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4. 「イルカ先生!」 夕焼けの中を、金色の髪が駆けてくる。伸びた影が先に届き、ぶつかるような勢いで、ナルトはイルカに飛びついた。 「どうした、ナルト」 イルカにぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、ナルトはくすぐったそうに首をすくめた。今日はアカデミーは休みだが、受付に出ていたイルカを待っていたらしい。 受付の建物から出てきた忍が、二人にちらりと暗い視線を投げて行く。その視線から守るようにナルトの頬を両手で包み込んだイルカは、驚いたように声を上げた。 「ナルトお前、ほっぺた随分冷たいじゃないか。ずっと外にいたのか?」 ナルトは、その問いには答えず、 「一楽行こうぜ、先生!おれ奢るからさ」 にこにことイルカを見上げた。 「俺に奢るなんて100年早いって」 イルカは苦笑を浮かべた。 「第一、今日は約束があるって、言ってあっただろう」 「嫌だ」 短く言うと、ナルトはイルカの腰にすがりついて、忍服に顔を埋めた。 「行こうよ、先生」 くぐもった声で、ぎゅう、とベストを掴む。イルカの言葉を忘れていた訳ではないと、その仕草で分かる。 「ナルト」 イルカは、その手を取ると、しゃがんで視線の高さを合わせた。不貞腐れるというより、心細げな表情を浮かべたナルトに、柔らかな表情で、穏やかに言う。 「どうした?何か、あったのか?」 ううん、とナルトは首を横に振った。 「なんもない。けど・・・」 「けど?」 ナルトは、ぐ、と唇を噛みしめた。その小さな胸の中で、感情と道理の折り合いがつくのをゆっくりと待って、イルカは、その瞳をじっと覗き込んだ。 「先に、約束してるんだ。分かるよな」 「・・・うん」 「また、明日、学校でな」 「・・・うん」 じゃあ、と背を向けて、ナルトはとぼとぼと歩き出した。 「いいんですか?」 カカシは、門扉の影から出て、イルカの隣に立った。こちらへ駆けてくるナルトに気付かれないよう先に姿を隠したのだ。まだナルトに会う時期ではなかった。 「正直、分かりません」 イルカは小さく首を振った。その眼差しは、肩の落ちたナルトの影が路地の角に消えるまで、ずっとその背を見送り続けていた。 できるなら、と呟くように言う。 「ナルトが今まで味わってきた孤独を少しでも癒したいと思う。でも、この先この里で生きていく為には、盲目的に甘やかせる訳にいかない。その加減が、俺にはよく分からなくて。いつも悩みます」 最近少し我儘になってきたみたいで、と眉を寄せる。 大切に慈しみ、健やかに育つように心を砕く、心優しい人。 その物憂げな表情にさえざわめく心を隠しながら、行きましょうか、とカカシは言った。 イルカを誘い出し、酒と食事を共にするのは、もう何度目だろうか。 酒と料理が旨くて、イルカが躊躇しない程度に気安い値段で、しかも顔を隠しているカカシが寛げる個室のある店となると、自ずと限られてくる。今日暖簾をくぐったのは、新鮮な魚介と秘伝の味噌で焼いた海老が評判の、まだ若い夫婦が取り仕切る小さな料理屋だ。 「ビールでいいですか?料理はイルカ先生適当に頼んで下さい」 「はい。あ、地牡蠣がうまそう」 「いいですね」 奥の小さな座敷に通され、額宛を外しながら品書きを眺めるイルカを、カカシはそっと見遣った。 最初は、一緒に酒を飲んでも膝さえ崩そうとしなかったイルカが、今では寛いで胡坐をかき、自分を俺と呼び、カカシの話に大声で笑い、最後には酔ったと言って大欠伸も見せた。少なくとも、友人や同僚と同じ程にはカカシに心を許してくれているのだと思うと、カカシの胸はじんわりと温かくなった。 元々、覚えられている訳がないと思っていた。 たった一度視線が交わっただけ、ほんの数分同じ空間で過ごしただけだ。あの夜出会った事が、イルカの記憶に残っているかもしれないと期待するのは、イルカに対する自分自身の執着のせいだと思っていた。 だが、驚いた事に、自分を覚えているかと問うたカカシに、イルカは、三代目のお屋敷でお目にかかりました、と答えた。それからその黒い瞳でじっとカカシを見返して、 「何か、私に、御用でしょうか」 真っ直ぐなその視線に、カカシの心臓は更に脈を上げた。 「ナルトの事を、聞きたくて」 瞬間、イルカに警戒の色が強くなったのを覚えている。 自分が四代目の教え子だった事を告げても、その警戒は中々解けなかった。表面上は慇懃に対応しているが、いきなり現れてナルトの名を出したカカシの意図を知ろうとしているのが、折々に垣間見えた。 三代目の庇護があるとはいえ、たった一人で、里中に狐子と忌み嫌われる子を守っているのだ。他の忍や里人の対応を思えば無理からぬ事だと、カカシは辛抱強く待つつもりだった。 「側で守ることは叶わないけれど、せめて、ナルトが生きるこの里を守りたい。オレはきっと、その為に、生きているんです」 カカシの言葉に裏が無い事を感じ取ったのか、イルカが、飾らない朗らかな笑顔をカカシに見せてくれるようになるのに、そう長い時間はかからなかった。 「イルカ先生は、恋人とかいないんですか?」 二人の間の話題はナルトの事が中心だが、最近は、個人的な質問も口にできるようになった。三代目の依頼が無くとも、カカシには何より気になる事だった。 イルカが心を奪われた相手とは、一体どんな女なのだろう。 もし、その相手も同じようにイルカを想い、気持ちが通じ合っていたとしたら。 考えただけで、苦しい程の焦燥が湧きあがった。 イルカは、いいえ残念ながら、と首を振って、手の杯を干した。 「正直、ナルトの手が離れるまでは、難しいかもしれませんね」 さして深刻な様子も見せずにイルカは言った。 「じゃあ、もしかして、童貞?」 随分と極端なカカシの問いに、イルカは一瞬目を見開いた後、くく、と笑った。 「違いますよ。でも・・・」 「でも?」 「恥ずかしながら、任務でしか、した事がないんですよ」 鼻の傷を掻きながら、イルカは小さな声で言った。 「俺、恋人とか、好きな相手と、した事がないんです」 情けない話ですねぇ、と自嘲交じりに呟いた後、その黒い瞳が、ふいとカカシに向いた。 今まで見たことが無い程その瞳は頼り無く、どこか苦しげに揺らめいていた。一瞬睫毛が震えて、酒に濡れた唇が、物言いたげに微かに開いた。 無防備なような、張り詰めたような、その僅かな表情の変化を、カカシは吸い込まれるように見守った。 カカシの視線に怯えたように、イルカが瞼を伏せたその瞬間、カカシは、分かってしまった。 店を出て、やはりナルトが気になるとアパートへ向かったイルカを見送って、それからどうやって自宅へ戻ったのかよく思い出せないまま、カカシはベッドに潜り込んだ。 胸が、痛い程に鳴り続けていた。 信じられないという気持ちと、どうしよう、と初心な子供のように惑う心が入り混じって、浮き立つような高揚を呼んだ。 想像もしていなかった幸福に、カカシは溺れそうだった。 イルカと見つめ合ったあの瞬間に、カカシは、知ってしまった。 イルカが好いている相手は、カカシだ。 垣間見えたその感情は一瞬で、すぐに何時もの穏やかな眼差しの裏に隠れてしまった。だからこそ、それがイルカの秘めた本心だと分かってしまった。 イルカ先生が、オレを? あんな真面目で、朴訥とした印象さえあるあの人が、たった一度会っただけのオレを、三代目が気付く程に想ってくれていると? イルカの笑顔を思った。 ナルトを見つめる表情の優しさと温かさを思った。その欠片でもこの手に欲しいと願った夜を思った。 この胸の想いが、本当に、叶うというのだろうか。 嬉しくて。 この世すべてに感謝したくなる程、嬉しくて。 ベッドの中で何度も寝返りを打って、ようやく眠りに落ちる瞬間、脳裏をよぎった三代目の暗い表情を気にする余裕さえカカシにはなかった。 その夜だった。 カカシは、全身に、強烈な圧迫感を感じて眼を開けた。 息が苦しい。まるで、深い海の底に沈められた時のような酷い疲労感が残っている。 どういう事だ。ベッドから出て手早く身支度を整えながら、カカシは眉を寄せた。 眠りの中でも恐ろしい程確かに感じた。染みのように生まれ、みるみる膨れ上がり、すぐに掻き消えた黒く禍々しい力。 この黒いチャクラを、カカシは知っていた。 カカシが師と仰いだ金髪の男を失った夜、木の葉の里に轟いた悪魔の咆哮。間違えようもない。九の尾を持ったあの獣の忌わしいチャクラだ。 すぐに、暗部の一人が現れた。 「先輩、ナルトの処へ」 暗い予感を胸に、カカシは、ナルトのアパートへ向かった。 アパートの周囲は何事もなかったかのように、静かな眠りについていた。明かりの落ちたナルトの部屋に忍び込むと、奥の寝室に、大きな球体が浮かんでいた。 直径は2メートル程、表面はまるで油を流したかのようにてらてらと輝いて、内側は見えない。緊急用の局地結界だ。主に爆発物や汚染物を包み込み、外へ影響を及ぼさないよう使用される。 テンゾウを初め数名の暗部と三代目が、その結界の前に立っていた。 室内にナルトの姿はない。カカシも並んで結界を見上げた。 「ナルトは、中で眠っておるはずじゃ」 三代目が言った。笠の下の表情は常に無い程厳しい。 「護衛の対処が早かったお陰で、お主ら以外、他に気付いた者は殆どおらんだろう」 結界の下の畳には、布団が二組敷かれていた。一方は眠った形跡がなく、枕だけが、もう一組の布団の上に並んでいる。 まさか。 「イルカも、中じゃ」 カカシの心を読んだように、三代目が言った。カカシは目を凝らしたが、やはり、結界の中の様子は窺えない。 「何があったんです?あのチャクラは?」 カカシの問いに、三代目の声に苦渋が滲んだ。 「九尾が、封印を破りかけた」 まさか。思いもよらない言葉に、カカシは声を上げた。 「なぜ?」 ナルトの腹の封印は、四代目が命と引き換えたものだ。稀代の忍がその全身全霊をかけて綿密に組み上げた術式は、決して破られるはずが無く、また、破られる事が無いよう、三代目は細心の注意を払っていた。なのに。 「・・・なぜ・・・」 呟くカカシの隣で、三代目は、だたじっと、目の前に浮かぶ結界を見上げていた。 |
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