3.

「カカシ先輩、そろそろ」

音も無く背後に立ったテンゾウが言った。

「分かってる」

夕闇に紛れ、カカシは街路樹の上から、側に立つアパートを見下ろしていた。

10歳を超えた他の孤児と同じように、ナルトはこのアパートの一室で一人暮らしをしている。先程、部屋に明かりが灯った。ナルトとイルカ、二人の気配が、カーテンの向こうに手に取るように感じ取れる。

野菜嫌いのナルトの食を進ませる為、イルカが今晩用意するのは鍋だ。はしゃいだナルトが食器か何かを引っくり返したらしい賑やかな音が上がり、イルカが苦笑交じりに叱る声が聞こえる。

イルカと二人で取る食事は、一楽のラーメンでなくともナルトにとっては特別だった。九尾の封印が秘されている以上、ナルトの扱いはあくまで他の孤児と同じ。養親ではないイルカの愛情と庇護を当たり前だと思わせてはいけないと、火影はイルカとナルトの同居を決して許さなかった。

「先輩、聞いていいですか?」

分かっていると言いながら、その場から動こうとしないカカシに、テンゾウが言った。

「何?」

「どうして、カカシ先輩がナルトに張り付いてるんです?護衛の任務、引き受けたんですか?」

「任務じゃない。護衛はそこにいる」

カカシは、アパートの屋上を顎で指した。

「じゃあ、何でここにいるんです?」

何でここに?

それは、カカシ自身が知りたかった。

ナルトと、イルカ。いや、カカシが見つめているのはイルカだ。

イルカがナルトを呼ぶ声。向ける笑顔、差し出す掌。そういったイルカの温かく優しいものに、心奪われている自分を、カカシは自覚していた。

欲しいのか。あれが。

だからこうして、闇に潜んで物欲しげに。

温かな明かりを映す窓から、カカシは断ち切るように視線を外した。

「・・・行くよ」

身を翻して走り出したカカシの後に、一息おいて、テンゾウが従った。

今日の任務は、テンゾウと二人だった。口数も多いが腕も立つこの後輩となら、きっと手早く終わるはずだ。そうしたら久しぶりに、馴染みの肌を愉しみに行ってもいい。

三代目に貰った新しい面は、まるでずっとカカシのものだったかのように馴染んでいる。

暗部所属の忍は同里の者にも身元を秘す。それは、写輪眼のカカシが現暗部隊長である事を明らかにしないという意味だが、それが拡大解釈されて、暗部の素顔を見るのはタブーだと言う噂になっている。あの夜、イルカが、二度とカカシを見ようとしなかったのは、その噂のせいだと、後になって気が付いた。それまで、避けるように逸らされた視線の意味をずっと考え続けていた自分が滑稽だった。

ならば、もし。

カカシが面を外して、はたけカカシとしてイルカの前に立ったなら、イルカは、ナルトに笑いかけるようにカカシにも、温かな笑顔を見せてくれるだろうか。

叶わぬ願いが脳裏を掠め、カカシは自分自身を苦く笑った。

たった一度視線が交わっただけで。ほんの数分、同じ空間で過ごしただけで。

これ程に焦がれる理由を知りたかった。

 

 

 

「恋でもしてらっしゃるの?」

馴染みの遊女は、長い黒髪が自慢だった。廓の派手な柄の布団の上に流れるその髪を指先で弄りながら、カカシは隣に横たわる女を見返した。

「・・・どうして?」

「心ここにあらずといったご様子。ましてや、そんな風に、悩ましげな溜息をつかれたりして」

体を返したカカシは、頬杖をついて苦笑した。

「よく、なかった?」

女は、それはこっちの台詞ですよ、と微笑んで、優雅な仕草で起き上がった。濃密な交わりで生まれ、籠っていた熱が、ゆっくりと引いてゆく。

「ねえ」

行燈の仄かな光に、艶やかな黒髪と赤い襦袢の間の、白い項が浮かび上がる。

「何ですか?」

「恋って、何?」

暫くの沈黙の後、ふふふ、と、密やかな笑い声が部屋の隅の闇へ溶けた。

「藪蛇でしたか」

何と答えてよいか分からない。女の細やかな情が、只の馴染みの客に対する以上のものだと、気付いていない訳ではなかったけれど。

「カカシさんでも、ご存知ない事があるんですねぇ」

振り返らぬ声は、隠しきれぬ哀しさを孕んでいた。

「まぁ、でも、この世で一番分からないものは、自分の心だと言いますし」

今までのお礼に、最後に教えてあげましょう。

「その人となら一緒に地獄に堕ちてもいいと思うなら、それが、恋」

その人の為に、一人で地獄に堕ちようと思うのが、愛。

お客さんの受け売りですけどねぇ、と女は微笑んだ。

ならば自分は、とカカシは思う。

名乗る事を許されない今は、イルカの側に行きたいという願いさえ身に過ぎる。

なら逆に、あの温かな存在を、己が潜む暗闇に引きずり込もうか。あの優しい瞳が、この暗黒の中でも輝いてくれるなら、きっと自分は、どんな道でも行ける。

だが、まさか、とカカシは首を振った。それは恋でも何でもなく、唯の獣の望みだ。

「・・・どちらにしろ、正気の沙汰じゃないね」

カカシの呟きに、女の背中が、細く震えた。

 

 

 

**********

 

 

 

カカシが三代目の私邸に呼び出されたのは、それから数日後のことだった。

「お主、イルカを覚えておるか?」

書斎で煙管を燻らせながら三代目が口にしたイルカの名前に、思わず動揺が透けた。

「どうした?」

笠の下の眼光が鋭い気がするのは、恐らくカカシの意識過剰だ。いいえ、と首を振って、

「・・・彼が、どうかしましたか?」

「うむ・・・」

珍しく三代目の口が重かった。暫く煙を吐き出した後、

「どうも・・・イルカの奴が、誰ぞに惚れたようでな」

奇妙な音をたてて、カカシの心臓が軋んだ。胸に重くどす黒いものが湧き上がる。

嫉妬だ。紛れもなく。

「本人は隠しておるつもりのようだが、そこは、な」

三代目の言葉が遠い。

相手は?アカデミーの同僚か?それとも受付の?

イルカがナルトに向ける穏やかな、慈しみに満ちた笑顔が脳裏をよぎる。あの笑顔が、ナルト以外に向けられるのか。ナルトに対するよりもっと特別な意味を持って。

目が眩みそうな苛立ちと焦燥を堪える為に、カカシは奥歯を噛み締めた。

「カカシ」

「・・・はい」

「イルカの想い人が誰か、お主が探って貰えんだろうか」

三代目の申し出は意外だった。

「オレが、ですか?」

自分でも、声が尖るのが分かる。

「なぜ、面識が無いに等しいオレが?もっと適任がいるでしょう?それに・・・あの人も、いい歳をした男でしょう。惚れた相手の一人や二人いたっておかしかない」

最後の言葉は、自分自身に言い聞かせるつもりで言った。

「分かっておるよ。あれは孫同然じゃが、恋路にまで口出ししようと思っているのではない」

ただな、と三代目は続けた。

「・・・ナルトの世話を頼んだ時に、こうなる事を危惧しておった」

今更じゃが、と呟く重い口調には、言葉以上の含みが感じ取れた。

「どういう意味ですか?」

問いかけたカカシに、三台目の表情は暗い。

「あれは、イルカは、子供の頃から不器用な子でな」

それだけ言って、三代目はため息と一緒に煙を吐き出した。やはり意味が分からない。

「・・・・頼めるか?カカシ」

笠の下で、三代目の細い目がカカシを見上げた。普段は好々爺めいた眼差しを見せる事もある老人は、今は、まるで暗部の任を授ける時のように、感情の欠片も見せない。

火影の頼みを断る理由は無い。何より、イルカの側に行ける。ならば、余計に。

「承知しました」

「助かる」

「ちなみに、相手の見当はついているんですか?」

三代目は、その問いに返事をしなかった。

 

 

 

久方ぶりに、支給の忍服に袖を通した。額宛で左目を隠して、口布を引き上げる。

10代の前半から暗部の任に就いていたせいで、昔からの馴染み以外はカカシを写輪眼のカカシと認識する者は殆どいない。顔の殆どを隠した胡散臭い姿にも、個性的な外見の者が多い木の葉の忍に慣れている里人には、特段珍しくも思われない。

夕日に照らされた道を、アカデミーへと歩き、授業を終えて帰宅するはずのイルカを、校門で待った。

枝だけを残す桜の木が風に揺れる下で、その気配が次第に近づいてくるのを、じっと感じ取った。

長い影が、カカシの足元へ伸びてくる。カカシが愛読書から顔を上げるのと、両腕に荷物を抱えたイルカが足を止めるのとは、ほぼ同時だった。

こうして間近で会うのは、あの夜以来だ。あの夜、両肩に下ろされていた黒髪は、仕事中はいつもそうであるようにきつく頭の後ろに結いあげられていた。日に焼けた精悍な顔の中心に走る傷。きっちりと着込んだ忍服と、規定通りに巻かれた額宛。

そして、カカシを捉える、黒く深い瞳。

紛れもなくイルカが、自分を見ている。そう思うだけで、震えそうな程高揚した。

「こんばんは。イルカ先生」

驚きにだろうか、イルカの瞳が僅かに見開かれるのを、口元が微かに震えるのを、じっと見守った。

「オレの事、覚えてますか?」

そう言って、カカシは、イルカの前に立った。

 

 

 

あの時は知らなかった。

 

ただ、嫉妬と不安に怯え、あなたへと溢れ出しそうな想いを堪えるのに必死だった。

 

もし、再び会う前に、あなたの心を知る事ができたなら、もっと違う未来があったかもしれない。

 

選んだこの道でそれだけが、たった一つの後悔。 

 

 

 

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