

 

 

 

ずっと、相容れない男だと思っていた。

木の葉は言うに及ばず、近隣諸国までその名を轟かせる超一流の忍。己の感情より何より、里への貢献を第一義に考えるべきだと言い、今回の任務でも、イルカを道具のように扱う事も躊躇せず、冷厳に、合理的に、任務の完遂だけを見据えて動いてきた。

階級や実力の差とも違う。その冷静さは、イルカの本質の中に無いものだった。

そうやって全てを一人で背負ってきたカカシが、昨夜、初めてイルカに垣間見せた感情。

それは、弱さと呼ぶには荒々しく、だが確かに、自分以外の体温と許容を求めて、イルカに縋り付いてきた。

カカシも、良い意味で、人に過ぎない。命を剥き出しに戦う過酷な日々から、その心を守りながら生きている。

今までの傲慢な言動は、彼の繊細な本質を隠すための鎧か。そう言ったら、カカシは何と答えるだろう。

中忍ごときに見くびられたものだと哂うだろうか。一度体を許した程度で、分かった風な口を利くなと蔑まれるだろうか。

それとも。

ユキトの部屋を出て、廊下を音も無く走ったイルカは、見咎められる事もなく目的の部屋へ到着した。

預かっていた巻物を床に広げ、印を結び、立ち上った煙の向こうに、銀色の髪が揺れるのを見た時。イルカは確かに、己の身の内に、今まで感じたことの無い、名状しがたい焔が燃え上がった事を知った。

惹かれている。

カカシという男に、その美しく、傲慢で、孤独な存在に、魅せられている。

姿を現したカカシに向けて、イルカは思わず手を伸ばした。その手を、手甲に包まれた掌に掴まれ、強く引き寄せられた。

火薬の匂いが鼻を掠め、カカシの形の良い唇がイルカに寄った。

与えられた短い口付けは、昨夜の激しさが嘘のように、柔らかくイルカの唇を食んだ。

「なん、ですか・・・?」

この行為は。

この想いは。

「何だろうね」

その答えを、イルカは、カカシの濃灰の瞳の中に感じ取った。

絡み合った視線を互いに振り切って、二人は部屋の壁に向かい合った。

以前に見つけておいた壁紙の向こうの窪みをイルカが示すと、カカシは数秒の黙考の後、その窪みの、壁の中心を基準とした対称の位置を探った。

鈍い音が響き、壁紙が下からまくれ上がった。その向こうに、暗闇が細い口を開けて開いていた。

「おいで」

そう言って、カカシは躊躇うことなくその闇へ歩を進めた。

カカシの背を追い、人一人がようやく動ける細い階段を下りると、突き当たりをドアが塞いでいた。カカシがドアノブに指を当て、小さく印を結ぶと、カチリ、と音がして錠が開いた。

微かに埃の匂いがする狭い室内には、正面の壁に書棚、それに向かい合うように簡素な机と椅子が置かれていた。頼りなく揺れる裸電球がカカシの影を揺らめかせた。

カカシに続いて室に入ったイルカは、テーブルの上の書類に目を通すカカシの横を過ぎて、書棚の前に立った。

「その中の、先月と先々月のファイルを取って」

2段の低い棚には、日付らしきラベルを貼ったビニール製のファイルが整然と並べられていた。カカシの指示に従い、その中の2冊を抜き取ると、間に挟みこんであったと思しき写真の束が、ばらりと床に落ちた。

「・・・・・・」

写真を拾い上げたイルカは、その被写体に思わず息を飲んだ。

「・・・そっちだけじゃ意味が無い。こっちの対照表が必要」

カカシの声が、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚を感じながら、イルカは大きく息を吸って、吐き出した。ファイルの中身は、差込式のアルバムになっており、床に落ちたものと同じような構図の写真が、ファイルの中身すべてを埋めていた。

予想外の衝撃は、大きかった。

写真のどれもが、裸の子供や女性を被写体としたもので、しかも、彼ら彼女らに、眼を背けたくなるような姿勢を取らせているものまであった。

人身売買。

写真の横に書いてある数字は値段。アルファベットは、購入者のイニシャル。カカシが差し出した対照表と見比べて、その顧客が、政界、経済界に広がっている事が分かった。

これが、新興の葛眼製薬が、脅威の発展を遂げた原因の一つか。

「・・・だからですか?」

イルカは背後に立つカカシに言った。

「子供が絡んでいるから・・・俺が動揺して、正常な判断を下せないだろうと、そう考えたから、任務の内容を明らかにしなかったんですか?」

カカシは黙したまま、返事をしなかった。振り返ったイルカは、感情の読めないその表情を睨みつけた。ずかずかとカカシの前に立ち、腕を振り上げた。

ごっ、と鈍い音がした。イルカの拳を受けたカカシの頬が、見る見る赤く腫れた。

「・・・馬鹿にするなっ」

避けられたはずなのに。さらに激しい怒りに燃え上がった黒い瞳を見返し、カカシは呟くように言った。

「・・・オレが、あんたのそういう顔を見たくなかった。それだけ」

一瞬で、イルカの力が抜けた。

 

 

 

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