「お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」

落ち着いたのを見計らって体を離すと、イルカは驚く程丁寧な口調で頭を下げた。

「もう、大丈夫です。・・・先を急ぎましょう」

言葉とは裏腹に、その土気色をした堅い表情は、体調の悪さと心の不安定さを伝えてくる。しかし、これから戦場を越えるのだ。耐えて貰わないと困る。

「じゃあ、背負うよ」

カカシの提案に、イルカは小さく頷いた。

「あんた幾つ?」

「もうじき、十九です」

カカシの一歳下。だが、背に負った体は、その年齢にしては頼りなかった。衰弱し、筋肉が落ちている事を差し引いても、恐らく元々華奢な体つきなのだろう。

鬱蒼と生い茂る木立の中を、カカシはイルカを背負って南へ飛んだ。

最初こそ、カカシが高く跳躍する度に、肩に回ったイルカの腕が緊張したが、すぐにカカシの間合いを覚え、体から無用な力が抜けた。カカシに身を委ね、それでもどこか遠慮がちな気配が、背中から伝わってくる。カカシが暗部の面を被っている事には気付いただろうが、それには触れてこなかった。

「イルカ」

「はい」

「あんた、何を見たの?」

「・・・・・・」

「何がそんなに、あんたを怯えさせるの?」

「・・・分かりません」

嘘だ。だが、答えたくないのなら構わないとカカシは口を閉じた。任務には直接関係の無い事だ。カカシが気になった、理由はそれだけで、イルカを問い詰める根拠にはならなかった。

夜半を過ぎて、イルカの体調を慮って再び休憩を取った。

夜空に浮かぶ小さな月の位置から、まだ行程が遠い事を思う。カカシ一人なら三日で抜けられる森だが、自分とほぼ同じ体重の男を背負っていては、流石に足が鈍った。

「少しは眠らないと」

倒木の洞にイルカの寝場所を整えたカカシに、イルカが言った。

「二人一緒に寝入る訳にいかないでしょ?」

「そう、ですが・・・申し訳ありません・・・俺がこんななばっかりに」

見張りとしても役に立たないと俯くイルカからは、心底申し訳なさそうな様子が伝わってきた。その生真面目さが、カカシには妙に可笑しかった。

「いいから、寝なさいな」

イルカを横たわらせ、カカシはその枕元に腰を下ろした。

イルカが寝入ったら周囲を見回ってこよう。そう思っているうちに、再び、イルカがうなされ始めた。

「・・・っ・・・う・・・」

額に汗を浮かせ、丸めた全身をがたがたと震わせる。抱き起こすと、確かに眠っているはずなのに、まるで溺れる者が救いに縋りつくような激しさで、カカシの胸に顔を埋めてきた。

無意識に、人肌に飢えているのだ。

あの村で、イルカはたった一人で恐怖に耐えていた。恐らく自分の体温だけを正気の頼りにしていたのだろう。カカシに触れられる事を極端に拒んだのは、その反動か。

だから、再び人の体温の温かさを知ってしまった今、それをより強く求めてしまう。

「大丈夫だから」

そう囁いて、肩を強く抱くと、イルカの体の強張りがゆっくりと解れた。

イルカの呼吸が深くなったのを確認して、寝床に横たわらせようとしたが、イルカの指がカカシの装束を堅く掴んで離さない。

「参ったね・・・」

仕方なく、カカシはイルカを胸に抱き寄せるような形で、木の洞の縁にもたれかかった。

 

目覚めたイルカは、カカシの腕の中にいた事にぎょっとしたようだった。

「あの・・・」

「うなされてたから」

短く言うと、イルカは慌てた様子で体を離した。

馴染んでいた体温が離れた事で、早朝の空気が余計に冴え冴えと感じられる。カカシは軽く首と肩を回して、固まった筋肉をほぐした。

「ご迷惑をおかけして、本当に、申し訳ありません」

いたたまれない様子で、イルカが頭を下げる。

「いいよ」

「何か、俺に、できる事はありませんか?」

本当に、律儀な男だと思う。

「無いよ。黙って大人しく背負われてて」

「でも・・・」

悔しげな口調なのが、面白いと思った。

「まあ、実際、今のあんたの状況じゃ、出来る事って伽くらいしかないんじゃない?」

一本気なイルカがどんな反応を見せるか、軽い冗談のつもりだった。だが、

「あの・・・俺で、役に立つんなら、何でもします」

真剣な表情で答えてきたから、正直、呆れた。

「その・・・同性は経験がありませんが、な・・・何とかなると思います」

こういう手合は、底意のある相手に捕まるといいように利用されかねない。

「何でもだなんて、そういう事軽々しく言うんじゃないの。オレが悪い奴だったら、あっという間に餌食になっちゃうよ」

カカシの、軽口に紛らわせた嗜めに、イルカは眉を寄せて項垂れた。

「・・・俺は・・・自分の為に言ってるんです」

意外な言葉に、カカシは眉を上げた。

「どういう意味?」

まるで何かに挑むように、イルカは奥歯を噛み締めて言った。

「ただ、あなたに守られてばかりの自分が嫌なんです。俺も、忍だから」

「それはまた・・・自分勝手な論理だねぇ」

思わず、カカシは笑みを零した。

それ位の気概がなければ、忍として立ってはいけない。少しずれている気がしないでもないが、その根底にあるのは、どんな状況でも損なわれる事のない、木の葉の忍としての激しいまでの矜持だ。

カカシの笑いをどう取ったのか、イルカは、途端に顔を赤くし、小さく自嘲した。

「でも・・・伽なんて、俺みたいなのじゃ駄目ですよね・・・」

イルカの顔立ちは、数年経てば男らしく精悍に成長するだろうが、確かに、可愛いや美人という形容からは程遠い。おまけに鼻梁を跨ぐ大きな傷まである。

でも、とカカシはイルカの姿を改めて眺めた。俯いた横顔の耳元の白さや、首筋から胸元へのラインには、色めいた風情が無くも無い。ぼさぼさのまま無造作に結い上げている黒髪も、櫛を入れれば艶を得て情緒を誘うだろう。

やろうと思えば、方法も色々ある。そう思った自分に、カカシは少なからず驚いた。

だからと言って、今この場で手を出そうと思う程切羽詰ってはいない。第一、任務中だ。

「ま、その気持ちだけ貰っときます」

カカシはそう軽く応えて、朝食代わりの兵糧丸を取り出した。

 

前方に敵の姿を発見したのは、その日の夕暮れ近くだった。

巡回の隊らしく、少人数で南へ移動している。忍ではない一般兵で、こちらに気付いた様子は無かった。

近くに敵の拠点がある可能性がある。カカシは、倒木が折り重なった陰に、イルカを隠した。

「ここで待ってて」

「敵、ですか?」

「そう。ちょっと見てくる」

一瞬不安気に淀んだ表情を、気丈に引き締め、イルカは頷いた。

「もし」

もし、オレが戻らなかったら。

任務中いつも部下に言い渡す命令を口にしかけて、カカシは言葉を飲み込んだ。

もし、カカシが戻らなければ、イルカはどうなるのか。

光を失い衰弱したイルカの体では、一人でこの広大な森を抜ける事はほぼ不可能だ。敵に見つかれば、捕虜で幸運、嬲り殺される可能性が高い。

カカシが戻らない、それはイルカにとって死に等しい。

この無防備な命を守れるのは、カカシしかいない。

十分に承知していたはずのその事実が、ふいにカカシの胸に迫ってきた。

「・・・心配しないで。必ず、戻るから」

言いながら、その言葉が持つ重みを、カカシは痛い程に感じた。

音も無く森を飛び、敵隊が進むであろう先へ回り込む。敵軍の補給部隊と思しき集団が、カカシが進もうとしていたルートの付近で、野営の設営を始めていた。

恐らく、木の葉が部隊を派遣した軍が、戦線そのものを西へ押し込んでいるのだろう。無用な戦闘を避けるには、更に西へ迂回する必要があった。

カカシ自身とイルカの残存体力を思うと、状況は悪化したと判断せざるを得ない。カカシは急いで、イルカが待つ場所へ引き返した。

枯れかけた倒木の陰に蹲っていたイルカは、カカシの気配を感じ取って、弾かれたように顔を上げた。

「よかった・・・」

手を伸ばし、カカシの腕に触れてから、ようやく安堵の息をつく。その様子は、全身全霊でカカシを求めているように思えた。

正気と狂気の間を漂っていたイルカの心は、今だ危うい。だが、カカシの足手纏いにならないよう気丈に振舞うその様子は、いじらしさと、何より忍としてあろうとする心根の誇り高さを感じさせた。

守る。

カカシの中に、強い衝動が生まれた。

何があっても、イルカを守り抜く。

その感情は、任務という枠を超えて、カカシの心深くに根付き始めた。

「この先、ちょっときつくなるよ」

ドーピングした兵糧丸でも、そろそろ間に合わなくなってくる。「ここはまだ安全だから。少し、眠って」

だが、イルカは首を横に振った。

「・・・俺は、眠るのが、怖いんです」

悲痛な口調で告げたイルカは、自分の膝の上で、きつく両手を握り締めた。

「よければ」

カカシに真っ直ぐ顔を向けたイルカは、静かだが強い口調で言った。

「よければ、話を聞いていただけませんか?」

ようやく、イルカは、自分の身に起きた事を語り始めた。

 

 

 

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