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「イルカ」 呼ばれて、顔を上げた。呼んだくノ一の顔を見て、覚悟を決めた。 「イビキさんがお呼びよ」 その名前に、アカデミーの職員室が一瞬静まった。木の葉の拷問・尋問部隊長の名は、その任の特殊性と彼自身の実力から、周囲に独特の緊張と畏敬を抱かせた。 遂に、来たか。 後お願いします、と隣の席の同僚に声をかけ、俺はくノ一の後に続いた。 二日前、一人の上忍が里抜けした。 男の里抜けを綱手様に知らせたのは、俺。 追捕の任を負ったのは、上忍の中でも抜けた実力を備えたはたけカカシ。 絶対に逃げられない。そう思った。 男の先にあるのは、確実な死。 俺は、平静であろうとする自分の心の動きに、己の動揺の深さを知った。 里を抜けたのは、俺が昔、愛した男だった。 里を抜ける前の夜、あの男は、数年ぶりに俺の部屋を訪ねてきた。 男に深く抉られた心の傷は、本人を前にしても、もう血を流す事はなかった。愛していると告げて、気持ち悪いと拒まれた過去は、互いにただの過去でしかなかった。 だが、己がつけたその傷が、癒えてさえ俺の心を歪に引き攣らせている事を、男は知りもしなかっただろう。 「この里は好きか」 男は俺にそう問うた。 「愛する人と里、お前はどちらを取る」 そうも言った。 「里を取る」 俺の返事に、男は微かに眉を寄せ、薄く笑った。 男が俺に何を期待したのか、今ではもう、考えても意味がない。 追捕の任から戻ったはたけ上忍に、男が自爆して死んだと聞かされた。 その時胸に湧きあがった思いが何だったのか、俺は未だに名付ける事ができない。 くノ一に案内されたのは、イビキさんの部隊長室だった。 彼の前のソファーに腰を下ろした俺に、イビキさんは白い封筒を差し出した。 「お前宛だ」 受け取った封筒には、表書きも何も無かった。 「奴の部屋にあった。随分前から里抜けの準備をしていたようだ」 イビキさんの声にも表情が無かった。 「特定の人間との個人的な繋がりを示すものは、周到に処分されていた。ただ、お前宛のそれだけが、部屋に残されていた。無論、開封して念入りに調べてある。その上で、書かれた言葉の意味以上のものはないと判断した。本来なら焼却処分するべきものだが・・・」 そこで初めて言い淀んだイビキさんに、俺は顔を上げた。 「・・・郵送しなかったのは、お前に余計な迷惑をかけたくなかったからだろうな」 里抜けした忍と繋がりがあるとなると、その人間も徹底的に調べ上げられる。俺もその覚悟をして、イビキさんの元へ来た。 だが、イビキさんは、唸るように言っただけだった。 「・・・イルカ、すまん」 何故謝る。 何に謝る。 俺は、薄暮の中に白く浮かび上がるその封筒を、だたじっと見つめ続けた。 遠く山際に沈む夕日が、あまりに赤くて身震いがする。 吹く風に乗って落ち葉が舞い踊る中、俺は慰霊碑を見下ろした。 あの男の名が、ここに刻まれる事は決してない。その身は滅び、里は公の記録からその存在を抹消した。 骨も残さぬ忍の最後。ただその名だけがここに刻まれ、それが唯一の栄誉であるはずなのに。里を抜けて死んだ忍は、その死を悼む事さえ許されない。 それでも、以前は確かに誇り高い木の葉の忍だったあの男を思う場所を、俺は他に思いつけない。 俺に残されたのは、忘れたいと願った記憶と、手の中の手紙のみ。 俺はポケットからライターを取り出して、火を灯した。封筒をその上にかざし、赤い炎が燃えつくのをじっと見つめた。 かさり、と地に散った落ち葉が鳴った。 「読まないの?」 背後からかけられた声に、ほっとしたような気持ちになったのは何故だろう。 いつの間にか、銀色の髪をした上忍が、俺の後ろに立っていた。 この男はいつもそうだ。 始まりは、特別な思い入れのある教え子を介したとはいえ、確かに、只の上忍中忍の間柄だった。それが、いつの間にかこの男に、全く別の色へと塗り替えられてしまっていた。 あなたが好きだ、オレのものになって下さい。階級も歳も下の俺にそう頭を下げて、この男は愛を請うた。何度拒否しても蔑んでも、口癖のように伝えられる真摯な想いに、俺は溺れそうだった。 もう二度と、人を好きになる事はないと思っていた。 古傷を庇い、傷つく痛みを恐れる心は、もう誰かを信じる事などできない。そう決意ではなく実感として俺の中にあった、はずなのに。 いつの間にか。この男は。 「読んでも、どうしようもないですから」 俺は、炎に包まれた封筒を手放した。それは空中で一度赤く燃え上がり、瞬く間に黒く砕け、風に乗って夕焼けの中へ飛んだ。 「もう、終わった事です」 「よかった」 はたけ上忍はひっそりと言った。 「死んだ奴には敵わないからね」 そして、俺の隣に立ち、慰霊碑を見下ろした。 「オレならきっと、無理矢理にでもあなたを連れて行きますよ」 敢えて考えないようにしていた事を、この男はあっさりと言った。 「・・・あなたは、里抜けなどしないでしょう」 「そう、ですね。唯一の理由になりそうなのが、あなたですし」 並んだ肩から、労りと、深い色をした彼の熱情が伝わってくるような気がした。 この男の何に侵食されて、俺はこうして、こんなにも、心をざわめかせているのか。 その問いが答えになる前に、認めたくなかったなんて考えている自分は、何て愚かで滑稽なんだと、ぼんやりと思う。 ふいに。 過去とはいえ確かに愛していた男の死を聞いても零れなかったものが、目の裏に熱く滲んだ。 「・・・何で、俺なんか」 愚かな俺の、子供の甘えのような言葉に。 「あなたがいいんです」 どうしてそんなに迷いなく、永遠を信じられるような力強さを返してくれるのか。 冷気を含んだ風に銀色の髪をなびかせ、灰色の右目を柔らかに細めて立つ、美しい男。 まるで、今ここで、初めて会ったような気がするのは。 それは、きっと。 「・・・仕方ないですね」 俺の言葉に、はたけ上忍は一瞬動きを止めた。それから俺の顔を見て、右目を大きく見開いた。 「仕方ないって、それは、どういう」 俺は、返事をせずに背を向け、里への道を歩き出した。 「イルカ先生」 彼が俺を呼ぶ声が、僅かに色を変えた。 きっと。 数歩も行かぬうちに、追いかけてきたその腕に抱き寄せられる事を。 心の内にはっきりと形を成してしまった、情熱というにはまだ淡い、しかし確かな熱量をもったこの感情を彼に知られてしまう事を。 北風の中、甘い胸の疼きと共に、俺は、予感した。 060222 「情熱15:before」 → 「情熱18:after」(本作) → 「うたえ こいのうた」 → 「それはあいとおなじ」 続いているような、いないような。 |
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