7.

冷たく、硬く、空気が凍った。

「答は分かっているよな」

カカシは静かに問いかけた。

「はい」

「オレはお前を殺したくない」

「僕も、殺されたくはありません」

見返すテンゾウも、動揺した様子を見せない。

張り詰めた空気の中、綱手がテンゾウ、と呼びかけた。刻み込まれた眉間の皺が綱手の怒りを伝えてくる。綱手がどれだけの労力を注ぎ込んでイルカの眼の原理を解明しようとしていたか、テンゾウは側で見て知っていたはずだ。だがそれ以上に、この行為が、重要情報の秘匿という里への裏切りと取られかねない行動だと、理解できない訳ではないだろう。

「申し訳ありません。罰は受けます」

テンゾウは綱手に向かって深く頭を下げた。その態度が、すべてを理解した上でだと示している。コケにしやがって。綱手は小さく舌を打った。

「この巻物は、大蛇丸が研究施設を廃棄する際に、僕が秘密裏に確保したものの一部です。相手のチャクラを吸収する特殊な呪印の開発研究について書かれています」

何度も読み込んでいるのだろう、テンゾウは淀みなく話し始めた。

「被験体は3歳の男児、遺伝形質に際立った特化も劣化も見られずとありました。優秀な忍を生み出す為、近親婚によって遺伝子を特化させる事はどの里でも行われています。おそらくそういった遺伝的な歪みが無かった為に選ばれたんでしょう。呪印に影響を及ぼす因子がより少ない方が、呪印の精度を正確に測定できますから」

そしてテンゾウは、室の奥にある鋼鉄の扉に視線を遣りながら言った。

「被験体に名前の記載はありませんが、恐らく、この子がイルカさんです」

綱手は、何度も眼を通したイルカの履歴を記憶の中で反芻した。その年齢の頃、イルカが一時的にでも行方不明になっていたという記載は無い。だが当時は第二次忍界大戦と第三次忍界大戦の間だ。動ける忍は各地で勃発する戦いに駆り出され、里の治安は酷く荒れていた。人の履歴に限らず様々な記録が正確に残されていない例が多々ある。当時を知る三代目やイルカの両親が鬼籍にある今、事実を確認する事は難しいだろう。

「遺伝子レベルで操作された僕とは違って、イルカさんは、瞳に直接呪印を刻まれたと考えられます」

テンゾウは淡々と続けた。

「実験の最後は失敗で終わっています。大蛇丸は失敗した実験には興味を失いました。被験体は、密かに始末されるか、記憶操作を施されて里に戻されたようです。恐らくイルカさんも、失敗だと思われて家族の元に帰された」

「だが、本当は、失敗ではなかった。発動条件が整っていなかっただけだった」

綱手はカカシに向き直った

「お前と一緒にいる事で、はからずも、イルカの呪印は写輪眼の影響を受け続けていた。具体的にどう作用したのかは分からんが、一か月前、ついに条件が整って、呪印は発動した」

綱手とテンゾウの遣り取りの間、カカシはその無表情を変えず、まるで彫刻のようにテンゾウを見遣っていた。濃灰色の瞳はぞっとする程凪いでいて、怒りや苛立ちが見えない事がその計り知れなさを増した。

殺してでも奪うと言ったカカシに、テンゾウは殺されたくないと答えた。

「・・・抵抗するって事だと、思っていいよね?」

かちり、と、ほんの微か、カカシの手の中でクナイが鳴る音がした。

ぶつかり合った視線を立ち切ったのは、テンゾウだった。

「どうするか、決めるのは僕じゃない」

そう答えると、テンゾウは瞬身で姿を消した。

 

 

 

鬱蒼と生い茂った樹木の間に、晴れ渡った空が見える。

第44演習場、通称死の森と呼ばれるこの樹海で、暗部の日常的な訓練は行われる。敷地は広大だが、生息する獣の縄張りから生えている木々の枝ぶりまで、嫌でも記憶してしまう程に馴染みの場所だ。

広範に張った結界に触れた存在を感じ取り、テンゾウは閉じていた目をゆっくりと開いた。

しっかりした足音が次第に近付いて来た。テンゾウが腰を下ろす大木から数メートルの所で立ち止まる。

「テンゾウさん」

この青空のような、朗らかな声。

「こちらへは向かないで下さいね。今、俺は眼隠ししていませんから」

「分かっています」

テンゾウの返事に、

「驚かないんですね」

意外そうに声が答えた。

「あなたが来るんじゃないかと思ってましたから」

イルカさん。そう名を呼んで、テンゾウは青く晴れた空を見上げた。

「いい天気ですね」

ざり、と小さく土を踏む音がした。イルカが、巨木の根元、テンゾウが座る反対側に腰を下ろしたのを感じた。

「こうして外を出歩くのは久しぶりです。気持ちがいい」

大きく伸びをしたらしいその明るい声音から、孤独な監禁状態もイルカの性状を損なうものでは無かったと知って安堵する。薄暗い洞穴の奥よりも、晴れ渡った青空の下がずっとイルカには似合っていた。

森に住む獣は、結界を嫌がって近寄って来ない。吹く風が春の気配を運んで、テンゾウの投げ出した足元の若葉を揺らす。

「僕には本当の名前がありません」

テンゾウは、空に向かって話し始めた。

「生まれた時から、暗部に入ってテンゾウという名を貰うまで、研究対象としてずっと番号で呼ばれてました」

イルカの気配が曇ったのを感じて、テンゾウは口元を緩めた。

「それを嫌だとか辛いと思った事はありません。そういうものだと思っていましたから。だから、家族というものにも縁がありませんし、友人もいません」

テンゾウにあったのは、自分を研究対象としてしか見ないガラス玉のような眼だけだった。後は、自分よりも弱い上官と、足手纏いとしか思えなかった部下。

「暗部に入って初めて、僕は僕より強い人に出会いました」

この森で、手も足も出ないまま地に倒された時の記憶は今も鮮烈だ。

「その人に認めて貰いたい。それが、僕が生まれて初めて抱いた願望でした。その人に背中を任せて貰った時、信頼される喜びを知りました。勇気、寛容、誇り・・・僕は、先輩に、いろんな事を教えて貰いました」

イルカはじっと、テンゾウの話を聞いていた。決して口には出さなかったが、イルカが、カカシとテンゾウの関係に思う所を抱えている事は察していた。

イルカが心配するような事は何も無い。ただ。

「暗部時代の先輩がどんなだったか知ってますか?」

イルカは、いいえと答えた。

「俺が知っているカカシさんとは、違っていますか?」

「別人かと思う位」

テンゾウは小さく笑った。

「あなたが先輩を意識し始めた頃には、先輩はもうあなたを好きになっていたんでしょうね。久しぶりに会ったら、雰囲気が驚く程変わっていた」

他人に対しては無関心が混ざり合った寛容を示しながら、己には酷く厳格だったカカシは、随分と穏やかな顔で笑うようになっていた。撒き散らしていた刃物のような険はなりを潜め、飄々とした無造作な優しさに変わっていた。

唯一人を深く想う喜びと苦しみが、カカシを変えていた。

中忍であるイルカは、カカシが己の立場と技術を使えば簡単に手に入れられる。だがカカシは、決してそのような真似はせず、ただ一途に一心に、傍から見れば滑稽な程健気に、イルカを想い続けていた。

そして、二人が心を通じ合わせ、固く深く結びついていく様を、テンゾウはずっと見ていた。

青空を見上げたまま、テンゾウは、静かに言った。

「大蛇丸の実験の生き残りは、恐らく、僕とあなただけです」

名前も無い、家族も無い、でもそれを寂しいと思った事なんか、今まで一度も無かったのに。

「あなたとの、この世界でたった一つの繋がりを知った時、不覚にも、望んでしまったんです」

特別。

「他の誰も代わりにならない、唯一。あなたが僕の、それになってくれないだろうかと」

先輩にとってのあなたが、かけがえのない存在であるように。

「僕に孤独を教えたあなただけがこの寂しさを癒せるんだと、思ってしまったんです」

テンゾウが口を閉じると、長い沈黙が流れた。

そこにイルカの困惑を感じとって、テンゾウは苦笑した。

「本当に、ごめんなさい。あなたにしたら迷惑なだけだって分かっています」

ただ、望んでみたかった。今も憧れ続けるカカシを、あんなにも変えた存在を。

「・・・結局、僕は、先輩になりたいのかもしれません」

テンゾウさん、とイルカが呼びかけた。

「食べ物で、何が好物ですか?」

「え?」

「食べられないものは、ありますか?」

戸惑うテンゾウに、

「俺の料理なんで味は保証できませんが、それでよければ」

いつでも、食べにいらして下さい。イルカはからりと、明るい声を返した。

思わぬ言葉に、

「・・・今度こそ、僕は先輩に殺されますね・・・」

声が、心が、震えた。

「俺がいいと言ってるんですから、カカシさんに文句は言わせません」

軽口に飾られた、深い思いやりに満ちた声。

「俺はカカシさんのものですが」

友人として、あなたの役に立ちたい。

「大した事はできませんが、帰って来たあなたに、温かい飯を作る位、何でもないです」

イルカの言葉が、テンゾウの胸の奥へ染み込んで、温かく広がっていく。

それは確かに恋ではなく、それでも確かに、かけがえのない繋がり。

その先にあるのは、まるで家族が待つ家のように、ただいまと、言っていい場所。

・・・あぁ、だからあなたは、あんなにも、このひとにひかれているんですね。

テンゾウは空を見上げた。

「僕の好物は―――」

その青が更に深まったのは、決して気のせいではなかった。

 

 

 

「この巻物ですが」

テンゾウが言った。

「僕が責任を持って五代目に渡します」

信じてくれますか、と問うてきたテンゾウに、

「当たり前でしょう」

イルカは笑った。

「では、俺は先に戻っています」

立ち上がったイルカを、テンゾウが呼び止めた。

「イルカさん」

「はい」

「目を閉じて貰えませんか」

「え?」

「早く」

不意に、背後から伸びてきた腕が、イルカの首に回った。

そのまま締め上げるように拘束される。抵抗しようともがいたイルカは、喉元に冷たい切っ先を感じて息を詰めた。

「・・・どうするつもりです?」

きつく閉じた視界の向こうで、テンゾウが言った。

「巻物を渡してくれ」

聞き慣れた声に、イルカは思わず身を捩った。

「オウミさん?」

「動くな」

圧迫が強まった。両目を失っていても元上忍、イルカを拘束する力に隙は無く、イルカは痛みと息苦しさに眉を寄せた。

「里内で、同胞に恐喝と暴力行為ですか?」

テンゾウが言った。

「五代目に知られれば、ただでは済みませんよ」

「貴重な力が失われるより、はるかにましだ。第一、五代目は甘すぎる。何が里にとって重要なのかも理解していない。里の利益の前には、個々の忍の情動など・・・取るに足りない」

忍は里のものだ。淡々とオウミは言った。

「巻物を渡せ。里にとって重要なのは、うみのイルカよりも、この目だ」

故にイルカを傷つける事に躊躇はないと、鋭い刃先がイルカの喉に更に喰い込む。

「元が普通の眼なら、眼球移植は写輪眼より簡単だろう」

「移植先はあなただと、確約でも貰いましたか?」

「・・・・・・」

「でも、あなたも本当は、イルカさんを傷つける事を望んでいませんよね」

テンゾウの問いかけに、ほんの僅か、オウミの気配が乱れた。

「イルカさん」

テンゾウが呼びかけた。

「分かっていると思いますけど、どんな事があっても目を閉じていて下さいね」

言われるまでもない。頷いたイルカを、次の瞬間、衝撃が襲った。

耳元で呻き声が上がり、喉元を拘束していた腕が解けた。

思わぬ事態に驚きながらも、前へ逃れようとしたイルカの腕を、別の力が捕らえて引き戻す。

まさか。イルカは思わず声を上げそうになった。よろめく体を返されて、断固とした力で抱き寄せられる。

絶対に間違えようが無い。数えきれない程抱き合って、その筋肉の一筋一筋の動き方さえ、身体が覚えてしまった相手。

大きな掌に後頭部を優しく押さえられて、押し付けられた忍服の肩口は、こうして何度も嗅いだ過酷な任務で染み付いた乾いた土の匂い。

「先輩お願いします」

テンゾウの言葉に、

「お前に言われるまでもないよ」

答えるその声が、僅かの隙間も許さない程に触れ合った場所から響いてくる。

イルカの心を揺さぶる、深く優しい声が。

「カ・・・カシさん・・・っ?」

震える声で問いかけたイルカに、

「うん、ごめんね」

絶対に離れないで。

きつく抱き締められたまま、ふわ、とイルカの身体が宙に浮いた。

 

 

 

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