他には何もいらない。 ただ、あなたを想う自由だけを下さい。 3. 夢も見れない深い眠りから醒める時は、いつも頭が重い。 遠くで、自分の名を呼ぶ声を聞いた気がして、イルカはゆっくりと目を開いた。 視界は白く塞がれたままで、ぼんやりとした明るさしか感じない。イルカは目元に手を遣った。薬の副作用である頭の中に石を詰め込まれたようなこの感覚に、なかなか慣れない。 「・・・イルカ」 「はい」 返事をした声は、思ったより掠れていた。 「すまん。眠っていたか」 労わる声は、五代目火影のものだ。身に染み付いた習性が意識を覚醒させた。 「大丈夫です」 起き上がり、綱手の声が聞こえる方へ顔を向けた。感覚が確かなら、イルカが顔を向けた方向にはドアがあり、綱手はその向こうに立っている筈だ。 綱手がこの部屋に入る事を拒んだのはイルカだった。綱手は直接の面談を望んだが、不測の事態が起きて、五代目火影の身に何かあっては悔やんでも悔やみきれない。 常に影のように付き従うシズネの気配も感じ取りながら、イルカはベッドから立ち上がった。寝乱れた夜着を無意識に直しながらドアの前に立つ。 「カカシから、任務完了の式が来たよ。もうすぐ、里に戻る」 待ち侘びていた筈の知らせだった。喜びと、それと同じだけの名付け難い感情の嵐が、胸の中を吹き荒れた。 カカシが戻ってくる。もう二度と会う事も許されない最愛の男が。 「・・・はい・・・あの」 「大丈夫だよ。怪我をしたという報告は受けてない」 良かった。安堵のため息を零したイルカに、綱手の声が静かに告げた。 「戻ったら・・・お前の事は諦めるよう伝える」 全身が、しん、と冷えたような気がした。 はい、と答えなくてはならないのに、言葉が詰まる。覚悟はとうにできていたはずだったのに、足が、全身が、震えて仕方が無い。 「落ち着いたら、カカシには・・・妻を娶らせようと思う」 妻。言葉は鋭い刃となってイルカの心を引き裂いた。握り締めた拳、爪が掌にぎりぎりと食い込む。 嫌だと叫びたい。あの人は俺のものだと、他の誰にも渡さないと喚きたい。 「イルカ」 「・・・大丈夫です」 イルカは用意していた答えを振り絞った。噛み締めた唇から零れる声が、低く歪む。 「しかし・・・それでは、お前が」 「約束したはずです。五代目」 綱手の言葉を遮るように、イルカは声を上げた。 「これから先、二度と会う事が許されないなら、せめて、カカシさんを想うよすがを下さい」 あの人の行く先を、傍でずっと見つめていたかった。 「この願いは、もう叶わない・・・だから、教えて欲しいんです。カカシさんのこれからを、全部」 それが、喪失の苦しみと孤独の悲しみしか生まなくとも。 思い出だけでは、この白い闇は、辛すぎる。 綱手が立ち去った後、ドアが静かに開く音がした。 「・・・大丈夫か」 かけられた男の声に、頷いた。 ドアが閉められ、密やかに鍵が閉まる。手を取られ、ベッドに腰掛けるよう促された。かちゃかちゃと、金属とガラスが触れ合う音がして、ぎしり、と、イルカの隣のマットレスが沈んだ。 微かに薬草の匂いがする、ひんやりとした指が触れ、イルカの目に巻かれていた包帯が解かれた。 開いた視界、いつものように、表情の薄い男の顔があった。その顔が、やけに揺れて見える。 「・・・泣くな」 言われて、イルカは、自分が泣いている事に気が付いた。 「ごめんなさい・・・せっかくの薬が、流れちまいますね」 笑おうとしたが、戦慄く唇が言う事をきいてくれない。 「違う」 男は苛立ったように首を振った。涙を吸った包帯が、脇のテーブルに置かれる。 「そんな風に、全部自分のせいみたいに諦めた顔で、泣くな」 男の両手が、イルカの頬を包み込んだ。流れ落ちる涙の雫が、指先で拭き取られる。優しく落ち着いた仕草に、イルカはゆっくりと息をついた。 「恨まないのか?」 イルカの頬を撫でながら、男が言った。 「運命を憎んで、喚き散らさないのか?」 どこか苛立ちに似たものを滲ませた言葉に、今度は自然に、微笑みが浮かんだ。泣いて喚いて恨み抜いて、それで元の自分に戻れるなら、血の涙が流れようと喉が裂けようと泣き叫び続けるだろう。 だが、どうあっても、この運命は変わらない。 諦め、というにはまだ生々しすぎる。ただ、どうしようもなく、悲しい。 「・・・優しいんですね」 イルカの答えに、男は、どこか苦し気な表情を浮かべた。 「そうやって、拒むんだな」 「え?」 「何でもない」 男はイルカの顔から手を離し、立ち上がった。運んできたワゴンを引き寄せると、いつものように検査の準備を始めた。 男の名はオウミといった。 耳にかかる深い藍色の髪、医療忍の制服を纏った身体は、イルカより幾らか高い。整った理知的な顔立ちは表情の変化に乏しいが、その声は、男の内面を映して感情豊かだとイルカは思っていた。 振り返ったオウミが、再びイルカの隣に座った。動きに淀みは無いが、オウミの両瞼は固く閉じられて開く事は無い。それが、唯一オウミだけが、直接イルカと会う事ができる理由だった。 オウミの手が、イルカの手首を取った。時計を耳に当て、脈を測り始める。医療忍にしては傷の多いその手には、クナイだこの痕が残っていた。繊細な動きをするその指は、現役の頃は、目にも止まらぬ速さで印を結んでいた事だろう。 オウミが元戦忍の上忍だった事を知ったのはいつ頃だったかと、イルカは差し出された体温計を咥えながら思った。 初対面は、とにかく最悪だった。 自分が診ると言った綱手を拒み、シズネもサクラも拒否したイルカに、検査係兼世話係として付けられたのがオウミだった。 「心配は無用だ」 最初、サクラ達と同じように拒んだイルカに、ドアの向こうでオウミは言った。 「戦忍だった時に敵に捕まって拷問を受けた。眼球を抉り取られている。この瞼の内側には、何も無い」 だから、心配する必要はない。重ねて言って、オウミは、イルカの返事を待たずにドアを開いた。鍵を閉め、視力が無いとは思えない歩みで、ベッドに座るイルカの前に立った。 「五代目は、御存じなのですか?」 医術研究所所属だというオウミの事を、先に来た時綱手は何も言っていなかった。 「了承は貰っている」 声音は穏やかで、瞳を閉じた表情は静かだった。だが、目の前に立つその姿に奇妙な威圧感を感じて、イルカはベッドに座り直した。 「検査は勿論、身の回りの世話全般、面倒をみるよう、指示されている」 「・・・どういう意味ですか」 返事は無く、いきなり、両肩を掴まれた。 そのままベッドに押し倒され、イルカは茫然とオウミを見上げた。 「な・・・にを」 「はたけカカシの、オンナだったんだろう?」 かっ、と頭に血が上った。 「違う!」 「違うのか?」 問い直され、イルカは唇を噛み締めた。 「・・・違います」 同性同士、上忍と中忍、里の誉れとアカデミー教師。その表面だけを見る口さがない連中に、影で何と噂されていたか位知っている。愛人やら、囲い者やら、どうやってあの女誑しを籠絡したのか、カカシの気紛れがいつまで続くかと、直接あげつらわれた事もある。 真実は二人だけが知っていればいい。ずっと、そう思っていた。カカシの側で、彼の人生に寄り添えるなら、人にどう思われようと構わなかった。けれど。 「はたけカカシに抱かれていたなら、もう、女は、相手にできないだろう」 淡々と告げられた言葉が孕む意図を、悟らざるを得なかった。見下ろしてくる無表情に、恐怖と嫌悪が沸き上がった。 「触るな・・・っ!」 渾身の力で、オウミを払いのけようとした。だが、両手首をシーツに縫い止められ、膝で両腿を押さえられ、身じろぎもできない。全身を強張らせ、イルカは呻いた。 「随分可愛がられていたと聞いている。自分で慰めるのも物足りないだろう」 易々と奪われた自由と、蔑みの言葉。余りの屈辱に、目の前が赤く染まった。 「離せ・・・っ」 絶対に折れたくない。息をついて、怒りで震える声を振り絞った。 「離して下さい。あなたの思い通りになんか、なりたくない」 オウミの表情が、僅かに動いた。意外な言葉を聞いた、とでもいうように首を傾げ、 「・・・お前」 更に力が籠ったオウミの手に、イルカは短く息を詰めた。きつく掴まれて指先が冷えたが、視線はオウミを跳ね付けた。 「どこで何を聞いたかは知りませんが、俺は・・・」 カカシだったから受け入れた。常識に戸惑い、矜持が胸を刺しても、カカシに求められた喜びが全てに勝った。だから、他の誰も、代わりになるはずがない。 「すまない」 そう言うと、オウミはイルカの上から退いた。 「誤解だった。すまない」 イルカは、振り切るようにベッドの上を後ずさり、オウミを睨みつけた。 「誤解?」 手首がじんじんと痛んだ。情けなさと悔しさで、胸が燃える。だが、 「お前を貶めるつもりはなかった。申し訳ない」 驚く程素直に頭を下げ、謝罪を口にしたオウミに、戸惑いが湧いた。 「・・・何なんですか・・・どんなつもりで・・・」 頭を上げたオウミは、真っ直ぐイルカに顔を向けた。 閉じられた瞳、だが、なぜか、じっと見つめられているような気がして、イルカは更に当惑した。 「その問いには答えられない」 拒絶の声音で、オウミは答えた。 「だが、おれに代われる者がいない以上、おれを拒否する事は許されない」 「・・・・・・」 「悪いが、おれで、我慢してくれ」 以来、オウミは毎日イルカの元を訪れていた。 名目は、検査係兼世話係だが、イルカは自分で身の回りの始末ができるから、日々の体調検査と投薬、ドアの前まで運ばれる食事の受け渡し、書物等イルカが望んだ物の差し入れが主な仕事となっていた。 当初は警戒に身体を固くしたイルカだったが、献身的にさえ思えるオウミの実直な態度に、次第に緊張が解けた。今では、薬の副作用のせいもあるが、オウミに見守られて眠りにつくこともある。 イルカの住む部屋に窓は無い。常に蛍光灯の灯りに照らされた室内は、時計を見ても昼夜の感覚が掴めない。だから、オウミが来る8時が朝で、オウミがまた明日と言う8時が夜だと、イルカは勝手に判断していた。 この部屋に住み始めてから数週間、イルカの世界と外を繋ぐのは、綱手の声と、オウミだけだった。 「・・・もうすぐ、はたけカカシが戻ってくるんだろう?」 検査結果をボイスレコーダーに吹き込んだ後、オウミが言った。 「はい。怪我も無いそうです。・・・よかった」 イルカの返事に、オウミの口元が僅かに歪んだ。 「初めてだ。お前の、そんな顔」 見えなくても分かる。そう呟いたオウミの横顔は悲し気だった。 「そんな顔で、笑えるんだな」 二度と会えない男が、そんなにいとおしいか。 |
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